goo blog サービス終了のお知らせ 

諫早湾干拓事業の判決

2022年03月25日 09時21分50秒 | 国を憂う
今日福岡高裁で差し戻し裁判の判決が出る。1997年に完成した干拓堤防を漁業者が「開門せよ」と要求して裁判に。一方干拓農地での農業者は「塩害がでる」と「開門反対」で裁判に。裁判所から「開けなさい」「開けてはいけない」の反する判断が出てる、実にややこしい案件だ。
実際はこんな簡単な話じゃなく、複雑に入り込んだ話なのだ。ここで「こっちが正しい」と言う気はない。僕が言いたいのは「責任者は国だ」、国は裁判所任せにせず、利害者の間に入って解決する道を取るべきということ。結局農業者、漁業者間で利害の調整をして、まっ「痛み分け」みたいなところで決着させるしかないはず。じゃないと、泥沼化しそうじゃないですか。
にも関わらず、国が全く出て来ないのが気になる。国は「自分が責任者」と考えているのだろうか? そう捉えているなら「どういう解決案」をもっているのか?
そもそも「時の内閣」はこれを解決しようという考えを持っていたのだろうか。お手上げで、「君子危うきに近寄らず」と決め込んできたのではないか。今の岸田さんにしても自分の代で解決しようとは考えてないのでは。「次の代でやってよ」なんじゃないのかな?

ここで視野を広くしますね。日本社会の中に「諫早問題」のように「国が解決しないといけない案件」がゴロゴロしてる。年々増え続けてるようにも思う。それが気になる。「北朝鮮拉致問題」「福島汚染水処理問題」「原発の廃炉処理問題」「北方領土問題」「モリカケ問題」「桜を観る会問題」「ふるさと納税」「五輪誘致、開催であった諸問題」「電力問題」「少子高齢化社会」上げればきりが無い。僕が認識してない問題だってたくさん積み上がってるはず。
こういう昔の厄介事を抱えてる社会って無駄を抱えてるわけで、健全な事ではない。将来の発展の足かせになってくるのは当然だ。外国相手の問題はちょっと横に置くとして、国内の問題であれば、速やかに解決し、清算していく努力を怠ってはいけない。
時の首相には「国民に対する責任感」をもっと持っていただいて、人任せにせず、自分の代で解決する気概をもって、動いていただきたいのです。「総理大臣」は「それになる」ことが目的の地位じゃない。懸案の問題を「解決する」のが仕事でしょう。

人が見えない復興11年

2022年03月13日 09時16分48秒 | 国を憂う
もう11年も経ったんですね。そこにあった「人の生活」が根こそぎ壊されていく状況をただ茫然として見てるだけだった記憶はまだまだつい昨日のように鮮明だ。
この時期だから「復興この11年」というようなドキュメントが多くなる。そんなのを見ながらいろいろ考える、総じて僕の評価は「費用対効果が釣り合わない、多額の無駄使い事業だった」なんです。 で、そのあたりをちょっと書いてみようかな。
あっそうだ、原発がらみの問題には触れないつもり。別次元で考えないといけないだろうから。

僕は復興事業が始まった時から 「将来そこに住む人達抜きに、為政者の価値観、社会観だけで、それを押し付けるように計画され、実施されてるな。 これは上手くいかんだろう。」の印象をもって見てきた。はたして今そういう結果になりつつあるのではないか。
かさ上げされ、より安全な土地は作られた。しかし「あそこに帰ろう」という人が少ないのだ。非難生活の中で、非難してた土地で新しいん基盤ができてしまい、今帰っても「また1から作り直しか?」と思う人が多いのは当然だ。200軒の住宅が建てられる空間に10軒の家がパラパラ建つのではその地域の自治が成立しない。自治が成立しない所に文化は生まれず、住む魅力が生まれてこないと僕は考えるのです。だから中長期的に町化していくのは難しいと見てます。そりゃジワジワと人が増えていく期待はゼロではない。しかし、今の少子化を考慮したら望み薄じゃないだろうか。もしそうなると「なんの為にこんな大金つぎ込んだの?」となりますよ。
あの当時、為政者は国民の反発を嫌い、本質論を抜きにして、「何か目に見える形を・・・・」に走ったんですよね。その結果、住民抜きの、いつもの「箱物事業」がどんどん進められた。
今の現実は大きな教訓を残してるんじゃないだろうか。そこに住み、昔の文化の一部を復活させ、住民自治を再構築し、社会を作り、運営していく「住民」の想いを抜きにしては「町の復興」はあり得ないということです。
復興事業を始める際にまず「どんな町にしたいか」「どんな町なら戻ってきたいか」を住民が考え、議論することが必要だったろう。常により多くの住民が参加してくる仕掛けも必要だったろう。議論の過程で必要なら専門家にも参加してもらうことも必要なはず。こういう議論を進めて行く中で、戻ってくる人、戻ってこない人もはっきりしてきただろう。そしてこれから作る町の、自治のイメージが出来上がった段階で行政が初めて参画し、詳細設計を始める。出来上がった「町復興案」に予算を付けて、一機に工事をやる。
形が見えてくるのはずっと遅くなったでしょうね。でも町らしいイメージができるのはもっと早かったんと違いますかね。人々が生活を始める前から町の文化が生まれつつあるというのがいいじゃないですか。結局あらゆる面でこういうやり方の方が良かったはず と僕は思うのです。
そうだ、こんな話を前に載せたな。 この記事の「2022.02.18」の朝刊の記事だった。

3回目接種と期限切れ

2022年03月04日 12時16分03秒 | 国を憂う
今日の朝刊 読者投稿欄に「ワクチン有効期限 延長に不安」という投稿が載った。今進めてる3回目の接種で使われてるワクチンが当初の有効期限を超えた物で、その表示も手書きで修正されている。製薬会社からの指導で、問題は無いとしてるが、公的な説明もないままに、接種が進められてることを危惧されての投稿のようだ。
この事態は2月中旬に友人から聞いてた。その後自分も3回目を接種し、確認したところ、当初の期限1/31が4/30に手書きで変更されている。
投稿者も書いておられるが、まず政府からの明確な説明が無いままに(すくなくとも僕は知らなかった)、さも「こんな事はよくあることでしょう」的な扱いで進められたことは大いに遺憾です。今の政府は「国民の中に入っていこう」というより「出来るだけ遠ざかって政治やろう」としてませんかね。今に始まったことじゃないか。ここ10年 どんどんその傾向が強くなってるとも見えます。政府から出るメッセージが全く響かなくなってもいます。
やはり国民も「怒るべき時」はしっかり声に出さないと、「いい加減な政治」をやられて、つけだけ回されるってことになるんじゃないかな。
ウクライナの状況を見てプーチンに物言いたい人大勢いるでしょう。同じですよ、日本国内も。

首相の答弁文書作成官がいる?

2022年01月26日 08時42分18秒 | 国を憂う
国会本会議、予算委員会での岸田首相の答弁を聞きながらつくづく思ったことは「これは答弁文書作成専門官がいるな」です。ここ10年ほど同じ文章を聞いてる感じだなと思いませんか。
喋ってる顔、声が違うだけで、論調、言い回し、やんわり納得して根の所では拒否する流れの作り方 これは間違いなく専門官がいますね。あの文章は「個人の個性」の域に達してますから。
そんなんでいいんですかね? だれが行政の長だか解らんじゃないですか。そりゃ首相の意思抜きで答弁書作るとは思いませんが、作成者の意思で作られる部分が徐々に大きくなっていくのは今の官庁の悪癖をみてると十分考えられます。
会議時間の節約、余計な紛糾を避ける目的で「事前に質問書の提出」がルールになってるようですが、これは政府答弁側が大きな失態をしないための策であって、「真の議論」をするにはマイナスでしょう。結局「事前調和」なんですよ。答弁に立った時、分厚い「答弁文書綴り」をめくりながらマイクの前に進む。そしてその文章を読む。そこから何がでてくるのか。丁々発止でやってほしくないですか。もっと首相の本心を聞きたいし、「この人」はどんな日本にしようと考えてるか知りたい。専門官の作った文章、それを読む答弁から見えないのは当然です。
たまに大失言するのもいいじゃないですか。昔「貧乏人は麦を食え」と言った首相もいるし、「ばかやろうー」と吼えた人もいる。ひょっとしたらそこに首相の「本心」が現れ、時の世相を凝縮して見せる力があるんじゃないか。国民はそこに「この人が考える明日の日本」を見てとるんじゃないかな。
岸田さんは前任者の言動を反省する意味で「聴く耳を持つ」とおっしゃる。それは一歩前進と聞き取ったが、そうじゃないんだ。「喋る口」を持つべきなんじゃないの と思うのです。
先日のバイデンさんとの会談を説明する中でこういう言い方をされた。「経済の好循環を『完成』させることで一致した」。 おっこれが本心であり、岸田さんの社会感覚なのだと思いました。「完成」があると思うところに「思い上がり」があり、これでは信用できんな と。

「生き方、一つじゃない」子どもに伝えて

2022年01月22日 09時34分46秒 | 国を憂う
昨日の朝日新聞 文化面にあったコラムの丸写しです。共感しました。社会文化の変化が世の中の不安定さを醸成してるんだろうまでは想像してるが、具体的に何なのかは上手く言えずにいる。社会学者 宮台真司さんが「相次ぐ無差別の襲撃事件」を分析し、世の中の変化を明快に説明し、何ができるのかを示唆してくれてます。
50年前頃の世の中は
 ・異年齢集団で外遊びをする中で見ず知らずでも仲間になりうると感じる対人能力を培った。
 ・親や先生が与えた思い込みを近所の年配者が「ナナメからの介入」で緩和された。
 ・教室にはいろんな家庭の子が集い、互いの家を行き来して、いろんな生き方を学べた。
 ・家族の外でも全人格的に扱われ、他で代替できない尊厳(自己価値)を持てた。

自分の小学校、中学校(高校時代もかな)ほんとにそうだったな と懐かしいね。

そしてこの50年の中で
 ・1960年代の 団地化で「地域」が
   80年代の コンビニ化で「家族」が
   90年代の ケータイ化で「人間関係全般」が   空洞化した。
 ・土地に縁の無い「新住民」が不安から遊具を撤去し、校庭をロックアウトし、外遊びが消えた。
 ・地域が不信ベースになり、親以外の大人との交流が消えた。
 ・親と教員とネットと友人と の希薄な関係だけが残った。
 ・子は親の自己表現のダシにされ、進学校に入れと言われるが、
                   それ以外の価値が解らなくなった。
 ・やっと進学校に入ると、周りは皆自分より優秀。
                   自分を価値の無い存在と感じるようになった。
 ・どうにか会社に入ると、希薄な関係の中「置き換え可能な存在」でしかないと知る。

こういう変化をもたらしたのはグローバル競争とテクノロジー化である。それは今後も増々進み、「誰でもいい」「置き換え可能」な存在を量産していく。

やっていける事、やっていかなければならん事は
 ・大人が目の前の子供に接っする姿勢を改める。
 ・子供が多様な大人と関わる機会、いろんな文化に接する機会を増やし、
                 自分の日常と違う世界があるという想像力を培う。 
 ・「人生の選択肢は一つじゃない。いろんな生き方がある。
       面白くて幸せな人生はたくさんある」とのメッセージを伝えていく。

こうだと示唆されてる。 そうなんだろうな。 グローバル化、テクノロジー化の進行に見合っただけの「人間としてのソフトな文化」を取り戻すのか、再構築するのかやって行かなきゃ、今の「怪しい世の中」の進行は止められなんだろいうな。

「企業を救う」じゃなく「人を救う」政策

2022年01月21日 08時52分40秒 | 国を憂う
昨年「人新世の資本論」に触れてから、「新自由主義」「中小企業問題」を考えなきゃな と思い、今年の考察テーマにあげている。
まだマジメに考えだしてはいないのだが、今朝のNHKラジオで京都大学の諸富徹先生がそのアウトラインを話してくれた。実に参考になるし、僕が考えたい方向そのものだったので、皆さんにも聞いていただこうと紹介します。

  < マイ!Biz「どうみる“新しい資本主義”」  諸富徹 >   1/28まで視聴可
     先頭から4分半は普通のニュース、Skipしたら。 先生の話は10分弱。

岸田首相が掲げる「新しい資本主義」 視点はいいが、やらんとしてる政策は核心を外しているのでは と前置きして、今手をつけなければいけない点はこういうところでしょう と進める。 後半ではそのいい例としてスウェーデンでの政策を解説し、日本との差を論じている。
僕がハッとしたのはスウェーデンでの政策の基本は「企業を救わず、人(労働者」を救う」としてるとこだ と説明されたところ。
そうなんだ、確かに日本では人よりも企業をどう救うかに力点が置かれてる。中小企業対策なんかその典型。こう言っちゃ失礼かもしれないが、自然消滅すべき企業もあるのではないか。救うが故にゾンビ企業がゴマンと残ってるんじゃないのか。社会的浪費を生んでないのか。 
ここが僕の関心事。 そうか、「人を救う」という価値観に変換すればいいんだ。

また気持ち悪い事件が起きた

2022年01月16日 08時18分37秒 | 国を憂う
また発生したね。なんとも気持ち悪い事件が。
名古屋の高校2年生の男子、大学受験の共通テスト会場に向かう学生を刃物で切りつけた。自分は東大医学部志望なんだが、最近成績が上がらず、悩んでた。医者になれないなら他人を巻き添えにして自殺しよう と考えての犯行らしい。
まず間違いなくこの手の事件が増加傾向にある事を認めないといけない。このままだと自分が訳も解らず被害者になる可能性が高まってる世の中だといういことも連想しないといけない。
「しょうがないじゃん」で済ませられるならそれもいいでしょう。 が、僕は「減らしたいな」と考えるし、「なぜ増えるんだろう」「原因は何?」を考えます。
いろんな場面で書いてきてるけど、今の世の中の「包容力の無さ」「硬直化した社会」が個人の「自己責任を強く求める」ことにつながっていて、それが一部の人に生きづらさとなってる と僕は考えてます。特に今はコロナパンデミックで生きづらさが増してますしね。
やはり「自助」「共助」「公助」のバランスが悪くなってるんですよ。「しょうがないじゃん」で済ませず、自分の問題と捉え、どうしたら減らせるかを国挙げて考えないといけない状況なんじゃないですかね。

「弱る円」 朝日新聞の記事から

2021年12月28日 08時51分01秒 | 国を憂う
今朝の朝刊1面TOP記事がこれ。しかも50年前、1972年頃の力に落ちてるというのです。1973年に新社会人としてデビューした身としては何か因縁めいたものを感じる。
「実質実効為替レート」という指標があって、国際決済銀行(BIS)が毎月公表してるもの、世界60か国、地域の通貨を比較して作成し、「総合的な通貨の実力」を示す数値。
1972年に70だった指標が1995年に150まで強くなり、その後下がりだして、11月にまた70と言う評価を受けたのだそうです。
経済、通貨にはとんと疎いので、自分でもちゃんと理解できてないんですが、 その理由は
 ・金融緩和でジャブジャブの円
 ・低金利
     → 円安
 ・輸入原材料の高騰 特に原油
 ・コロナで旅行客の減少
 ・生産拠点を海外に移したために輸出の円安為替差益が減少
等々があるのだそうです。
そしてこの「弱円傾向」はまだまだ続くだろうと予測されてるようです。10年後世界の中で日本は(円は)どんな位置にいるんだろうか。僕はちょっと寒気を感じます。
八方美人よろしく、全方位で可愛い顔して「日本です」なんていってるけど、立ち位置とてなく、どこかの属国風になってるんじゃないか? (すでにそうなってるとも言えそうだが)
こういう現実をしっかり見定め、白黒を今一度明確にして、切るものは切っていく姿勢が大事なんじゃないだろうか。真の「構造改革」を進める必要があるんじゃないだろうか。
その一環で大きいなと思い、考えてるのは「中小企業問題」です。助成金を設け、なんとか援助しようとしてるが、ほんとに残すべき部分と消していかなきゃならん部分とがあるんじゃないかということ。頑張って来た人達にはとっても酷なのはわかってますが。
日本の文化なんだけど、総花的で、玉虫色で、境界をはっきりさせなくて、先送りしていく これを続けてては世界で取り残されていくのは必定だと考えますがどうでしょうか。

政策の総括 が必要では

2021年12月18日 09時52分43秒 | 国を憂う
岸田さんの総裁選に出た時の言、当選直後の言、所信表明の言、予算委員会での答弁の言 を聞いてきて、岸田さん個人の資質以上に、日本の政治システムにこれが欠けてるんだを強く認識したのですが、皆さんはどう考えますか?
要は時の首相、内閣は言いっぱなし、やりっぱなしで次に譲っていく というか、辞めていって、消えていく。過去を振り返ってみると、「こんな政策あげてたな。で、あれはどうなったんだろう?」そんな疑問のオンパレードじゃないですか。
僕は「政策の総括」をしっかりやるシステムが必要だと思いついたのです。何を目指し、何をやって、何を生んだか いわゆる「PDCA」ですね、その「C」を機能させないから、結局今の岸田さん(決して岸田さんだけが なんていうんじゃないですよ。むしろ前の2人を強く意識してますがね)のように、「自分は首相になって何をしたいのかがいまだに見えない」首相を作ることになる。もう少し誇張すれば、「首相になること」が目的で、「なって国をこうしたい」なんて思想は持ってないんですよ。だからどんどん言が緩んでいく。
こういう首相しか持てない国民は不幸です。首相とは「もっと厳しい職」という政治文化を作らないと日本国が沈みます。(もう沈みかけてる というのが僕の認識ですが)
本来国会(立法府」の役割であるはずなのに、全く機能してない。つまり、国会を「本来の国会」に戻すってことです。なぜその機能が働かないのか? 内閣が力を持ちすぎてるってことでしょうか。安倍さんは「私は国会の長だ」というような事を言ってましたよね。
そこで提案なんですが、首相になったら「政策シート」を国会に(=国民への約束)提出することを義務づける。「こういうことをいつまでにこういう方法でこういうレベルまで実現する」を記載したもの=自らの国家政策思想宣言ですよ。全ての問題についてじゃない。そんなの無理、中身が薄くなるだけ。自分がやりたい、優先順位上位5つでいいですよ。これをもとに年に1回中間検査を国会でやればいい。要するに「チェックしやすいよう具体的に書く」ここが肝心。
「そんな成績表みたいな。子供っぽくないか」と思う方がいらっしゃるかな? そうじゃない。このレベルからもう一度制度を取り戻さないと日本の政治は瀕死状態だっていうことです。

民主主義サミット って

2021年12月10日 08時32分19秒 | 国を憂う
バイデンさんが中国、ロシアを代表とする旧東側諸国をにらみながら、同盟国とONNLINE会議で「民主国家だ」と宣伝している。
僕も中国、ロシア、ベラルーシなどの政治行動はおかしい、独裁的、民意を無視してるとは見てる。そういう点では今回のサミットもそれなりに価値があることなのかも知れない。
でも待って、「やつらは非民主国家」と声高に吠えるほど自国は民主的ですか と聞きたい。
ごめんなさい、我が国の事で一杯で他国の実情には疎いです。だから今の僕のターゲットは我が国 日本国です。国民の皆さん 「我が国は他国を非難できるほど民主的ですか?」
これまでの政策を総括することなく、国民の目をごまかすかのように、新しい名前の付けられた政策が唱えられ、いかにも「次の世界だ」を演出する。この10年の反省、総括はどうなんでしょう。「公的文書」を書き変えたのはついこの間じゃないですか。こんなことがまかり通り、もうそんな事は無かったかのように忘れられつつある。
民主主義とは言ってすぐ実現するものじゃない。長い時間の中で人々が作り上げて行く、よりいいものに更新していく そんなものじゃないでしょうか。止まったり、不連続だったりするところに民主主義は実現しない というのが僕の思いです。
その意味で 岸田首相が中国ロシアを非難し、我が国は立派な民主主義国家ですと宣言することに大きな違和感を持ってます。
ちょっと類推すれば、どこの民主国家も似たりよったりじゃないでしょうか。他を非難するより、自国を確実な民主国家に育てていく努力が先なんじゃないだろうか。
「他国を非難する」その行為そのものがすでに「非民主的」だったりして・・・。