カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

見た目を気にしないふりをするのも大変だ   アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング

2024-09-23 | 映画

アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング/アビー・コーン、マーク・シルバースタイン監督

 小太りの女性は、その容姿のせいで遠慮がちになり、何もかも自信が持てない。そういうことで彼氏もできないし、仕事も冴えないという訳だ。しかしながらフィットネスクラブで頭をぶつけてその後鏡を見ると、自分が美しく生まれ変わっていると思い込んでしまう。実際には何も変わっていないのだが、自分だけそう見えているようなのだ。ところがその所為でみるみる自信が湧いてきて、自分がいい女のような振る舞いをするようになる。美人しかやっていない受付嬢に応募したり、ちょっとした男性とのやり取りも積極的になったり。見た目は変わってないので、周りにいる人は大いに戸惑うものの、美人でない人がそうふるまったとしても、あなたにふさわしくない、などとの注意が現代社会でできるわけがない。
 そうなのだが、しかし自信を持った彼女の行動は、何か妙に感じのいいものでもあって、周りはそれに戸惑いながらも、楽しんでいくようになる。そうして彼女自身がみるみるいい方向に成功していくようになるのだった。
 いわゆるルッキズム批判の映画なのだが、こういう見た目のギャップを楽しむコメディになっていて、そこを笑うためには、やはり見た目が悪いのにいいようにふるまうギャップを認めなければ面白くは無い訳だ。だからそれが面白いと感じること自体が、ルッキズム信者だという証明にもなる。なんとも複雑な心境だが、これは前向きな心持が人生を切り開く、と考えて納得するよりないかもしれない。しかしながらそれこそが、近代的な奇妙な偏見の価値観にも過ぎない訳で、もう少し深く考えてみる必要があるのではないか。
 実のところこの映画は、そのあたりのダブルスタンダードが、あまりうまく処理されていないところが散見される。面白く見るためには、これらのルッキズムを馬鹿にしなければならないし、そんなことを気にしなくて良いのなら、これらの負け組と勝ち組の明らかな揶揄など必要なさそうだ。おそらくだが、そういうところに気づかないままの人に対してだけ、なんだか良い映画と認識されうるのではなかろうか。見ていながら、それならもっといい男と結ばれた方がいいようにも思ったし、金持ち勝ち組であっても、もう少し頭がよくてもいいようにも感じた。同僚の男性は最後まで偏見に満ちて馬鹿みたいだったし、なかなかこういう自意識というものの表現は難しいものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内なる頑張り精神は、相手に分かりはしない

2024-09-22 | ことば

 観ていたドラマの主人公は、子供のころから母親から「やればできる子」と言われ続けて、期待に応えるべく頑張りとおしてきたという。主人公は女性で、バリバリに仕事をこなしながら、ファッションもいけている。ただし、家事まではとても手が回らない、という設定だ。しかし「やればできる」呪縛に囚われ続けていて、特に仕事の内容・精度をあげるために、家に帰ってからも遅くまで頑張り続けてしまうことをやめられないのだ。
 まあ、「わかる、わかる」という若い女性心理(若くなくてもだが)をついているということなのだろうし、多かれ少なかれ自分なりの理想もあるし、さらに仕事に対する周りの期待にも応えたい一心が、彼女を突き動かしている。当然きついのだが、母親の呪縛が一番大きくて、母親はそれができなかったくせに、娘には当然のように自分の理想を押し付ける。そうして、時には心配もするかもしれないが、基本的には自分のエゴであることすら気づいていないのである。
 今どきまで続く酷い話だ、とは思うものの、この「やればできる」神話というのは、改めて根強いものがあるんだな、と見て取った。この主人公は、ある意味素直に「やればできる」を、今頑張る言葉として体現して頑張ることができる人間である。しかしながら現実の多くは、そのように頑張り続けられることの方が、稀なことである。そんな人が増えたら、もっと世の中は劇的に変わっているはずなのである。現実のところは、頑張っていることは頑張っているのだけれど、いつの間にか頑張っていない自分がいる、という人の方が多数派であろう。この「やればできる」という言葉は、頑張ろうとする心情としては、あまり適切ではない言葉遣いだし、そもそも残酷なだけで、ほとんどその頑張っている意識を剥ぐ効果さえあるものである。本当に頑張っている人に向けてこの言葉を吐く人には快感だが、受ける側には反感の方が多いのではあるまいか。少なくとも僕を含めた多くの人は、「お前は頑張ればできる人間だ」と言われたら、馬鹿にされていると思うか、もしくは今後は頑張ろうという気持ちが奮い立たないことだろう。せっかく今まで頑張って来たのに、この目の前の人は正当に評価さえできない人間なのだ、というのが見え透いているのだ。
 物事というのはなんでもそうだが、やらないことには何も始まらない、のである。それをやる前からやればできると言われたら、それはもうやらなくてもどうでもいいことと同じなのである。結果は付いてきてほしいものではあるにせよ、頑張ったから良いのかどうかは不透明だ。頑張ってもダメな時だってあるのが、きびしいが多くの場合の現実だ。だからこそ、結果のみを求める態度では無くて、頑張ることを素直に認めてほしいものである。それでこそ、次も頑張れるかもしれないではないか。
 ということで「やればできる」と言われる子の将来は、得てしてあまり頑張ることに熱心ではなくなってしまう。その方が気楽でいいというのなら、それもいいだろう。どのような価値観を持とうと、それこそ自由だ。親の呪縛からも、逃れて生きて行ければいいのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭のいい人の人生の楽しみ方   リンカーン弁護士

2024-09-21 | 映画

リンカーン弁護士/ブラット・ファーマン監督

 忙しすぎて移動中のリンカーンの車内を事務所にしているようなもの、という比喩の敏腕刑事事件専門弁護士が居た。立ち回りや頭の回転が抜群であるようだ。ある資産家の息子の暴行事件の弁護を受け持つことになり、明らかに不利な証拠品がたくさんある中、確かにこの息子の言っている事にも一理あると捜査を進めみた。被害者は、怪しいところのある娼婦でもあるし、この息子の言っている線でかなり逆転の裁判をできそうだと踏んでいたところ、何かこの事件のみならず、過去の事件との絡みでこの息子の疑念の行動が明らかになってしまって……。
 原作もいいのは分かるし、この物語の構成自体が素晴らしいとしか言いようがない。裁判事件にかかわるあれこれが、その本人自身の信念にもとるところがある。それに様々な悪の思惑に絡んだりして、なかなかにスリリングである。悪い奴に加担するより外に仕事上の方向のあるべき姿が合致しなくなるようなことにもなっていって、観ている側は、たぶん騙されることになるだろう。なにしろそういうミスリードを誘う展開なんだし。しかしながら悪い話ではないところが、さらにこの物語を面白くしているので、ご心配なく。それで本当にいいのか、というところで、思わぬ方向転換がなされ、留飲を下げることになろう。もちろん、その代償も受けなければならないが……。
 映画としての、いわゆる豪華さのようなものでは無いのだが、なんとなくテレビドラマのような感じもあえてするのだが、時折しゃれた映像展開もあったりして、それなりに引っ張って観られる作品なのかもしれない。僕は最初かなり酔って観ていて、途中で寝てしまって、翌日途中からではなんだかわからなくなってしまって、もう一度見直した。やはりこれは最初からちゃんと観ないと、このお話の構成の面白さは分かりにくいものだった。とにかく二転三転するし、背景に絡む問題もなんとなく複雑なのだ。だからプロットが見事ということになる。こういうお話を考えつく人というのは、きっとずいぶん頭がいいのだろうな、という感じなんである。
 しかしながらこういう生き方をするのは、まっぴらごめんである。人はもう少し平和に静かに暮らした方がしあわせというものだろう。頭のいい人は、このように立ち回ってスリリングな人生を歩んでください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫が好き、ってどんだけ物語   描描猫猫

2024-09-20 | 読書

描描猫猫/猫飼太陽著(KADOKAWA)

 副題「猫アレルギーだけど猫飼いたすぎ物語」。子供のころから猫好きが高じて、猫のことを考えながら生活してきた著者の生活を描いたもの。以前はそこそこ売れる漫画を描いていた時期があったとされ(そこのあたりも描かれている)、しかし忙しすぎて描けなくなり、一度筆を折る。猫は飼いたくてたまらないが、なんと重度の猫アレルギーの持ち主だったのだ。しかしながらゆめちゃんという白猫と暮らしている様子で、どうして今このゆめちゃんと一緒になったのかという謎解きと共に、異常なまでの猫愛に満ちた猫生活満載の漫画ライフが綴られていく。
 猫愛に対する異常なまでのエネルギーが、いくらギャグマンガだとはいえ、笑えるけど恐ろしい展開を見せる。偏愛というのはこういうことを言うのではないか。いや、もちろん愛猫からも愛されているには違いないのだが、アレルギーがありながら猫に執着せざるを得ない姿に、何か見てはいけないものを見ている背徳感がある。いくら何でもお前はオカシイ。しかしちょっと分かるところもある。でもやっぱり行き過ぎだ。そんなことをして、人間としてまともに生きていけるのか? などとあれこれ詮索してしまう。もちろんギャグマンガである。それは分かっているし、ネタもあると思うのだが、猫を愛するというのは、おそらくやはりこうなってしまうものなのだろうか。本当に恐ろしい。
 とか書いているが、実際ほほえましく読んでいる自分もいたのだが、ちょっと僕が犬に対する偏愛のある人間であることも自覚させられるところがあって、そういうところもなんだか恐ろしくもあるのだ。僕は猫に対してはそれほどの情熱は持てないが(彼らは目つきが怖い時があるので)、犬に対しては、この作者と同じような感覚が確かにある。僕は飼っている犬が、例えば海で溺れそうになれば、おそらく躊躇なく飛び込むだろう。少なくともそのような感情は持っていると思う。そうしてそれはごく自然なことだ。愛犬はまだ若いが、彼女が死んでしまうことを思うと、胸が締め付けられるように苦しくなる。実際に動悸も激しくなるようだ。考えても仕方ないので考えない努力はしているが、ときどき見上げられて見つめられると切なくなって涙が出てくるのである。そうであるから、そのような愛情を猫にそそぐ人がいるのはよく理解できるし、おそらくその為にこの漫画のように行き過ぎたことになっても、あるいみ不思議では無いのである。
 しかしながらこの漫画は、そのような異常な熱量での猫愛を描いただけの作品ではない。最後に驚くべき結末が待っているのである。そういう作品であることは、この漫画を紹介していた文章を読んで知っていたはずなのに、読み終わる寸前に実際に体験してみて、ちょっと椅子からずり落ちるような気分になった。いったい何ということだろうか。
 ということで特に猫に関心の無い人であっても、頑張って手に取って読んで欲しい。こういう作品があっていいものかどうかさえ、疑問を投げかける問題作だろう。まあ、面白いからいいのだけれど……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

必殺仕事人はつらい   ワース 命の値段

2024-09-19 | 映画

ワース 命の値段/サラ・コランジェロ監督

 911テロ事件の被害者とその家族に対して、米国政府は基金を設立して救済のための保障費を捻出することにした。ところがその分配に当たっては、なかなかに難しい命の値段の計算という問題が持ち上がる。悲しみに暮れる家族にとって、そうしてお金に関する交渉を極端に嫌がる人たちもいる。中には事実上の同性婚の問題があったり、被害者の人間関係において、一つだけの残された家族でないケースなど、なかなかに複雑だ。多民族国家だし、移民問題もあるし、外国人もいる。分配ができるだけ公平になるように配慮がされているとは考えられているとはいえ、それを納得して受け入れられるには、人間感情というのはなかなか複雑なところがあるのである。
 担当の弁護士は、そのような保障に対するプロであって、ある程度このような交渉には自信を持っていた。ところが交渉は難航続きで、説明すらまともに聞いてくれない人々と対峙する毎日を送ることになる。保証するにも期限が設けられていて、タイムリミットは刻々と近づいていくのだったが……。
 テロで亡くなった人々の家族にとっては、その補償金を手にすることは、本来はありがたいことに違いない。しかしながらその前に、死に至った悲しみや不条理に対する怒りが先行している。そういう強い意見がある中で、実際には保証金に対する話に耳を傾けてもいい人たちはいるのである。そういう空気感に抗えなくて、話し合いの場に立てない人もいる可能性が高い。だからふつうに外国人などは、保証に対して何の支障もなく、早々に交渉に応じてくれる。もっともそれはアメリカ人よりも所得が低く、思ったよりも保証額が高いということが示唆されている訳だが……。しかし、値段を交渉で釣りあげたいだけでゴネているようには思われたくない。この辺りが、本音と建前が違う外国人らしい反応という気もする。日本だとこの辺りは、相手に悟られることを嫌うというよりは、相手が譲歩しあうところがあるのだが、彼らは建前が先行する(見た目の正当さというか)ので、どうしても本音の部分でどうしたいというのを悟られたくないのである。そうすると、相手を攻撃して罵倒したり、極端に拒絶したりする。いつまでもそうしている訳には、いかない問題なのであるのだけれど……。
 しかしその気持ちは、もちろんわかる。人間の悲しみや怒りは、時にぶつけ場所が無ければ迷走する。悪いのはテロリストで、補償金を支払おうとしている弁護士ではない。しかしながら目の前に現れたのは、弁護士の方だけなのだ。
 その悲しみを共有しながらも、しかし公平さを担保しながら、時には納得のいかない人を前にしながら、坦々と仕事をしなければならない。こういう立場は、出来れば他の人にやって欲しいものである。しかし主人公は、プロとしての矜持もある。逃げることもできないのである。仕事をやるということの本当のつらさは、そういう事なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埋もれていた稀覯本の復刻ホラー   フランケンシュタインの男

2024-09-18 | 読書

フランケンシュタインの男/川島のりかず著(マガジンハウス)

 稀覯本として何十万かで取引されるようになっていたとされる幻のホラー漫画。復刻できたのは、著者の家族の消息がわかったからである(解説にあった)。著者は既に筆は折っており、故郷の静岡に帰り結婚して別の仕事をしていた。その後肺癌を患い亡くなった。本作は86年に発表されたもので、川島作品の中でも特に著名なものだった。夏になるとホラー作品の再評価と、あらたに紹介されることがある訳で、僕はそれで今作品を知った。なんとなく気になる画風で、今風の漫画では無いが、僕が中高生くらいの時に、確かにホラー作品は結構読まれていた覚えがある。少女漫画もホラーは多かった。書下ろし作品で、サイコチックな雰囲気が、また何とも言えないものになっている。
 勤めていた会社の女社長が亡くなり、仕事に張り合いを感じなくなっている男がいる。そんな中男は顔が黒くなっていてはっきりしない少女の幽霊を見るようになる。男は恐ろしくなって何もできない。精神科に行って先生に相談すると、その黒い顔をしっかり見るように言われる。そうしてその顔の少女のことと、過去の少年時代の恐ろしい出来事を思い出すことになる。そこにはいじめられてばかりいる気の小さな自分と、丘の上に住んでいるお金持ちのひ弱だが気の強い少女との恐ろしい関係があるのだった……。
 フランケンシュタインは、ご存じ継ぎ接ぎの人造人間であるが、少年は少女が絵にかいたフランケンシュタインに興味を持ち、自分で三日かかってフランケンの被り物を作る。そうして公園で遊ぶ子供たちをその被り物をかぶって脅かして遊ぶようになり、だんだんとそれがエスカレートしていくのだった。
 だいたいの行動が何だか異常で、はっきり言って何かのタガが外れている。そういうところが何とも面白いところではあるのだが、行きつくところは破滅しかないようにも思われる。しかしそうであったとしても、ちゃんと行き着くところまで行こうとする姿勢がみられて、そういうところが凄まじい気迫を持つ。高揚感があって、なんだかバットエンドなのに、いい話のような、妙な感慨を抱かされるのである。奇妙なものを読んでしまったということもあるのだが、こういう作家が後に埋もれて行き、死後に再評価されたのだ。そういった解説文も含めて、このホラー作品は現代によみがえったのだ。そうして僕のような人間も手に取って読んでいる。ちょっと面白い運命に加担したような、そんな気分にもなろうかというものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不幸を背負った女の生涯   市子

2024-09-17 | 映画

市子/戸田彬弘監督

 長く同棲していた様子のカップルだったが、男が婚姻届けを見せてプロポーズする。女はとても嬉しそうにしていたのだが、翌日突然失踪してしまう。当然探すのだが手掛かりは見つからず、警察に届けを出すと警察も探している様子。さらに市子という名前ですらなかったことが分かる。警察はともかく、市子の過去をさぐり、関連のありそうな人々を訪ねて、市子だったはずの女性を探し求めていくのだったが……。
 なぜ市子は失踪してしまったかのミステリはある訳だが、基本的にこの不思議な運命を背負っている市子の、生い立ちから現在までを綴る物語である。そもそも子供のころから魅惑的な女で、男を手玉に取ることに長けていた。しかしながら母子家庭の上にひどく困窮していて、さらに母親が超だらしない女で、これで不良にならなければ異常だ、というような環境で育っていた。そうして男の子や男をたぶらかして生きていかざるを得ないところもあるし、仲のよくなった金持ちの女の子(とその環境)に憧れるような複雑な幼少期を送ることなどが、市子自体を形成していくことになっていった、ということになるのだろう。
 時系列が多少錯綜するような演出にもなっているが、これだけ不幸な境遇にあるということは言えるけれど、幼少期の女としての魅力のある状態と、大人になってからの、また不思議なキャラクターである魅力が、なんとなくかみ合っていない感じもする。子供の頃の、なにか力強い線のようなものが、大人になってから消えてしまっているのである。
 しかしながらこのような女性に出会ってしまった男たちはたまったものでは無く、自分の生き方そのものを変えられてしまう訳だ。まさに魔性の女なのだが、まあ事情があって表の世界では生きられない身の上になっている。周りの大人たちも悪い訳で、法律がどうだというよりも、情状酌量の余地が大きいので、表に出ても支障は無かったのではあるまいか。
 そんなことを言っても映画が成り立たなくなるのから仕方がない。僕としてはミステリとしての興味が先立って観続けているのに、なんとなく放り出されてしまったような印象も受けた。不思議だけれど魅力的な女、を描きたいのは分かるが、やはり人間どこかで努力はしなければならない。相手の善し悪しだけではダメなのである。
 でもまあ惚れた男同士の対面というのは、なるほどそうかもな、とは思ったことでした。何かの参考にはなるかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろいろと理想と偏見の錯綜した物語   私の家政夫ナギサさん

2024-09-16 | ドラマ

私の家政夫ナギサさん

 子育てのために仕方なく専業主婦として苦手な家事をやらざるを得なかった母の怨念を背負った女性が、仕事はフルに頑張るものの、やはり家事までは手が回らなかった。そんな母と折り合いがつかず疎遠になっている妹から、スーパー家政夫ナギサさんを派遣してもらうことになる。しかしながら男性家政夫には抵抗が強く、なかなか受け入れる気になれない。仕事では、ライバル製薬会社のイケメン男性から、仕事を奪われる危機に瀕している。女性として何もかも完璧にこなすなんてことはそもそも無理な話で、実際に家政夫が家のことをやってくれているおかげで、徐々に生活にゆとりが出で来ることも確かなことである。それにナギサさんというおじさんは、人間的にも素晴らしすぎるくらいの人で、さまざまな面で精神的にも助けられるようになっていくのだったが……。
 設定が逆なら、きわめて普通のラブコメなのだが、それが逆ではなくこのようなことになると、いろいろと現代にも残る偏見などとも戦わなければならない問題となる、ということなのだろうか。僕なども昭和的に家のことはつれあいにまかせっきりなので、正直言って何も言う権利の無い立場であろうけれど、ドラマ的に批評するとすれば、こういう事に頓着する人々がいまだにいることは、ちょっと不思議な感じもする。するけれど、やはり独身女性の部屋に深夜まで出入りするおじさんは、なんだかあり得ないのは確かそうにも思う。下着などの問題もあるし、派遣する会社としても、少しくらい問題意識があっても良さそうである。もちろん独身男性が家政婦を雇う場合であっても、相手がセクシーすぎるなどすると、問題があるということにはなろうが……。
 勤めているが製薬会社だから、顧客が医者で、それがまたイケメンの独身男性だったりもする。仕事も頑張るが、恋の対象にもなり得る。ライバルも当然恋仲の対象になり得る。年頃の美しい女性周りは、なかなかに大変なのである。それで家でも仕事の準備のために調べものや勉強をして、朝は化粧したり服を整えたりしなければならない。当然ご飯もバランスよく食べて、同僚の指導もする。すべてを完璧にする必要が、いったいどこにあるのだろうか? 
 周りに求められているものもあるし、それにこたえるだけでなく、自分自身もそうありたい姿がありそうだ。そこのところが何となく僕には分からないだけのことで、おそらく若い女性には共感のあるところなのだろう。そうしなければ、この物語は成り立たない。しかしそれは極めて夢物語に僕には思える。まあ、それでいいのだろうけれど……。
 もちろんナギサさんも幻想である。こんな人は、おそらく日本には存在しない。だからこそ、ドラマには存在価値がある。そういう風に物語は観るべきなのである。でもまあ、料理を上手く作るってのは、なんとなく憧れるな。それを美味しいと言って食べてくれる人がいるというのは、しあわせそうである。これは男女に関係なく、そういうものなのでは無いだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父は突然死ぬ。何も言わずに……   花椒の味

2024-09-15 | 映画

花椒の味/ヘイワード・マック監督

 過去の両親の離婚の件などもあり、疎遠にしていた父が亡くなった。比較的近くに住んでいる長女がすぐに駆け付けるが、身の回りのことは詳しく分からず、とりあえず父の携帯に入っている知人らしい人などを含め案内を起こし、仏教徒だった父を、そういったことも知らなかったので神道の葬儀で見送る(でも結果的には父はたぶん気にしてないだろう、とは考えている)。離婚で一旦家を出ていった父は、母の病気の折に帰ってきたが、長女としてはそんな身勝手な父を許す気になれず、ずっとギクシャクした関係を続けていたのだった。
 父は生前火鍋の店を開いており、それなりに客のついた名店と言われる店だった。離婚後かその前後の関係で、妹が二人いることも判明する。一人は重慶、一人は台湾だ。台湾の妹は、引き取られた新しい家族のもとで、ビリヤードのプロとして生活していた(そこの母とはギクシャクしている)。重慶の妹は、祖母と暮らし、ユーチューバーなのか、自分のブランド品をネットで売っているようだ。
 父は何も言わず、火鍋の店だけを残して死んだ。元従業員も、なじみの客も、この店に愛着がある。なんとか父の作っていた火鍋の味を再現させたいと姉妹は奮闘することになるのだったが……。
 間に三人にまつわる群像劇のような感じの挿話が挟まれる。父へのわだかまりの感じ方には、それぞれの姉妹の性格と感受性に違いがあり、一様ではない。父も悪いのかもしれないが、何かその事情もそれなりに複雑なことがあったようだ。それでお互い不幸にされたという恨みが残っているわけだが、何しろ父はもう死んでいなくなってしまった。残された父の血の関係でこうしている姉妹と、どう折り合いをつけていくのか、ということにもなっていくのであろう。
 また、残された娘たちの運命も、基本的にはどうしあわせになれるかだ。父の呪縛を一番に受けて、母の恨みの再現に恐れを持っている長女は、結婚する男に対しても、そのあいまいな言葉遣いが気に入らない。もっと主体性をもって、自分を奪ってほしい訳だ(ちょっと強くいうとだが)。父の生前付き合いのあった医者との関係もあり、いい感じの天秤をかけて自分の愛を確かめていく。台湾は母とのわだかまり、重慶は祖母との関係をそれぞれ修復する(と思う)。残されたものが大切で、これからのことがもっと大切だからだ。
 かなり意外だったが、最終的には火鍋の店は再建を断念した、ということのようだ。ここらあたりはなんとなくわかりづらいのだが、車の免許も取ったことだし、自由な生き方をするという隠喩なのかもしれない。おそらく本人には向かない生き方には違いないが、そんなの関係ないということなのだろう。まったく不思議な余韻の残る作品であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人前であがらなくなる方法

2024-09-14 | つぶやき

 人前で話す機会というのはそれなりにあるせいか、ときどき人前で話す時にあがらない方法が無いかと聞かれることがある。方法があると考えている時点で、何かそういうものでは無いような気もするのだが、いちおういくつかは答えらしいものはある。一つは求められている答えでない事は分かっているのだが、経験を積むことである。要するに、慣れてしまうというのがある。芸能人やアナウンサーなどになれば、いつも人前に出ることになるので、最適な訓練になるだろう。
 もう一つは、人前で話す練習をすること。知った人とか家族とか、そういう人に頼んで話すのを見てもらう。家族は時々辛辣な批評をしてくる場合があるので注意が必要だが、そういうのにいちいち気にすることをしないで、とにかくそういう環境で練習をする。なんで話す機会があるのか、事前にその内容が分かっているのなら、いちおうメモなどに話す内容を箇条書きにしておいて、それに沿って話してみる。原稿を書いてそれを読むのも、必ずしも悪くは無いのかもしれないが、俳優のように丸暗記する気が無いのであれば、読まない方がいいと思う。書いてある通り話せないと、失敗した感じになって残念な気分になる。失敗体験を積むことは、この際あんまりよくない気もする。ますます話すのが嫌になるかもしれないし……。
 メモに書いた内容を、なんとか言葉に出して言ってみる。そういうのを10回くらい繰り返していると、だいたい形が整ってくる。できればそれを100回くらいやれたらいいのだが、おそらくそんな根気は無くなるだろうし、聞く方もかなり大変になる。何回か聞いてもらったら、シャドーボクシングみたいに、自分だけで話を繰り返してみる。車の運転中とか、散歩とか、何かをやりながらでかまわないので、出来る限りたくさん繰り返してみる。そうしてもう一度知人や家族の前で話してみる。前回よりも必ずうまくなっているはずなので、まずまずOKが出るのではないか。いや、話してみるだけを目的にして、評価してもらわなくてもいいかもしれない。だいたい話をしたからと言って、相手がどう思うのかなんて考えてはならない。それも一つのあがらないコツでもある。うまく話せなくて笑われたとしても、ウケたんだからそれでいいのだ。お笑い芸人だったら合格である。
 そもそもスピーチというのは、うまく話せるときもあるし、いまいちの時もある。だけど話した後に、そんなことをいつまでも思い返す時間がもったいない。どのみちどうにもならないことだから、次の機会の経験になっただけでももうけもので、忘れてしまうのが一番だ。そうして次に機会がありそうだったら、また再度練習をする。そういうのを何回かやってみると、まあそんなに得意にはならないかもしれないまでも、いちおう何とか話せるのではないかという、度胸のようなものが付いてくるはずなのだ。いつまでも嫌だというのはあるかもしれないが、その時が来たってなんとかなると思えたら、それでいいのである。
 噺家さんだって人前で話すのが商売だろうけど、よく聞いてみると、あんがい話が下手な人も多い気がする。じょうずに話せないのに、なんとなく面白みがあったりするのが不思議なもので、まあそんな感じで芸になっていくものなのではないか。それに普通の人は、話を芸にまでする必要なんてない。その場しのぎでいいのだったら、何を話したところで気にすることなんてないのである。
 という感じになっていくと、不思議とあんまりあがらなくなるものである。という話を聞いたところで、おそらく今あがりたくないと考えている人に最適の答えでないことは分かっている。でも、だから何もしない人は、結局いつまでもあがり続けることを気にして生きていくことになるのではないか。それでいいのなら、別段かまわない事ではあるのだけど……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする