カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

男は負け続けている

2018-03-22 | 境界線

 男と女の違いというのは確かにあるだろうが、能力の違いのようなものもあるのではないか。そういう疑問はいつの時代にもあっただろうし、今は言いにくいとはいえ、同じようにあるだろうと思う。言いにくいのは結論がどちらであっても、恐らく正しくは無いという答えが既にあるからだろう。さらに僕は男だから、男の立場として女がどうということをいうと、差しつかえる場合がありそうだという事だ。
 しかしながら子供のころから漠然と感じているのは、男より女の方が、断然能力が高いのではないかという事である。成長が早いという感覚もあったが、女の子の方が賢いというのは確かそうに思えた。男の子にも賢いのはいるが、圧倒的に数が少ない。学校の成績もおおむね上位は女の子で、中間から下は男ばかりという感じでは無かったか。高学年になるにつれて様相は変わってくるが、何か女の子の方に別の忙しさが加わって、学業を怠るような人が増えるという感覚があったのではなかったか。女はそれで良いという風潮があったのは間違いなくて、そういうものが徐々に浸透するような事があったのではないか。
 しかし能力という面から考えると、依然彼女らの方が高いままであったはずである。僕らが考えているより何か上位のものを、彼女らは求めていた。それが何かはいまだにはっきりとは分からないが、そういうもののために彼女らは、別に能力を割いていたように思われる。結局おとなになってからもこの差は変わらないままで、男たちは平均点が低いまま生きざるを得なかったのではなかろうか。社会の中の多くは男女別が結構あって、混ざっているとはいえ分野によって男社会が土台にあって、その中で生きるより無かった。もちろん女社会の中に入れば、あまりにも勝負にならないことだけは、確かそうだった。そうであるならば低い階層の中で、切磋琢磨するより他に生きようがなかったのではないか。
 この能力差は考え方や文化というものでは無い。知力や頭脳の差でもなさそうだ。生きて行くための全体的なもので、あらゆる環境に適応するという事も含まれているように思う。もちろん瞬発的な体力のような世界では、男の筋力の量的なものの方が多いかもしれない。しかしそのために失われるものは、やはり男の側の方が多いのではないか。例えばお互いに殺し合うのは、やはり男同士の方が多いような感じで。本当に強いのはそのような筋力の問題では無くて、何か耐性のようなものでは無いか。
 冷たい水に手を浸けて限界まで辛抱する。そうすると平均して男の方が長時間耐えられることが分かっている。ちょっと意外な気がしたものだが、実験は確かそうである。そのような競争では、アドレナリン作用で男が勝つような事があるのだろう。しかしそれでも本当に痛い場面では、男が様々なところで負けているような印象が強い。試合中なら痛みを感じない屈強な男が、試合終了後にはうんうん唸って泣いている。そのような姿の方が本当なのではないか。
 とにかく僕らは負け続けていて、そうしてどうしても能力的に勝てていない気がする。もうとにかく敵わないものは仕方がない。どうにもならないので、諦めて戦っていることを忘れようとする。そうすると既にそういう次元では戦っていない女たちの偉大さを改めて知ることになる。今はそんな感じのことを思っている。やっぱり差があるままなのである。
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