大統領の執事の涙/リー・ダニエルズ監督
フォレスト・ウィティカー主演。原作もあるらしい。黒人の差別の中に生きた人たちの物語で、奴隷時代から様々な職を経て、長く歴代の大統領に使える執事として働く姿が描かれる。当然それは公民権運動だったり、黒人の受けてきた様々な差別の歴史と、その中で生きざるを得ない黒人的な態度を、鋭利な角度で描くことになる。まさに肉体的精神的な拷問の歴史である。そしてそれがアメリカという国の歴史なのだ。
黒人の差別はこれまでも多くの映画で描かれてはいるが、当然それはずいぶん前の過去のことだという感覚が、今の人にはあると思う。当然僕にもそういう感覚はあるし、日本人の多くは、肌感覚で黒人を知らない。もっとも白人のことも知らないが。
圧倒的に暴力的に力の強い白人たちに対して、ほとんど抵抗するすべのない黒人たちは、服従しながらも生きなければならない。結果的に白人に仕えて生活を維持する生き方に特化する人たちが居てもおかしくない。時代は流れて、少しずつ変化してはいくが、多くの血が流れ、様々葛藤を経て、自分の力の及ばない何かの力で、黒人の生きる環境が変わっていく。
白人に仕える執事の仕事で家族を養っている男だったが、少なからず子供からの反発があり、息子は南部の大学に入り公民権運動に身を投じるまでになる。何度も投獄され、差別を受けるが、その運動をやめることは無い。父とは違う生き方をするよりないのだ。それは黒人同士の葛藤であり、戦いである。差別される側であっても、方向性が同じになるとは限らないのである。
アメリカ社会にあって、犯罪者の割合は、人種によって異なっている。それは結果的な統計だが、原因の中に、このようないびつな社会構造があるのではないか。知能指数など、人種によってい異なる事実もあるといわれる。それは、結果はそうであっても、やはり原因は社会構造なのではないか。差別的な構図の中で生きざるを得なかった人間に、正当な統計がそもそも可能なのだろうか。原因と結果が、また新たな偏見を産んではいないか。人間を区別できるはっきりした肌の色が、人間の感性や生活に及ぼす影響は、たいへんに大きいのではないか。このような映画を見てしまうと、やはりその衝撃に、何か影響を受けてしまうような気分にもなる。許せない白人社会と米国への恨みが、映像として我々にも伝わってくる。そうしてその影響は、おそらく後の歴史にも及ぶのではないだろうか。