梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

親鸞展(その1)

2023年05月20日 06時00分31秒 | Weblog
今年は浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたります。それを記念して、京都国立博物館で親鸞展が3月25日から5月21日まで開催されました。5月9日その展覧会に行ってきました。

親鸞は京都に生まれて、九歳で出家して比叡山で修行に励みますが、二十九歳で山を下り、法然上人の弟子となります。そこで全ての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏に出遇うも、法然教団は弾圧を受け、親鸞も罪人として還俗(げんぞく)させられて越後に流罪となります。その後、罪が赦された親鸞は、関東へ赴き長く布教に励み、やがて京都へと戻り、晩年まで主著「教行信証」や「和讃」など多くの著作の執筆や推敲を重ねました。その九十歳の生涯と教えは、今も多くの人を魅了して止みません。 ~親鸞聖人の生誕850年パンフレットより~

親鸞については、去年の7~8月にかけ『歎異抄』と題して六回に亘りこのブログ上で取り上げました。取り上げたきっかけは、NHKの番組で歎異抄について細かくシリーズで解説していたのを観たからです。そして私の父方の宗派が浄土真宗でしたので、この際色々勉強してみようと思いました。歎異抄とは、親鸞の没後、説いた教えの解釈が乱れ、弟子の唯円がそれを嘆いて著わしたものです。

私自身も誤解があったのが次の一節、【善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや】です。意訳は、「善人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、ましてや悪人はなおさら往生できる」となります。となると誰でも、「悪をするほど浄土へいけるのか」「悪をするほど助かるのだ」と、そう捉えてしまいます。これは「悪人正機説」といわれています。

「悪人正機説」の誤解を正すには、親鸞の「善人」と「悪人」の認識を明らかにすることです。私たちは常に常識や法律を頭に据えて、「善人」や「悪人」を判断しています。故に、もし「あなたは悪人ですか?」と聞かれれば、多くの人は「違う」と答えます。一方で「あなたは善人ですか?」と聞かれれば、「善人とは言えないかもしれないが、悪人と言われるほど悪いことはしていない」と答える人がほとんどです。つまり多くの私たちは、自分を「悪人」と思っていないのです。

人間はみな「煩悩の塊」であり、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は知りぬかれたからこそ、必ず救うと誓われたのです。親鸞の説く「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に「悪人」と見抜かれた全人類のことであり、いわば人間の代名詞に他ならないのです。つまり「悪人」とは私(私たち)のことなのです。

では親鸞の「善人」とは、改めてどんな人をいうのでしょうか。善を励んで何とか助かろう、念仏称えてどうにか救われよう、そう勝手に思っている人を、「自力作善(さぜん) の善人」と親鸞は喝破しました。つまり弥陀の本願を疑っている人であり、多くの私たちの疑心の「善人」は、弥陀の他力本願の対象にはならない。だが弥陀は、自力作善のその「善人」さえも浄土へ生まれさせると誓われたのだと、親鸞は諭します。弥陀は誰でも誘引し救いたもうから、【善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや】と言われたのです。親鸞は、自力ではなく、他力の信心を獲た「悪人」こそが、往生の正因を獲た人だと明言したのです。

現代の私たちは、自分が「悪人」だと思えないのに、他人を「悪人」だと思いがちです。何故私たちは、自分に甘く他人に厳しいのでしょう。その理由は、自己主張と自己正当化に明け暮れる私たちのあり方にあります。その状態が「煩悩の塊」なのです。このような私たちを、阿弥陀仏は、仏たらしめようとして本願を起こしたのです。本願の対象は、つまり自己中心を免れない私たちなのです。それを親鸞は「悪人」と言うのです。多くの宗教は、「悪人」から「善人」への転換を要求します。しかし本願念仏においては、「悪人は悪人のまま」で、いいのです。悪人正機説の解釈は、大よそこのようなことになります。

去年のブログを書きながら、例えばこのような学びをしました。今回京都の親鸞展に行くことに決めたのは、直前に、歎異抄に関する地元の文化講座にたまたま参加したからです。    ~次回に続く~


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