梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

半世紀余の歴史(その2)

2020年01月11日 10時18分06秒 | Weblog
56年前の東京オリンピックは、戦後19年目の開催です。戦争によって焦土と化した日本の復興を願って、その国家事業の象徴ともいえるのが東京五輪でした。当時の日本の国家予算は3兆円で、その三分の一に匹敵する1兆円がオリンピックのインフラ整備に投下されたと言われます。

新幹線や首都高速道路や東京モノレールは、開催に向けて新たに造られたものです。新幹線の開業は10日の開会式のギリギリ、なんと9日前です。余談ですが、開業前の新幹線に、私は小学6年で試乗させてもらったことがあります。その経緯は省略いたしますが、当時の鉄道最高時速210キロ正に夢のスピードでした。

お正月のBS番組で、1964年の五輪直前の世相を放映していました。私が子供の時肌で感じた東京を、映像を通し懐かしく思い出しました。番組の中で新幹線の開発には、車体の空気バネは海軍零戦の改良技術が、車体の流線型は海軍魚雷の設計発想が、線路のATC装置は元陸軍通信技術者が、関っていること等を紹介していました。

一方56年前のオリンピック大会では、日本女子バレーボール・チームがソビエトをストレートで破り優勝しました。チームを率いたのは、「鬼の大松」で有名な大松博文です。陸軍に召集されインパール作戦にも従軍した大松監督です。悲惨な戦場からの数少ない生還者ですが、その地獄の体験が性格を変え、徹底したスパルタ指導となりました。

前回書きましたが開会式当日、航空自衛隊機が国立競技場上空に見事な輪を描きました。この飛行妙技の裏には、かつて海軍大佐だった源田實と部下山田良市の、二人の戦闘機乗りの尽力がありました。空に五輪を描くことをオリンピック組織委員会に提案したのが源田實であり、当日競技場の地上指揮官が山田良市でした。

外国人来訪者を受け入れるホテルとして、1000の客室を擁し1964年9月に開業したのがホテル・ニューオータニです。シンボルともいえる最上階のラウンジ、その回転機構は戦艦大和主砲塔の回転技術が応用されていることで有名です。直径は45m、一時間余りで一回転して東京の風景を一望出来ました。

今回初めて知った事実(歴史)もありました。このようなことを見ても東京五輪は、敗戦国日本が19年を経て名実ともに再び世界の表舞台に立った平和の祭典でしたが、戦争を生き抜いた人々の智恵や思想が大きく影響し貢献していたことが解ります。1964年の五輪は、苦難が続いていた戦後を払拭して高度成長時代の礎になったことは確かです。

そのBSの番組を観ていると、1964年の国民は、オリンピック直前まで醒めていた様子が窺えます。生きて行く為に自分達の生活が精一杯で、平和の営みまで関心が向かなかったのです。しかし蓋を開けてみれば、外国人の選手や観光客を間近にして相違に驚き、日本人選手の大活躍に目を見張り、日本は歓喜に包まれました。

1940年東京開催が決っていた日本は、日中戦争の最中で大会を返上しました。1944年のイギリスでのオリンピック大会は第二次世界大戦で中止となり、戦後1948年イギリスで再開されますが、日本は招待されませんでした。1964年以前の話ですが、オリンピックに於いてもこれだけ日本は戦争に翻弄されます。

1964年から今年で56年、この間日本では戦争はありませんでした。敗戦を乗越えた先人達が多くを残したように、これからの半世紀余の日本の未来に、私達は何を残していけるでしょうか。それを考えるにしても、歴史を辿ることも大切だと感じました。 
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