梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

シルクロード(その1)

2021年02月27日 04時42分21秒 | Weblog
『私は学生時代に西域というところへ足を踏み入れてみたいと思った。本当に西域に旅行できないものかと考えた時代がある。西域という言い方は甚だ漠然としたものであるが、これは中国の古代の史書が使っている言い方で、初めは中国西方の異民族の住んでいる地帯を何となく総括して、西域という呼び方で呼んだのである。だから昔は、インドもペルシャも西域という呼称の中に収められていた。要するに中国人から言えば自国の西方に拡がっている未知の異民族が国を樹てている地帯を、何もかもひっくるめて西域と呼んだのである。だから西域という言葉の中には、もともと未知、夢、謎、冒険、そういったものがいっぱい詰めこまれてある』。

冒頭から長い文を引用しましたが、これは「西域へのあこがれ」として昭和43年に朝日新聞に掲載された、作家の井上靖さんが書いたものです。氏の作品は西域や中国に関しての作品が20編ほどあり、中でも“敦煌”や“蒼き狼”は映画化され、西域もの(西域小説)として有名です。この二つは、昭和34年から昭和35年に書かれた作品です。

井上靖さんは、西域小説でシルクロードのロマンを日本中に浸透させました。学生時代からの憧れの地である西域は生涯にわたる大きなテーマとなり、精力的にその地に足を運び、西域やシルクロードという言葉は氏の代名詞となりました。調べてみると、昭和32年日本文学者代表団の一人として、氏は中国を訪問しています。この初めての中国への旅が、西域ものの作品を世に出す切っ掛となったことがうかがえます。

NHKアーカイブスで、『NHK特集 シルクロード/絲綢之路(しちゅうのみち)』を観ました。今年一月頃にNHKBSでこの番組を再放映していましたが、録画も取らずに見逃してしまい、ネットで探しNHKアーカイブスで一本約40分・全12集を観ることが出来ました。第3集「敦煌」で、西域の思いを語っている井上靖さんが、現地でゲスト登場しているのです。

このNHK特集は、東西文明交流の道である秘境・シルクロードの全容を初めてテレビカメラに収めた、日中共同取材のドキュメンタリーです。放送は昭和55年4月にスタートし、中国長安(現在の西安市)を出発しパキスタンとの国境パミール高原までの行程を、毎月1本放映し番組は一年間続きました。

喜多郎作曲の悠久の時を感じさせるテーマ音楽とともに、夕日を背景に砂漠を踏みしめて歩むラクダが映し出され、そこにタイトル「絲綢之路/日中共同取材」の文字が現れ、そして石坂浩二のナレーションで番組は幕を開ける。番組は大ヒットし、続編が制作され、関連本やビデオ・CDも続々販売され、現地ツアーも大人気となります。

初回放映は昭和55年4月ですが、実はこの段階で、企画立案から7年余りの歳月が経っていました。昭和47年9月の日中国交回復に遡ります。この時、田中首相の訪中を中継で伝えるために北京を訪れたNHKディレクター鈴木肇は、帰国後「マルコポーロの冒険」というタイトルで特集番組の企画提案を書き上げます。後の「シルクロード」の原案です。

企画は局内で大きな支持を得て、中国政府や中国中央電視台(CCTV)を相手に取材許可を取ろうと交渉を重ねます。しかし当初は文化大革命の時代。それまでシルクロードに外国のテレビカメラが入ったことは無く、許可は下りなかったのです。風向きが変わってきたのは、文革が終わり、中国が改革開放路線に転じてからでした。

交渉の山場は昭和53年、鄧小平副首相の来日の時。新幹線で京都に向かう副首相の特別車両に鈴木ディレクターが同乗し、シルクロードの取材撮影許可を得ようと秘書を通じて頼み込んだ結果、その年の大みそかNHKに許可するという連絡が入ります。更にCCTVによる共同取材協定も結ばれ、NHK初の大型国際共同制作としてスタートすることとなったのです。

昭和54年8月NHKのカメラが初めて兵馬俑坑に向けられた時、最初に企画を書いた鈴木氏は「あれから7年、今私はシルクロードの出発点(今回取材の)長安に立つことができた」と記しています。全行程を3つに区切って、3人ずつ3班で編成された取材班はひたすら西を目指し、1つの班が5~6か月かけて取材。黄河を越えパミール高原にたどりつくまで1年半を要し、この間撮影したフィルムは45万フィート(約157㎞)に及んだとのことです。   ~次回に続く~



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