風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

桜雲臺

2008-04-14 | 風屋日記
私や母ちゃん、息子達、そして私の親父の母校である県立花巻北高は
現在は花巻市郊外の本舘地区に広い敷地を持って建っているが、
かつて旧制中学時代~私や母ちゃんが高校1年の頃までは
花巻駅そば、市街地から見上げた高台の上にあった。
現在の桜台小学校の場所だ。
桜の古木が校舎と校庭をぐるりと取り囲み、
満開の季節にはその高台が桜の霞で覆われたように見えたものだ。
盛岡中学から海軍兵学校を出た良識派軍人で
日独伊三国同盟に反対したり、戦争終結に奔走したといわれる
地元岩手出身の米内光政元海軍大臣・元総理大臣が
昭和16年、花巻中学へ講演に訪れ、
校舎のある高台を取り囲む桜の見事さにちなんで
その地を「桜雲臺」と名付け、揮毫したという。

私がその校舎で学んだのはたったの1年だけだったが、
ガタピシいう隙間だらけの木造教室、ウグイス張り(笑)の廊下や階段、
オツリ(^^; が戻って来る野外敷設のトイレ(というか便所)、
校務員室(というか小使室)の大きなカマドなど味のある校舎とともに
満開の季節の桜や新緑の季節の葉のざわめきは忘れられない。
特にも校庭を取り囲む桜の木々や校門前の桜のトンネル
新入生にとっては誇りですらあった。
私たちは校庭脇の東北本線沿いの土手で花見をし、
夏にはその木陰に涼を求めたものだ。
市街地からの急な真坂(まことのさか)を朝は登り、夕は下った。
自転車で真坂を登り切ることが花高健児の心意気と言われ、
必死になってペダルを漕いでいた。

翌年、それぞれの椅子と机を持って新校舎へと引っ越した。
(化学が赤点の者は化学室のものも運ばされた ^^;)
移転後も体育館はそのまま残されていたので、
今だから言えるが(笑)夏の夜ロウソクを持って忍び込み、
友人達と一夜を明かしたこともある。
新しい鉄筋コンクリートの校舎に移転はしたものの、
桜雲臺はまぎれもなく私たちの心の故郷だった。

数年後、桜雲臺の地に桜台小学校ができた。
桜雲臺という名は読み方が難しいからという理由で土地の名も変わった。
仕方なく我々は、高台でもない平地の新校舎の地を桜雲臺と呼んだ。

私が高校生だった頃は田圃しかなかった校舎の西側が
昔日の面影がないほどの住宅街になったのはいつからだったろう。
今も次々に家が立ち並び、たくさんの店もできた。
桜台小学校はいつしかマンモス校へと拡大しつつあり、
たくさんの児童が真坂を昇降したり、西側の狭い道を歩くようになった。
車も譲り合わなければならないほど狭い道。
当然の流れとして児童の安全性の声が以前から上がっていた。

2月上旬、旧正門前の桜が数十本切られた。
誇らしくその下をくぐり抜けたあの桜のトンネルはもうない。
時代の流れとはいいながら、寂しい気持ちは拭うことができない。
コメント (3)
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