吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

知の東京集中、中央と地方の知の格差を拡大させると、日本は滅びる

2007年03月18日 | Weblog
 富の体制の根本は、「知」にあるというアルビントフラーは、地球的国家間的問題の本質を言ったのではあるが、国内社会における現在から将来にかけての最大の問題でもある「格差」解決の処方を示唆してもいる。

 今朝(3/18)の朝日新聞一面(分裂にっぽん)の「中流層崩れ」は、とどのつまり格差社会化が進行していることに警鐘を与えている。単に、現時点における国民の富の集中が「富裕層」に偏ってきているということの延長としての将来展望を言っているわけではない。米国や中国やその他の特定の国より、格差の程度が低いというような見方や印象が政治や社会政策の時間的オクレをもたらすことがより大きな問題なのだ。

 奇しくも、国立大運営費交付金の見直し諮問による地方国立大の交付金半減(試算)による経営難校が47校と半数以上でると文科省の他人事を、ただ「競争原理や経営効率も考えずやってきた地方大学の怠慢」だからと見過ごしていいのだろうか。税金の効率的使用を錦の御旗にしたような経済財政諮問会議や財界などのエライ人たちの”競争原理を採用すること”でほとんどの問題が片付くと思っている方々やシンクロさせたように政治や行政の"改革”を叫ぶ政治家や役人(文科省)の動きに再考と深慮を求めたい。

 いまでも、地方の金持ちばかりでなく”ふつう”の人々の子供たちの多くは、東京の大学を受験し、合格すれば東京の大学に進学する。卒業しても地元地方に戻るものはほとんどおらず、東京にある官庁や大企業などに就職する。大学院に残る人も東京だ。生まれ故郷や地元に戻って職を得、生活する者は僅かなのだ。こうして、東京という中央に知の卵が集まり、地方から知の卵がなくなる。「知」の中央と地方の格差が出来、拡大する原点といえる。

 だからといって、地方それも47-1の道府県のどこにも国立大や大学院がなければならないと言っているのではない。あることが望ましいとは思う。交付金や補助金を得るために、学生数や規模(経営や科目他)を"大きく”したままできたことによる効率の低下や質の低下を改善することは、優先されなければならないだろう。規模や人数で交付金や補助金を配分してきた従来の政治や文部行政が、責められなければならないのだ。ひとり、学生も集まらず苦しい運営をしている地方大学だけを責められない。

 「知」の将来的な中央と地方の格差をなくすことを考えることが、地方分権や道州制を考えることより先なのだ。現在や近い将来の格差(所得や生活)問題の解決は、将来の格差拡大(知が源)への手立てをしつつ進めなければならないのだ。
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