吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

切れと間

2014年06月23日 | Weblog
2014年6月22日(日)は、勉強した。ホントに久しぶりの新宿西口。超高層ビル街に向かう歩道が昔と大違い。きれいに補修されていた。朝日カルチャーセンター(新宿住友ビル7階)の『俳句一日講座』は、「海程」編集長の武田伸一さんが先生。その講座でのテーマが、俳句の”切れ”。

「・・や、・・かな、・・けり」などで説明される”切れ”だが、これら3つ以外の”切れ”についても、よくよくお教えいただいた。切れで一呼吸おいて読むと、その俳句が広がってイメージできるから不思議。言ってみれば、”間”の感覚と同じだ。

だいぶ前(2012年2月)のブログで私は、『間のとり方』について記事した。”間”の意味や事由も知らず、ただ日本家屋の間取りや部屋(間)と呼吸やタイミングなどとの関係を記事した。その”間”が、俳句の切れに通じることを知った。切れが読者に間を提起し、その間を意識して読むことで俳句の意識していることやイメージが深まることが理解できた。

もともと”切れ”は、自然の理の”断ち”。自然の理を断って、それ以上に昇華して芸術(アート)世界を創作することが”切れ”の目的なのだ。切り花を生け花にする華道、海山自然の石や砂利やその他を材料に造る枯山水庭園、狭小な茶室どの茶道、能楽や歌舞伎など、すべて”自然”を切り、芸術を創作している。

これらの”切れ”に共通しているのが”間”。一段落の所作を経て芸術作品になっている。俳句の切れに”間”を置いて詠みイメージすることで、その俳句の意図や景色などが浮かぶ。切れも間も、その人やその作品の意志や意識のようだ。俳句教室から、いろいろ学んだ6月22日(日)は、大安でした。

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