因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

映画『ヒトラーへの285枚の葉書』

2017-07-20 | 映画

* ハンス・ファラダ原作『ベルリンに一人死す』 ヴァンサン・ペレーズ脚本・監督 公式サイトはこちら 独・仏・英製作 103分 新宿武蔵野館、ヒューマントラスト有楽町ほか全国順次公開 上映中の作品ですから、鑑賞のご予定のある方はご注意くださいね。
 ナチスドイツがフランスに勝利したニュースに沸き立つ1940年6月のベルリン。軍需工場で働くオットー(ブレンダン・グリーソン)と、ナチ党の国家社会主義女性同盟のメンバーであるアンナ(エマ・トンプソン)の質素な暮らしを、一人息子ハンス戦死の知らせが襲う。「あなたと戦争と総統のせいだ」アンナは知らせの手紙を破り捨て、夫婦のあいだに冷たい風が吹きはじめる。やがてオットーはペンを取り、字体を変えて「私の息子は殺された。あなたの息子も殺されるだろう」と葉書に記し、大通りのビルの階段にそっと置く。アンナも夫の意志を理解し、ともに行動をはじめる。
「(ヒトラーに)加担するな」「このカードを回せ」たった1枚の葉書に込めたナチス政権への異議申し立て、独裁者ヒトラーへの反逆であり、権力に服従する市民への警告、共感を求めるレジスタンスである。政治家でも知識人でもない、ごく普通の労働者階級の夫婦だけによるレジスタンスは2年あまり続き、葉書は200枚を超えた。

 ゲシュタポの記録文書を基に(つまり実話)書き上げた原作は、1947年に初版、2009年に英訳されたことで世界的なベストセラーになったとのこと。映画化を実現したペレーズ監督は、みずからも俳優であり、ドイツ人の父、スペイン人の母をもち、それぞれの家系に権力のために命を落とした祖先をもつ。当初はドイツ語での製作の予定であったが資金に苦しみ、紆余曲折を経て独仏英の合同製作となった。

 いささか戸惑う箇所は少なからずある。オットーとアンナ夫妻が、それまでナチスに対してどのような意識を持っていたのかは描かれていない。何かしらあったからこそ、息子の戦死の知らせに「あなたと戦争と総統のせいだ」というアンナの叫びになるのだろうから。また怒りと悲しみをぶつける手段として、まったく躊躇や試行錯誤のプロセスなくして葉書を書く行為がはじまること、いよいよ行為がゲシュタポの知るところになる大詰めにおいて、隠蔽や逃亡をまったく考えないかのような夫妻のありようなど、実はもの足りない思いもある。
 第一、邦題の「ヒトラーへの~」は、映画の内容からして適切ではない。

 しかし足がつかないように複数の電車を乗り継いで移動したり、追っ手を撒くために一芝居打ったりなど、徒党を組まず夫婦だけで見事な連繋プレーで捜査のプロをめくらます様相など、全編を静かな緊張が支配し、見る者の目を引きつけて離さない。さらに本作で重要なのは、ダニエル・ブリュールが演じたエッシャリヒ警部の複雑な内面だ。犯人を挙げようと躍起になるが、ナチス親衛隊から屈辱的な仕打ちを受け、虚しさに襲われる。回収した葉書は267枚。手にした市民が警察に提出したのである。しかし夫妻が配布したのは285枚だと言う。市民の手に渡ったのはわずか18枚だったのだ。地味すぎる抵抗運動。命がけの行為に、どれほどの効果があったのか。

 夫妻の葉書は、最後にエッシャリヒ警部にある行動を起こさせる。彼の行為には、それこそどんな効果があるかと考えるとやりきれない。しかしベルリンの町に舞い落ちる夥しい葉書に、ふと井上ひさしの『イーハトーボの劇列車』の終幕、この世から旅立つ人々を見送る車掌が「思い残し切符」を万感の思い込め、客席に向かって力いっぱい撒く場面を思い起こした。

 愚直なまでに葉書を書き続けた夫妻は、警部の最期を知らない。しかし敵対する相手の心を確実に変容させたのである。

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