因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

試写会『ローマの教室で~我らの佳き日々~』

2014-07-03 | 映画

*映画公式サイトはこちら 8月23日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー
 学校や教師と生徒の関係を描いた映像作品、いわゆる学園ドラマは枚挙にいとまがない。 テレビドラマはNHKの『中学生日記』、『3年B組金八先生』シリーズはじめ、『熱中時代』、『GTO』などなど、つい先日まで『弱くても勝てます』が放映されていた。映画化もされた『鈴木先生』や入学試験に焦点をあてた『高校入試』などは異色であるが、それでも学校や教師と子どもたちは非常にドラマ性の高い題材であり、作り手は「こんなドラマを作りたい」と情熱を注ぎ、受け手も「こんな先生がいてほしい、こんな学校があったら」と理想を掲げるものなのだろう。

 『もうひとつの世界』など日本での上映作も多いジュゼッペ・ピッチョーニ監督による本作は、ローマの公立高校を舞台に、教師と生徒の交流を描いたものだ。
 ならばイタリア版金八先生、ローマのグレート鬼塚かと意気込むと肩すかしをくらう。しかしその肩すかしはどこか清々しく、なぜ肩すかしと感じるのか、それなのになぜ清々しいのかを考える楽しさを与えてくれるのである。

 舞台はローマ市内の公立高校。まず進学校ではなく、かといってことさらに問題児だらけの底辺校でもなさそうである。しかし古びた建物や、まだ若く美しいが張りつめた表情の女性校長ジュリアーナ(マルゲリータ・ブイ)がまっさきに登校して自宅から持ってきたらしいトイレットペーパーを設置したり、出しっぱなしの水道の栓を閉めたりと、どこか無気力な雰囲気が感じられる。

 そこに新任でやってきた国語と歴史の補助教員ジョバンニ(リッカルド・スカマルチョ)。なかなかにハンサムである。たるんだ校風に喝を入れ、さまざまな問題にぶちあたりながらも、夢を持てない子どもたちを目覚めさせ、教師たちをも啓蒙していくのか・・・残念ながらそんなことは起こらない。いや、起こるのかな?と感じさせるところはあるのだが、ピッチョーニ監督は既成の作品によってわたしたちの心に刷り込まれた期待や予想をやんわりと退けるのである。

 校長のジュリアーナと母親が出奔してしまった生徒のエンリコ、ジョバンニが気に掛けている問題の女生徒ジュリアーナ、そして美術史の老教師フィオリート (ロベルト・エルリツカ)の風変わりな私生活、さらにルーマニアからの移民で優等生のアダムと謎めいたガールフレンドなど、複数のエピソートがつかずはな れず同時進行しながら、物語は進む。

 正直に言えば、終幕は「これで終わりなの?!」と驚いた。エピソードの何かもうひとつ、終わりにふさわしく心に残る台詞や人物の表情がほしいと思うのが人情である。まさに前述の肩すかしなのだが、すぐにそれは清々しさに変わっていった。
 結論は出ていない。教師、生徒いずれも問題を抱えたまま、何一つ解決していない。しかしほんの少し変化のきざしがあること、そのきざしは人が望む方向にだけ進むものではないこと、人はうんざりするほど変わり映えのしない日々を重ねて、いつのまにか成長し老いていくということなどを、あまり憂鬱にならずに受け入れている自分に気づくのである。

 本作はみる者に答や結論を示さない。といって「これをどう考えるか?」と強く訴えたり、明確な問題提起をするわけでもない。このような場合、往々にして「観客にすべてを委ねる」という、これもまた一種の押しつけがましさを漂わせたり、作品をきちんとまとめられないことの言いわけになりがちなのだがそれもなく、いたって淡々としている。

 わたしたちが映画から受けとるのは、彼らのありのままのすがたである。そして映画や演劇に答を求め、結論を欲しがって前のめりになる背中をやんわりと椅子の背もたれに戻されたような心持ちになるのである。
 サブタイトルの「我らの佳き日々」は、いかにも老境にある人物の回顧的な表現であるが、老教師フィオリートに特化されたことではなく、歓声をあげて夏休みになった学校を飛びだしていく生徒たちすら、確実に老いの日々を迎えることを示唆するものではなかろうか。

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