因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

東京芸術座公演№107/シアターχ提携公演『戻り道を探して ミレナとカフカとマルガレーテ』

2024-08-25 | 舞台
*くるみざわしん作 北原章彦演出 公式サイトはこちら 両国/シアターχ 25日終了(1,2,3
 遅ればせながら、劇作家くるみざわしんの作品を初めて観劇した。過去作品についてのネット情報、本作の手応え、そして9月に控えたPカンパニーの作品まで、取り上げる内容や作風など、非常に誠実で硬質な社会派との印象を得た。

 第二次世界大戦中に亡くなったチェコのジャーナリストであるミレナ・イェシェンスカーが柩から身を起こし、かつての恋人のフランツ・カフカ、収容所で知り合ったドイツ共産党員のマルガレーテ・ブーバー=ノイマンの柩の扉を叩いて眠りを覚まさせる。それについて終了所の監督長や看守たち、医師も柩から出てくる。ミレナの目的は自分を死に追いやったナチスたちへの復讐や懺悔の要求ではない。

 戦禍に散った人々を悼むとき、「安らかに眠ってください」と祈る。舞台に登場するのは、眠っていられなくなった死者たちだ。死者たちはあのときと同じ戦争、殺戮、差別によって苦しみ、命を落とす人が後を絶たないことに耐えきれず目を覚まし、もう一度過去をやり直そうとする。その戻り道を探す物語である。

 ナチスの強制収容所で亡くなったミレナが起こすのは、恋人のカフカや盟友のマルガレーテだけではない。迫害者であるナチス側、敵方の人々の柩から出てくることを余儀なくされる。被害者だけでなく、加害者もまた人生の戻り道を探すことを必要としていることが描かれる。

 舞台の表現は、ある面で映像よりも自由自在な面がある。過去と現在が交錯することや、死者が蘇って生者と語り合うなど、現実にはできないこと、しかし演劇という媒体によって、登場人物、それを演じる俳優の肉体と声を通して、語り得なかったことを死者に語らせることを可能にする。

 日本の入館在留管理局でウシュマ・サンダマリさんが亡くなった事件は記憶に新しい。第二次世界大戦のナチスによるホロコーストから、現在の事件にも目を注ぎ、前者を昔話にせず、後者をよそ事とせず互いを繋ぎ、考察を求める劇作家の意図が伝わる。80年近い年月を経てもなお、世界各地から戦火の消えた日はないのだ。人種間の偏見や差別、人権軽視の事件も後を絶たない。しかしながら人物、俳優に「語らせている劇作家」の思想が前面に出る場合、観客にとって俳優の演技を観て、舞台作品を鑑賞するというより、劇作家の意見や主張を拝聴する心持ちになる。台詞が情報になり、時に「説教」に近い感覚になってしまうのである。

 さらに、登場人物から「わたしを演じる誰かの口」、「この声を聴いている人たち」、「私をドラマにして楽しむのはやめて欲しい」といった台詞が発せられると、表現としていささか直截であり、「もしかしたら、これは客席の私が問われている」と観客の意識を呼び覚ます行為を却って妨げてしまわないだろうか。

 劇作家の個性、主張や思想が作品にどのように表れるかはさまざまだ。まさに劇作家その人の存在が強烈に感じられるもの、生い立ちから過去のあれこれ、人生行路。「この人物は作者その人ではないか」と想像できる作品もある。台詞はもちろん、ト書きまで、自分の書き記したことばを俳優に託したとき、劇作家の存在は作品の中に溶け込み、俳優の声と肉体を通して、その人物の声として、考えとして客席に届くのではないだろうか。

 自分は東京芸術座の観劇歴が非常に少ない上、アトリエ公演の『おんやりょう』(初演再演)の印象が強い。日常会話を中心に展開するなかに、社会的な問題を提起し、人の心の奥底を照らす巧みな作劇が、俳優の堅実な演技を相まって良き成果を上げた舞台である。その印象を大切にしつつ、東京芸術座の本領発揮と言うべき作品を、もう少し鑑賞する必要があるようだ。劇団公式サイトの「歴史」を改めて読み直し、新たな課題を得た。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八月納涼歌舞伎 第二部「梅... | トップ | 演劇ユニット「クロ・クロ」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事