因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

映画『波伝谷に生きる人びと』

2015-08-07 | 映画

*我妻和樹監督・撮影・編集 公式サイトはこちら 東中野ポレポレ 10時10分~モーニングショー 21日まで
 宮城県南三陸の海沿いにある80戸あまりの小さな漁村が映画の舞台、波伝谷(はでんや)である。人びとは牡蠣やわかめ、ホヤ貝などの養殖業と、丘陵地での農業や養蚕業などを営み、そこには「結い」や「契約講」というシステム、旧家と新興とのちがいなどがあり、独特のコミュニティを構成している。
 我妻は東北学院大学で民俗学を学び、波伝谷での民俗調査に参加し、大学卒業後は個人でこの地での映画製作をはじめた。2008年3月のことである。

 モーニングショーは予告編なく、本編からはじまった。スクリーンには2011年3月11日の字幕が浮かぶ。映像はなく、大きな地震を知らせる放送、やがて大津波警報が出て、「早く逃げろ!」というせっぱ詰まった声、必死で高台へ駆けあがろうとしているのか、激しい息づかいが聞こえる(我妻はここで車、撮影用テープ、ビデオカメラ数台を津波によって失う)。津波や大震災で壊滅的な被害を受けた南三陸の映像がはじまるかと身構えると、カメラは不意に2008年3月の波伝谷の日々を映しはじめた。

 四季を通じて波伝谷で行われるさまざまな行事や、関わる人びとの労苦、複雑な人間関係などの様相は、豊かな自然のなかで、人びとがしっかりとつながって幸せに暮らしているという安易な幻想をやんわりと退ける。少子高齢化は波伝谷にも影響を及ぼしており、古くからの伝統行事をどう継承していくか、若者を村にどうつなぎとめるかなど、悩みは深い。

 本作はカテゴライズすれば、まちがいなくドキュメンタリー映画なのだが、風変わりなのは作り手である我妻が、被写体である波伝谷の人びとと常にいっしょにいることである。我妻はカメラを回しながら人びとに問いかけ、人びとがそれに応える。つまり監督みずからが撮影もインタヴューも行っているのである。祭のときなど、「我妻くんも飲んでいって」と酒が差しだされたり、「こんなとこ撮らないでくれよ」と冗談めかして言われたりなど、観客は波伝谷の人びとをみると同時に、人びとに迫り、寄り添う我妻監督その人を見つめることになるのである。

 宮城県南三陸が舞台になった映画と聞いただけで、受け手の前には即座に東日本大震災が立ちはだかる。これはもう、問答無用の条件反射のようなものであり、もはや311なしに東北を考えること、語ることはできないのではないかと思われるほどである。いや東北に限定できない。この国ぜんたいを。
 本作は、冒頭に震災当日のことがわずかに映され、そこから2時間あまり、2008年3月からの日々が示されるのである。人びとも撮影している監督も、大震災がやってくることを知らずに日々を生きている。しかしみているわたしたちは、やがて襲い来る「あの日」を考えずにはいられない。かりに大震災が起こらなかったとしたら、この映画がどのようなものになったのか、そしてわたしたちはそれをどう受け止めたのか。だめだ、想像できない。

 映画は2010年の晩秋、撮影を終えて我妻が村を去る場面で幕を閉じかけるが、震災の数日後、再び村を去るところで終わる。観客は、その後の村がどうなったのか、我妻が村とどう関わり、映画製作の仕事とどう向き合うのかを考えざるを得ない。映画はいったん幕を閉じるが、むしろそこから始まり、いまもなお続いていると言ってよいのではないだろうか。

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