お寺さんぽ Ver.03

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出来た弟、「中富川合戦」に挑む (香宗我部親泰 後編)

2008年10月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、ほぼ四国を統一して”土佐の出来人”と称された「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の弟「香宗我部親泰(こうそかべ・ちかやす)」です。

「香宗我部親秀」の養子となり、香宗我部氏を名乗ることとなった親泰。
父国親の没後、後を継いだ兄「長宗我部元親」に従って、武勇の兄「吉良親貞」と共に各地を転戦するのです。
主に戦場での活躍著しい親貞とは異なり、彼の真価は外交交渉時にて発揮されるのでした…。

永禄十二年(1569)
香宗我部氏、長宗我部氏の仇敵、土佐安芸群の名将「安芸国虎(あき・くにとら)」
一時期は「岡豊城」を襲撃され、窮地に追い込まれたこともある安芸氏を一ヶ月という籠城戦の末、ついに攻め滅ぼしました。
その後、代わって土佐国安芸城主となったのが、親泰なのです。

天正三年(1575)
安芸氏と共に抵抗を続けていた土佐一条氏を追った元親は土佐を平定。
その後、「三好長治(みよし・ながはる)」による数々の暴挙によって大混乱となっていた、阿波国(徳島県)へ侵攻しました。

うち、阿波東部を担当した親泰は、まず弟「島親益(※四男)」の仇「海部宗寿(かいふ・むねとし)」の「海部城」を、続いて「新開道善(しんかい・どうぜん)」の「牛岐城(富岡城)」を次々と攻略しております。

これから七年余りの年月をかけ、徐々に周辺の城を攻略し、国人領主らを屈伏させていくのでした。

天正十年(1582) 「中富川合戦」
元々三管領の筆頭・細川氏の居城であった「勝瑞城(しょうずいじょう)」は、”天下の勝瑞”として知られていました。
こちらを守備していたのは、「三好義賢」の三男「十河存保(そごう・ながやす)」です。

二万三千といわれる軍勢を率い、侵攻する元親。
南からは、東条氏、牟岐氏、仁宇氏、四宮氏ら、阿波衆を率いる親泰の軍勢を向かわせ、中島表からは降伏した一宮氏、桑野氏らを加えた軍勢というように、全軍を二つに分けてそちらへ攻め込んだのです。

親泰の率いる先手勢は黒田川原へと布陣。
「勝瑞城」より出陣した十河勢は、勝興寺へ本陣を構えたのです。
中富川を最終防衛ラインと考えた存保は、選りすぐりの軍勢二千を向かわせました。
勝負に気負う十河勢は、中富川を渡河して突撃…

その刹那!
穏やかな流れであった中富川が突如激流となったのです!!

十河勢の武将「矢野隼人」は、水深の浅さに気付いて大声を張り上げましたが間に合わず、激流にのまれて溺れる者、待ち構えていた長宗我部勢に討ち取られる者、などが続出し、たちまち総崩れとなってしまうのです
先鋒の壊滅によって軍を支えることができなくなった存保は撤退。
こうして、十河勢の撃破に副将とし挑んだ親泰は大活躍したのでした。
続く天正十一年(1583)には、阿波国「木津城」を攻略しております。

こうして、兄の四国統一に大きく貢献した親泰。
前回書いた通り、信長死後の情勢を読み切れず、秀吉の四国征伐を招いてしまうのでした。
秀吉に従った後も兄を助け、副将・参謀と活躍した親泰ですが…
天正二十年(1592)
「文禄の役」に赴く途中、嫡男「香宗我部親氏」が急死。
(※跡は次男「香宗我部親貞親」が継いでおります。関ヶ原後には佐倉・堀田家へ仕えています)
さらに続いて、親泰自身も朝鮮半島へ赴く途中であった文禄二年(1593)長門国で病没。
享年五十一。

兄元親に先立つ死は、後継問題に揺れる長宗我部氏に暗い影をおとすこととなるのでした。



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羽生 道英
PHP研究所

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※関ヶ原・大阪陣へと出撃した盛親くん。
 関ヶ原敗戦後は、寺小屋の先生になっていたりします。