真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「裏の後家さん 顔射シャワー」(1993『未亡人 シャワーonanie』の2006年旧作改題版/製作:旦々舎/提供:Xces Film/監督:浜野佐知/脚本:山崎邦紀/撮影:河中金美・松本治樹・阿部二郎/照明:秋山和夫・石田政慶/音楽:藪中博章/編集:㈲フィルム・クラフト/助監督:女池充/制作:鈴木静夫/ヘアメイク:小川純子/スチール:岡崎一隆/録音:銀座サウンド/現像:東映化学/出演:YUKO・章文英・RAIRA・栗原良・平本一穂・池島ゆたか)。
 音効先行で肉感的な女がネグリジェを着たまゝシャワーを浴びる、早速、颯爽と走るジャスティス。濡れた薄布越しに透けるヤバいオッパイに俳優部からクレジット起動、乳尻を堪能させた上で、暗転タイトル・イン。明けて肌着も外した完全な裸を、スタクレが追ふ。ボガーンと威圧的な爆乳に対し、案外コンパクトにまとまつたおヒップ始め、締まるところは締まつてゐるのが素晴らしい。素晴らし、かつたのだけれど。結論を先走るとアバンからタイトルバックまで、実は女の頭部を頑なに抜かない不自然な態度ないし賢慮に、その時点で気づくか立ち止まるべきであつた模様。
 劇伴も起動してスーツケースを引く御々足から、上にティルトするとあれゝのれ?広大な面積のおかめ顔に、漆黒の暗雲が立ちこめる。結構画期的な大きさの巨乳よりも、顔面の方が更にデカい。多分新宿ら辺のビル群を見渡した苗字不詳の悠子(YUKO)が、「Hoo,What a fucking amazing!」と感嘆する―この人はどんな僻地から出て来たのか―のに“まあ、すごい…”と日本語字幕が入る予想外のギミックには、果たしてこの映画は大丈夫なのかと度肝を抜かれた。大丈夫では、なかつたのだけれど。一方旦々舎本丸、正確には当時、もしくは旧旦々舎本丸。垣原家家長の久伸(池島)と次男の陽一(平本)が碁を打ち、結婚し既に家を出てゐる長男の辰夫(栗原)は、一人縁側に離れ煙草と缶ビール。男の休日の、ステレオタイプが清々しい。兄弟と血の繋がりはない、久伸の後妻・啓子(故人)の親子ほど齢の離れた一番下の妹が、アメリカで結婚生活を送つてゐたものの、配偶者が交通事故死し帰国。暫く垣原家に置いては貰へまいかといふ相談を、受けてゐる旨久伸が息子達に切り出したタイミングで、当の悠子が現れる。後述するアキレス腱はさて措き、実は啓子に対する思慕を未だ引きずる辰夫は、父と弟が歓待する傍ら軽く苛立つて実家を辞す。ところで辰夫と陽一の母親に関しては、爪の垢ほども語られない。
 配役残りノンクレで飛び込んで来る鈴木静夫は、辰夫行きつけの店のバーテンダー。内装がえらいゴージャスなのだが、旦々舎本丸同様、借り賃の発生しないリアル店舗なのかな?栄の誤字でなく本クレ・ポスターとも章文英の章文英は、辰夫の妻・由峡江。辰夫の啓子に対する想ひをア・プリオリに、観客なり視聴者は余所に予め知る。YUKO共々、漠然とした名義のRAIRAは、陽一の彼女・宮島詩織。いつそ栗原良もリョウで出撃すればよかつたのに、何が望ましいのかよく判らんが。
 ソクミルに残された僅かなフロンティア、浜野佐知1993年第二作。待つてるぜ、エク動。
 悠子が風呂に入る度エクストリームなシャワーonanieに耽るのが、夫と死別して以降の癖と新日本映像公式サイトのストーリー紹介にはありつつ、劇中さういふ描写は一滴(ひとしづく)たりとてなく。辰夫がハードに肉感的な義母に拗らせる劣情も、濡れ場がてらイマジンのひとつでも放り込んでおけばいゝものを、外堀を満足に埋めようともしないまゝ、適当に始終は進行して行く。のが、先に触れた今作のアキレス腱。致命傷については、改めて後述する。悠子が順に陽一に辰夫、そして久伸とも寝る逆ジェット・ストリーム・アタックの果て、陽一は勃起不全。辰夫は由峡江と向き合ふ障碍となる、疑似近親相姦的な横恋慕。当然、久伸の場合は啓子との記憶、ないしは喪失。男三人が抱へる各々の問題を解消したところで、流れ的には何となくまとまつてゐなくもないとはいへ、垣原邸にやつて来た時と同様、藪から棒に悠子は再びアメリカに戻ることにする。そもそも何しに来たのか知らないが、木に竹を接ぎに帰国したのかこの女。一応男衆を煙に巻く程度に自由ではあれ、結局も何も要は端から、悠子の主体性は曖昧模糊どころか五里霧中に覚束ない仕舞ひ。少なくとも、フランク―もしくは無節操―に男好きであるのは酌める。由峡江と詩織もそれぞれ辰夫と陽一に寄り添ふだけの従順な女に過ぎず、浜野佐知が今なほ頑強に吠え続ける、ミサンドリーと紙一重といふか、概ね表裏一体の攻撃的な女性主義は何故か珍しく影を潜める。さうなると物理的な意味に於ける造形のクオリティが、首から下と上とで綺麗に反比例する主演女優が親子三人、男優部を喰ひ散らかすだけの映画が関の山。栗原良十八番の徒な難渋さも稀薄な展開の中さほどでなく活きて来ず、垣原家のロケーションを旦々舎本丸で撮影してゐる点を除けば、旦々舎らしさといつても轟音の煽情性くらゐしか見当たらない。にも関らず、カメラがYUKOのある意味豪快な面相を捉へてしまつたが最後、画が木端微塵に砕け散るのは不可避。となるとビリング頭の顎のラインが、文字通り生死を分つ境界線として機能する、稀有な形でスリリングな一作。YUKOの御尊顔は地雷の起爆装置か、といふのが改めて後述するとした致命傷。まるで悪魔と契約してルックスと引き換へにボディを手に入れたかのやうな、エクセスライクの極北をもブチ抜くYUKOが再び新日本映像公式に拠ると、高校を出て語学留学後、アメリカのポルノ業界に飛び込んだとか雲を掴むやうなイントロが書かれてあるが、如何せん兎にも角にも灰汁が強い。ブルータルな乳の暴力さへあるならば、ほかには何も要らない。針に糸を通す覚悟でエモーションをその一点に集中するか、YUKOのどすこいな力士面の反照で殊更に光り輝いて映る、扱ひに然程差のない二番手三番手を束の間愛でるかの二者択一。取りつく島は、その辺りにしかないのではなからうか。

 最早どうでもいゝツッコミ処ですらないが、新題上の句いはく“裏の後家さん”の裏とは、全体何処の何方(どちら)さん視点なのよ。そもそも旦々舎の裏に誰が住んでゐるのか以前に何があるのか、描かれてゐた例なんて覚えがない。幾らエクセス仕事とはいへ、適当にもほどがある。


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