真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「百合子、ダスヴィダーニヤ」(2011/製作:株式会社旦々舎/企画:鈴木佐知子/監督:浜野佐知/原作:沢部ひとみ『百合子、ダスヴィダーニヤ』 宮本百合子『伸子』・『二つの庭』/脚本:山邦紀/音楽:吉岡しげ美/撮影:小山田勝治/照明:守利賢一/美術:奥津徹夫/録音:吉田憲義/編集:金子尚樹/助監督:酒井長生/ヘアメイク:吉森香里/衣装:似内恵子《NPO法人京都古布保存会》・松竹衣装株式会社/制作:森満康巳/撮影助手:大江泰介・石田遼、他一名/応援:金沢雄大/制作進行:田中康文/メイキング編集:金澤理奈絵/タイミング:永瀬義道/タイトル:道川昭/協力:有限会社フィルム・クラフト、報映産業株式会社、有限会社アシスト、他多数/Special Thanks:鈴木静夫・ぴんくりんく編集部、他多数/助成:文化芸術新興費補助金/出演:菜葉菜・大杉漣・洞口依子・大方斐紗子・麻生花帆・平野忠彦・里見瑤子・齋木亨子・吉行和子・一十三十一、他多数)。
 大正十三年、雑誌『愛国婦人』の編集者・湯浅芳子(菜葉菜)が、招きに応じられぬことを詫びる電報を送りかけて、思ひ直す。時制は少し遡り、芳子の先輩で作家の、野上弥生子(洞口)邸。野上は十七歳でデビューし天才少女作家と騒がれた、同業者の中條百合子(一十三)を芳子に引き合はせる。ここでいきなり満を持して飛び込んで来る、先代の相沢知美から女中女王の座を継承した―青井みずき以前の代は知らん―里見瑤子は、野上邸の女中。朗らかに里見瑤子が茶を持つて現れた瞬間、さりげなく火を噴く完璧なキャスティングに拍手喝采した。サクサク場面は移り、緊迫した風情で百合子と、古代ペルシア語研究者で十五歳年の離れた夫・荒木茂(大杉)とが対峙する。百合子が片方向で愛情を失してゐるらしく、必死に食下がる荒木に対し、冷たい表情の百合子が「まるで、貴方に喰はれてゐるやうな気持ち」と、大概な一言を無造作に言ひ放つたタイミングで、ジャーンと鳴り始めるメイン・テーマと同時に、威力抜群のタイトル・イン。
 芳子が汽車に揺られて向かつた先は、福島県は安積の開成山。将来的には正式な別居を見据ゑ、執筆を口実に百合子が逗留する祖母・運(大方)の屋敷に、芳子は招かれる。意気投合を通り越し俄に燃え上がり始めた芳子と百合子は、二人の間に流れる感情が、友愛に過ぎないのかそれとも男女間の愛情と同じものなのか、意地悪をいふと白夜の如き開明性が微笑ましくもある、哲学的な問答に戯れる。伊藤整が三十余年後に提出する近代日本における「愛」の虚偽を、当然彼女達は何れも知らない。百合子を失ふ恐怖に荒木がジタバタ蠢動する一方で、百合子との満ち足りた日々の最中にも、芳子は破局を迎へた元恋人で芸妓の北村セイ(麻生)との悲痛な過去を度々想起、静かな予感を裡に秘める。
 出演者残り平野忠彦と吉行和子は、百合子の父母・中條精一郎と葭江。精一郎は微妙だが葭江は、荒木から離れて行く百合子の心境に理解を示すものの、娘の新しい恋人が、女であることまで果たして知つてゐたのか、即ち同性愛をも認容するのか否かは不明。齋木亨子(=佐々木基子)は、中條家のメイド。他多数は、押並べてエキストラ的面々。
 ピンク映画といふ、基本的には男が女の性を商品化する商業ポルノグラフィーのフィールドにあつて、女の側から、女が気持ちよくなる為のセックスを描くことを頑強に旨とし、四十年の長きに亘り三百本強の監督作を発表。狭い業界に止まらず社会全体を相手に今なほ苛烈な咆哮を轟かせ続ける、日本のみならず間違ひなく世界最強の女性映画監督・浜野佐知。思想的な軍門に素直に下りはしないにせよ、スティル・ファイティングなその姿勢には、常々最大限の敬意を表するものである。さうはいへピンクスとしては心苦しいところでもあるが、ピンクは正直犠牲にして「こほろぎ嬢」(2006/主演:石井あす香)に続き世に送り出した一般映画第四作は、大正から昭和の時代既に“男が女に惚れるやうに、女に惚れる”ことを公言した女と、女と妻との出会ひを契機に動揺が決定的なものとなる一組の夫婦の愛憎を描いた、ヘテロとホモ、双方向のセクシュアリティーが真正面から激突する変格にして本格的な大恋愛映画。いきなり明後日な無駄口を叩くと、それにしては平素、生半可な男の監督が撮るものよりも余程豪腕のピンクで我々下賤な俗物どもにも有無をいはせなかつた、浜野佐知にしては文字通り気持ちいいところを服の上から触るやうな濡れ場は、兎にも角にもお上品に過ぎよう。馬鹿者ピンクではないのだぞ、一般映画だから仕方がないと怒鳴られるかも知れないが、ほかならぬ浜野佐知の口から、仕方がないなどといふ意気地のない言葉は聞きたくない。とりわけ激しく首を傾げさせられたのが、荒木が心の冷えきつた百合子を無理気味に抱く一幕。当初の段取りを超え、諸肌脱いだ大杉漣の熱演が現場の好評も博したとのことだが、そもそもピンク時代の大杉漣は、僅かに見た限りでは女を“抱く”やうな役者ではなかつた、“犯す”のみだ。ついでに芳子と百合子が終に体を重ねるクライマックス、背景の障子に、池の波紋を映り込ませるアナクロニズムには苦笑を禁じ得ない、演歌の花道か。等々と野暮を垂れながらも、それでは今作が詰まらなかつたのかといふと、断じてさういふ訳ではない。諸々の是非はさて措き、少なくとも極私的な好嫌に的を絞れば、断然大好きな一作。浜野佐知が湯浅芳子から受け継いだ、その意味では長嶋茂雄が自堕落に謳つた永遠を本当に宿す、抑圧の夜の明けるその日まで燃え盛り続ける不屈のフェミニズムやプロテストは、個人的には無益極まりない人生に於いてひとまづ、血肉を共有するほどの重要なテーマでは申し訳ないが必ずしもない。湯浅芳子と中條、後に宮本百合子といふ、実在した人物の物語である点も、世代的関心といふ衣に包んだ無知蒙昧を臆面もない所以に、さしたるどころか殆ど琴線に触れることもない。ただ、小生の捻くれた文脈の中で、「百合子、ダスヴィダーニヤ」を通して描かれた湯浅芳子の姿から浮かび上がるものは、予め幸せにはなれない者のエモーション。たとへ孤立と同義であれども、無援を承知で屹立する魂の美しさには、圧倒的な強度で胸を撃ち抜かれた。演出通りの成果か、滑稽で大雑把な造形が、縦に引き伸ばした清水大敬くらゐにしか見えなかつた大杉漣を始め、量産型娯楽映画から拝借した安定感を何気なく誇る野上邸女中と中條家メイド以外には、殊更に配役の煌きを感じることもなかつたキャスト陣の中でも、セイとの修羅場の回想と別離、そして百合子が宮本顕治の下に去る、何と予知夢だなどと豪快な飛びギミックさへ繰り出しつつ、諦観と紙一重の覚悟に辿り着く菜葉菜の表情には、強い強いサムシングを感じた。よしんばそれが、本作が本来志向した本筋とはてんでお門違ひの明々後日な感興であつたとしても、映画全体の絶対値の大きさが為さしめた業であることは、間違ひあるまい。
 さて、最後に筆休めに、改めて荒木役に関して与太を一吹き。ミスキャストとすら筆を滑らせるのは流石に憚られるが、認知度含め世間一般的には兎も角、これまで営々と積み重ねられて来た旦々舎の本流といふ観点からは、荒木茂の役は矢張り大杉漣ではない。一体それでは誰であれば適役なのかといふと、当然勿論畢竟御存知栗原良(a.k.a.リョウ・ジョージ川崎、更に相原涼二)に決まつてゐる。浜野佐知の自宅居間にて、男ならばまだしも女に女房を寝取られたことに、「どうしてかうなつたんだ・・・・」と眉根に深い皺を闇雲に刻み込む栗原良の画に、ヒラリラリラと薮中博章の音源が被さる。といふのが、然るべき旦々舎の定石にさうゐないさうゐない、さうゐないつたらさうゐない。

 今回、「百合ダス」は劇場でのロードショー公開ではなく、福岡映画サークル協議会主催の、公共施設を利用したブルーレイによる上映会での観戦である。世辞にも褒められたものではない映写環境については―覚えてるけど―忘れたことにして、来福された旦々舎の両監督と豊潤な一時を過ごす、拝顔の栄に浴する機会に恵まれた。その中で、映画を通してだけでは中々掴み難い、旦々舎の実相に到達し得た、やうな気がした。それは、山邦紀は思想の無力を知り、浜野佐知は、世界の変革を信ずる。知ることと信ずること、この一見相反するリアリズムとロマンティシズムとは、二つ揃つた時相互補完しものを考へ行ふに当たつて最も肝要となる精神、即ち御両人が両輪となり生み出すダイナミックな駆動が、旦々舎の強靭な馬力の源であつたのだ。


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