真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「いんび快楽園 感じて」(2011/制作:セメントマッチ/提供:オーピー映画/監督:池島ゆたか/脚本:五代暁子/撮影:清水正二/編集:酒井正次/音楽:大場一魅/助監督:中川大資/監督助手:北川帯寛/撮影助手:海津真也/照明応援:広瀬寛巳/編集助手:鷹野朋子/タイミング:安斎公一/挿入歌:『暗い海の底に』詞・曲:桜井明弘 歌:斑鳩洋子/出演:琥珀うた・酒井あずさ・望月梨央・野村貴浩・なかみつせいじ・竹本泰志/special thanks:日高ゆりあ)。クレジット終盤に力尽きる。
 御馴染み東映のカンパニー・ロゴ、いはゆる“三角マーク”から手前の岩を差し引いた如き波頭の画から続いて、一応モノクロの劇中映画。桟橋にて、仁義を通した結果刃傷沙汰を仕出かし、三年の臭い飯を喰つてゐたらしいヤクザ者のハルキではなくノブハル(竹本泰志の二役)と、御丁寧にも真知子巻きをも披露する、明和建設社長令嬢のマチコ(琥珀うたの二役)とが道ならぬ恋を燃やす。「君の名は」テイストの大時代的なメロドラマがエンド・マークを迎へると、カラカラ火を噴く35mm映写機のショットを挿んでタイトル・イン。結果論からいふと、この冒頭「キミのニャは」(仮称)に、何の意味があるのかはサッパリ判らない。
 タイトル明け、上野の不忍池からカメラがパンした先には、小出しの情報を総合すると四ヶ月前に十三年勤務した明和物産(最終所属は営業二課)をリストラされ、再就職活動には三十連敗、挙句にアパートも追ひ出され無職に加へ目下無宿の秋本真一(野村)がトボトボと歩く。公園に棲息する野獣ホームレス(広瀬寛巳)に、その場所での仲間入りをおづおづと申し出るも脊髄反射で猛撃退された真一は、最終番組「地球最後の日 静かな海」を上映した後閉館した形跡を漂はせる、上野オークラ旧館へと漂着する。冷たい雨の降る中、当然施錠さてれゐる建物内には入ることも出来ず、真一は軒下で疲れた心身を休める。最初の夢オチに登場するspecial thanksの日高ゆりあは、転落した真一に手の平を返す元カノ・めぐみ。少し見ない内に、この人随分と痩せた。一眠りした真一が目を覚ますと、先刻は閉ざされてゐた筈の入り口が、不思議なことに開いてゐる。誘き寄せられるかのやうに足を踏み入れ、初めて映画館を訪れた人間のやうな感嘆を劇場の広さに漏らした真一は、とりあへず一晩を無人と思しきオークラ旧館で過ごさせて貰ふことに。まさか観客用ではないにせよ、実際にさういふ設備の有無は判らぬが一風呂浴びてサッパリした真一に、ナオミ(望月)とその夫・和彦(竹本)が視線を投げがてら、劇場内での座席プレイを披露する。「人妻痴情 しとやかな性交」(2009/主演:大貫希)以来久々ともなる望月梨央は、ピンク映画デビューは2003年―本戦たる「ノーパン秘書2 悶絶大股びらき」(新東宝/脚本:五代暁子/主演:西園貴更)の前に、「ノーパン秘書 悶絶社長室」(脚本:森角威之/主演:まいまちこ)にも見切れる―なので地味な息の長さを誇るに止まらず、今回は良コンディションも窺はせる、衰へぬどころか加速した美貌を輝かせる。翌日、セーラ服姿のミオ(琥珀)が戯れにストローを通して落とすミネラル・ウォーターに、真一は起こされる。真一がミオを追ふと、上階の畳間の一室では、麦藁のテンガロンをカッチョよく決めたミオの父親・隆也(なかみつ)と、母・しずか(酒井)がうどんの食事を摂らうとしてゐるところであつた。因みにミオは隆也の次女で、長女が先行したナオミ。閉館後の劇場を管理してゐると称する隆也一家と真一との、濡れ場も含め絡みを次々と夢でオトしつつ、実はミオ・しずか・隆也・ナオミ・和彦が主人公の「地球最後の日 静かな海」劇中映画パートが併走する構成の中、真一は偶さか辿り着いた安穏に微睡む。
 彗星が衝突し滅亡する運命の地球を舞台に、五人の家族の最後の一日を描くのが、「地球最後の日 静かな海」のストーリー。挿入歌の「暗い海の底に」は、荒廃する世界の中最後まで放送を続ける、ラジオ番組「ジュンペイ《表記と、声の主不明》の絶望アワー」が流す最初の一曲、選曲の複合的な心憎さが堪らない。
 池島ゆたかの2011年第一作は、「癒しの遊女 濡れ舌の蜜」(2010/監督・脚本・出演:荒木太郎/主演:早乙女ルイ)、「奴隷飼育 変態しやぶり牝」(2011/脚本・監督:山邦紀/主演:浅井千尋)に続く、新館建設に伴なひ前年八月一日に閉館した、上野オークラ旧館を舞台とした一作。ロケーションとしての小屋の重要度から然程高くはない―荒木太郎は、今作を間に挿む次作「淑女の裏顔 暴かれた恥唇」(2011/監督・出演:荒木太郎/主演:星野あかり)に於いても、更に僅かにロケ地として使用―第一弾、劇場内部を縦横無尽に撮り倒すものの、映画自体は画期的な木端微塵に終つた―あるいは、“終れなかつた”―第二弾に続く文字通り三度目の正直は、戦ひ抜いた老ピンク映画監督の生涯を描いた壮絶な感動作「超いんらん やればやるほどいい気持ち」(2008/新東宝/脚本:後藤大輔)も容易に想起させる、手放しの映画愛を真正面から撃ち抜いた渾身の一作。ひとまづ、真打登場の感興は強い。大傑作「超いんらん~」と比べると、本作に際して池島ゆたかと五代暁子が採用した戦術は全くミニマム且つプリミティブなもので、いはば棒球に近いどストレートではある反面、其れなればこその愚直なエモーションも感じられなくはない。屋上からミオに見送られ、新たな、そして強い気持ちを胸に上野オークラ旧館を後にする真一が、雑踏で再びひろぽんと交錯するラストが、陽性の人生応援歌映画を磐石に締め括る。と、称へて済ます訳には、残念ながら相談が通らない。
 対世間戦に敗色濃厚の真一にミオは、「たとへ厳しくつても、現実を生きるのつて憧れちやふなあ」と奇怪な一言を何気なく漏らし、後に上野オークラ旧館での隆也一家との生活を望むことに対しては、「元気になつた貴方は、外に出て行かなきや!」と背中を押す。小生の頑迷な偏狭が、今作の何処にアレルギー反応にも似た拒絶を示さざるを得なかつたのか、お察し頂けたであらうか。ミオいはく、“現実と映画の、ちやうど真ん中”の小屋にて、生きつぱぐれた観客は映画に触れることにより得た感動を心の糧に、再び現実へと胸を張つて小屋の敷居を外側に跨いで行く。さういふ図式そのものに関しては、少なくとも理想的な現状認識としては一旦は否定しない。ただ、劇映画自体がそこに落ち着いてしまふことには、果たして許されるのかとすらいふのは筆の滑りも過ぎるにしても、果たして如何なものかといふ激しい疑念を抑へ難い。何がいひたいのかといふと、これでは、映画が最終的には現実を生き抜く為の出汁に過ぎないのではないか、目的としてではなく、映画ないしは物語が手段に堕してしまつてゐるのではないのかと感ずるからである。サルでも知つてゐる江戸川乱歩が提唱した名定立“現し世は夢であり、夜の夢こそ誠”を、天からではないから地啓の真理と奉ずる立場からは、オークラ旧館に終なる温かな安住の地を手に入れた真一が、実際には上野の片隅で冷たくなつてゐるところを発見される。たとへばそんな、一見救いのない無体な着地点にこそ、より一層純化された美しさを見出すものである。

 蛇足に、底意地の悪い瑣末をツッコんでおくと、一々35mm主砲を持ち出しておきながら、「キミのニャは」と「地球最後の日 静かな海」劇中二作の海辺シーンは、何れもキネコである。


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