真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「色情痴女 密室の手ほどき」(2010/製作:旦々舎/提供:オーピー映画/監督:浜野佐知/脚本:山﨑邦紀/撮影:小山田勝治/撮影助手:市川修/照明助手:藤田朋則・広瀬寛巳/撮影部応援:鈴木慎二/助監督:加藤義一・田中康文・金澤理奈絵/編集:有馬潜/音楽:中空龍/劇中歌:與語一平/録音:シネキャビン/タイトル:道川昭/現像:東映ラボ・テック/出演:倖田李梨、浅岡沙希、朝倉麗、荒木太郎、ヒロポン、ヤス・タナカ、神夜)。出演者中、ヒロポン(広瀬寛巳)とヤス・タナカ(田中康文)は本篇クレジットのみ。
 倖田李梨のショットに被せられる、覚束ないナレーション、「私は彼女の○○を眺める度に、これこそが悪魔の傑作であると感嘆するのであつた」。因みに○○といふのは、あくまで当サイトが柄にもなく憚つたのではなく、後の場面と同じく劇中台詞ママ。
 タイトル・イン明け、博多から妻・かんな(朝倉)を伴なひ、ポップに鼻息荒く寺川(荒木)が上京する。一切博多弁は使はない夫婦が東京に乗り込んだ目的は、寺川が金を奪はれた、女詐欺師を追つて来てのものだつた。寺川が詐欺師を終始口汚く罵る傍ら、かんなはすつかり醒めた風情で、実は既に見切りをつけた夫を全く同様に蔑視してゐた。寺川とかんなとの対照的な立ち位置には早くも、奇矯な主翼を奔放に飛ばす他方で地に足の着いた補助翼で巧みに物語を制御する、山﨑邦紀らしい頑丈な構造が看て取れる。一旦宿に入り、相変らずエキセントリックに喚き散らし続ける寺川は、半ばといふかほゞ完全に呆れ顔の妻に対し「一発ヤッて気合入れよう」と、朴訥とした頓珍漢を早速加速させる。画面の片隅を飾る国沢実と同様に、自身の映画を撮らせると力なく手を詰ませる反面、荒木太郎は人の映画に俳優部として出演する際には見違へるやうに活き活きとしてゐる。
 所変つて何処ぞの河原、正方向か明後日かはともあれ、今作に於ける最終兵器がある意味華麗に登場する。教職の内定も得た音大生の久志(神夜)が、卒業後の結婚も決めたカオリ(浅岡)と仲良くピクニック。こゝで、フォーク・ギターも軽く爪弾きオリジナル曲を彼女の前で披露する久志の、よくいへばプリミティブな歌声が兎にも角にも凄まじい。音楽的には単なる―それが狙ひなのであらうが―軟弱も通り越し惰弱なフォーク・ミュージックでしかないのだが、神夜のか細いヴォーカルがクソみたいな歌詞以前に音程から画期的にへべれけで、爆発的に別の意味で面白い。神夜だけでは探しやうもない神夜は、とりあへず今時の色男ではあり、足なども惚れ惚れするほど長くはあれ、直截には「一体何処から拾つて来たのだ!?」感が軽やかに爆裂する、最早輝かしいまでの馬の骨である。他方で、実は今作公開前に足を洗つた浅岡沙希はといふと、こちらも当代のカワイコちやんでプロポーションも申し分なく、全く以て久志が羨ましい限りでもあると同時に、不自然な形状記憶ぶりは、絶妙に詰め物臭くなくもない。二度目に殆ど映画全体すら破壊せん勢ひの迷曲を、矢張り河原にて今度は一人で久志が呑気に迸らせてゐると、声に惹かれたと称して亜矢子(倖田)が現れる。アヴァンギャルドの領域にすら突入しかねない珍歌唱を聞くに、凡そシークエンスが初めから成立し難い点は改めて断るまでもあるまい。兎も角、この際 “兎も角”とでもしかいひやうがないが、だから兎も角亜矢子は大絶賛初対面の久志にいきなり、本を読んで欲しいと音読を求める。当然の如く、まるで話を呑み込めぬ久志に、亜矢子はしかも一時間一万円などといふ気前のいゝ、といふよりも、常識的には明らかに胡散臭い条件を提示する。藪から棒な申し出に加へ法外な報酬も告げられたところで、久志の動揺を表現するかのやうに、より直截には神夜のお寒い演技力を補完して、旦々舎作ヘビー・ローテーションの旋律がジワジワ鳴き始める、劇伴のタイミングは実はさりげなく完璧。
 久志が誘(いざな)はれたのは、亜矢子いはく“漂流基地”と称するウィークリーマンション。尤も内部の撮影は、例によつて浜野佐知自宅ではある。そこで亜矢子が差し出したのは、挙句に伏字だらけのいはゆる春本。・・・・過積載のツッコミ処は強引に振り払ひひとまづ前に進むと、心許ない久志の朗読に耳を傾けながら、隣室に引き込んだ亜矢子は自慰に耽る。別れ際に連絡先も渡された久志が、若くて可愛くてスタイルもよく、一応家庭的なカオリとの関係も余所に亜矢子との奇妙な、奇天烈に過ぎる逢瀬に何故か次第に溺れて行く一方、既に己が騙され済みであるのもあり手口を熟知する寺川は、二人のウィークリーマンション管理人(順にヤス・タナカとヒロポン)を経て、徐々に血眼で捜す標的に近づきつつあつた。即ち、寺川が色仕掛けも込み込みで金を奪はれた女詐欺師といふのは、誰あらう亜矢子であつたのだ。とこ、ろで。少し前に戻り私事であるが、広瀬寛巳は基礎知識としても、エンド・クレジットに触れる前に田中康文を視認し得たさゝやかな成長を、勿論誰も称へてなんか呉れやしないだらうから自分で褒めてあげたい。そんな手前味噌は全力でさて措き、話はまるで変るがより強く望むのは田中康文の第三作であることは改めていふまでもない。デビュー作には必ずしもピンとは来なかつたが、第二作には正調娯楽映画への力強い志向を、確かに感じたものである。
 良くも悪くも見所には事欠かない反面、詰まるところはどうにも焦点が定まらぬ辺りが、好意的に捉へるとお茶目な一作。序盤で火を噴く男優部主演の超絶、もとい壮絶唱法が如何せん全てを薙倒す、特大のチャーム・ポイントに関しては強ひて目を瞑るか耳を塞いで敢て一旦通り過ぎるにせよ、煌くやうなイケメン大根と最終的には芝居の軽い倖田李梨とでは、土台アクロバットの度も越した“本を読む、ことを乞ふ女” といふメイン・プロットが力を持ち得ない。逆に、終に一時的とはいへ居室に踏み込んだところで、旦那を迂闊な道化役に、機を見て動き出したかんなが亜矢子と共闘を図る展開は、朝倉麗と荒木太郎それぞれの質量も具はり、浜野佐知平素の能動的な女性主義が綺麗に咲き誇り十全に形を成す。さうなると寧ろ、最早全然別の物語になつてしまつたとしても、亜矢子とかんなとが意気揚々と互ひの前途を祝し別れるシークエンスでいつそ畳んでみせた方が、案外映画の首が据わつたのではなからうか、とかいふ気持ち経験論的な印象も残る。締めの濡れ場に浅岡沙希の裸を改めて見せておくかなといふ、らしくないサービス精神でも酌めばよいのか、以降に結局久志が都合よくカオリとヨリを戻す件を差し挿んだ時点で、元来頼りなかつた軸が、終盤に至つて完全に失する。そもそも、他の女に心を移した男をメロウに思ひ悩み、再び自身の下に帰つて来るのをいぢらしく待つてゐるだなどと浪花節的なカオリの造形が、苛烈なる“女帝”浜野佐知にしては重ねてらしくない。何となく観る分にはそれなりにユニークなモチーフを、手堅い煽情性で彩りつつ、そこそこの着地点に無事落とし込んだやうにも見えなくはないが、ほかでもない浜野佐知作である点を意識するならば、腑に落ちぬ点も決して少なくはない。絶対値だけは無闇にデカい、神夜の底の抜けた破壊力は矢張り忘れ難く、いはば、珍作の部類に属しよう愛嬌である。


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