真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「令嬢たちの狂乱 ダブル縄祭り」(1990『団鬼六 令嬢縄責め』の2010年旧作改題版/製作:シネマアーク/提供:Xces Film/監督:小林悟/原作:団鬼六/脚本:片岡修二/プロデューサー:尾西要一郎/撮影:柳田友貴/照明:小野寺透/編集:金子編集室/助監督:青柳一夫/音楽:サウンドボックス/メイク:山岸みどり/録音:銀座サウンド/現像:IMAGICA/緊縛師:渡辺仁志/出演:舞坂ゆい・一ノ瀬まみ・港雄一・坂入正三・朝田淳史・吉本直人・橋詰哲也・工藤正人・岸加奈子)。出演者中、橋詰哲也がポスターには何故か橋爪哲也。助手勢に完敗する。それも兎も角、ピンク映画でIMAGICAのロゴを見たのは初めてだ。
 ミサトな江藤邸、姉・倫子(岸)と妹・麻美(舞坂)の美人令嬢姉妹が、江藤家当主にして資産家の父・誠一郎(港)の六十歳の誕生日を祝ふ。姉妹の母あるいは誠一郎の妻の不在に関しては、一切語られることもなく通り過ぎられ不明。さりげなく、誠一郎が健康に問題を抱へることにも触れつつ親娘三人で歓談するところに、江藤家お手伝ひの嶋村圭子(一ノ瀬)が、遠縁の野沢俊介(坂入)が来訪した旨を伝へに来る。夕食時に、しかも電話も寄こさずに現れた無礼に怒つた誠一郎は圭子に命じ追ひ返さうとするが、一千万の当座の運転資金がないと会社を潰してしまふ野沢は、勝手に居間まで上がり込む。すると、既に未返済の三千万の貸金(かしがね)も持つ誠一郎は見事に激昂し野沢を一喝、倫子も、冷然と父親の尻馬に乗る。その夜、決められた薬も恐らく飲まずに、誠一郎は日常的に情婦の関係にもある圭子を抱く。娘達から贈られたネクタイ―色は赤ではなく青―で圭子の両手首を後ろ手に縛り上げた誠一郎は、「これはいい贈り物だつたなあ」。野沢を怒鳴り上げる際のオッカナイ見幕といひ、流石港雄一ともいふべき貫禄の存在感が重厚に火を噴く。エクストリームな港雄一節は更に加速、妙に大きな錠剤を、服薬もせずに圭子の女陰に捻じ込むなどといふ凄味の溢れるプレイをを見せつけたのも束の間、発作を起こした誠一郎は、事の最中に正しく悶死してしまふ。一方沼田興産、借りた金を返せない野沢を手下二人(吉本直人と橋詰哲也)にシメさせてゐた沼田耕造(朝田)の下にも、誰からか誠一郎急死の一報が入る。ここで手下二人を整理すると、吉本直人が一物に真珠を四粒埋め込んだ方で、橋詰哲也が終始ガムを噛んでゐるグラサン男。江藤家顧問弁護士の佐伯恭司(工藤)が、遺産相続の手続きを進める傍ら出し抜けに求愛するものの、野沢に続いて劇中通算二人目に倫子からは冷たく拒まれる。そんな中、無造作な編集で―今作中瑕疵らしい瑕疵は、この箇所のみ―倫子が帰宅すると、招かれざる野沢が悠然と待ち構へる。挙句に野沢の手引きにより忍び込んだ沼田興産の面々に、麻美は捕らへられてゐた。その場で軽く嬲られた姉妹は、場所を深い山中に移し拉致。案の定沼田とは結託する圭子も登場、倫子と麻美はパンティ一枚のほぼ全裸に剥かれた上、大きな桶の中に鎖で繋がれ囚はれる。最早お定まりともいへよう、令嬢達を狂乱させる縄祭りの幕が開ける。然し“縄祭り”、何て素敵な用語なのだ。
 常々秘かにでもなく熱望してゐるものだが、実際問題その作品に触れるのも猛烈に久し振りなので、改めて“御大”小林悟について簡単に触れておくと。小林悟(1930~2001)。昭和34年に「狂つた欲望」(松井稔と共同監督、共同脚本)でデビュー後、海外での活動期間もあり最早正確な記録さへ残らぬほどの、四百数十本―四捨五入すれば五百本にもならうか―の劇場映画監督本数を誇る。昭和37年には、後にピンク映画第一号とされる「肉体の市場」を監督。2002年に公開された「川奈まり子 桜貝の甘い水」(三月公開)で自らピンク四十周年の節目を祝ふべく撮影中の前年十一月、膀胱癌に没す。撮影二日目に現場で倒れ、そのまま三日後に死去する。といふ文字通りの壮絶な戦死を遂げた訳ではあるが、少なくとも小生が目にすることの出来た範囲で晩年の御大仕事は、煌びやかなまでのルーチンワークとでもしかいひやうのない作風で、現に「桜貝の甘い水」に関しても、死を賭して挑んだにしては鬼気迫る決死の覚悟なんぞ、清々しいまでに微塵も窺はせはしない。よくいへば穏やかともいへるのか、直截にはのんべんだらりとルーズな、何時もの頓珍漢であつた。さういふ辺りまで含めて、なかなか一筋縄ではその本来偉大な筈の全貌も掴み難い、ともあれ伝説の映画監督である。個人的には小林悟が百本に一本の映画を、四五本は撮つてゐたとしても決しておかしくはなからうといふ、最も単純な確率論を依然放棄してゐないこともあり、兎に角小林悟の映画ならば何でもかんでも手当たり次第に観たい。くらゐの気持ちではあるのだが、逝去後は、小屋の番組の中に御大の名前が並ぶ機会は、めつきりどころか寧ろ不思議なほど劇的に減つてしまつたまま、来年には五十周年を迎へようとしてゐる。果たして、その時周年を賀する栄誉を担ふのは、一体誰なのか。
 すつかり長くなつてしまつたので段落から仕切り直し話を戻すと、そこで今作の出来栄えやところで如何に、といふ次第であるのだが。鬼六ブランドの体面を慮つてか、“御大”小林悟そして“大先生”柳田友貴共々大きくどころか些かたりとて羽目を外すこともなく、定石通りの展開が定石通りに進行する、ある意味逆に意外に高水準の、専ら素直で実用的なSM映画であつた。硬質のクール・ビューティーを撃ち抜く岸加奈子、縄目からプリンッと絞り込まれたオッパイが超絶に可愛らしくも艶(なまめ)かしいビリング・トップの舞坂ゆい。そして一見さりげなく三番手を務めると同時に、何気なく完璧なプロポーションを誇る一ノ瀬まみ。超強力な女優三本柱に加へ穴のない俳優陣まで擁し、今回御大が天衣無縫のレベルにすら達した粗相を仕出かすこともなければ、大先生必殺の柳田パン―後述する―が火を噴くこともない。桶の中の憐れな姉妹を嘲(あざけ)るかのやうにおまるが宛がはれる細部に至るまで、実に堅実。いい感じで仰々しい劇伴も、心持ちハイ・グレードな全篇を効果的に彩る。責め自体はそれほど無闇に過激なものではないものの、緊縛のクオリティも高い。尤も、繰り返しになるが最終的には、序盤大活躍を披露する港雄一が退場して以降は殊に、始終はロマンポルノの時代に既に出来上がつたフォーマットのみに従ひ、無体な物語ながら鬼六映画としては清らかに推移する。その為、腰から下で観る分にはガッツポーズ級の大満足を与へて呉れる反面、さて小屋の敷居を外側に一歩跨いだところで、さういへばどんな中身の映画だつたかなと振り返らうとした際には、石を投げれば当たる一作である。と、いつていへなくもない。

 最後に柳田パンとは何ぞや、といふ点を御紹介しよう。いふまでもなく、“柳田パン”といふのは小生が恐ろしく気儘に命名した呼称である。会話なり絡みなり、登場人物二人を全く通常に捉へたカメラが、急にスーッと動いた―最初の移動は、逆パンであることが多い―かと思ふと、特にパンした先に何もなければ別に誰も居ない。何事かと観客を煙に巻くだけ巻くと、平然と何もなかつたかのやうに、再び元の画にシレーッと戻る。などといふ、この際革命的とでもしか称へやうのない、よくいへば破天荒なフェイントを駆使した謎のカメラワークのことである。その手法にどのやうな意味が込められてゐるのかに、辿り着き得た者は多分未だこの星の上には存在しまい。


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