真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「黒髪教師・劣情」(2000『高校教師 ‐赤い下着をつける時‐』の2008年旧作改題版/製作:シネマアーク/提供:Xces Film/監督・脚本:中村和愛/企画:稲山悌二/製作:奥田幸一/撮影:小山田勝治/編集:酒井正次/助監督:横井有紀/写真:佐藤初太郎/録音:シネキャビン/監督助手:田村孝之・久保田博紀/撮影助手:岩崎智之・山内匡・小山田智之/現像:東映化学/協力:《有》ペンジュラム・《有》マルコト・スナックエレナ・ビジュアルマイン・《有》ライトブレーン・《有》ファントムラインジャパン/出演:藤井さとみ・優生通子・夢乃・村上ゆう・銀治・真央はじめ・樹かず)。協力のファントムラインジャパンは、川村真一の制作プロダクション。
 交される音声のみで、妊娠した石原美樹(藤井)が恋人・黒沢義之(真央)から無下に捨てられ、堕胎した過去が語られる。親のない美樹を膝枕に乗せ、姉・歩美(村上)が童謡の「ふるさと」を歌ひ慰撫する。姉の膝枕に慰められるヴィジュアルは、美樹が度々見る回想夢であつた。このワン・ショットにのみ登場の村上ゆうに、当然濡れ場は設けられない。数学教師として勤める高校にぼんやりと向かふ美樹は、フと目にした光景に驚き足を止める。目を見開いた美樹からカット変ると新題タイトル・イン。ここで本来ならば必要なツー・ショットが抜けてゐるのは、旧題が実景に被せられてゐたからなのか?
 大半の者はてんで真面目に受けてなどゐない、崩壊気味の美樹の授業。少々派手な者も中にゐるものの、高校生に見える大勢がその他生徒要員で登場。二留の牧原幸太郎(銀治)が唯一人授業に耳を傾け、問題児の割には、当てられた質問にもキチンと答へてみせたりなんかする。後に語られる、牧原が身長を理由に野球を断念させられてからグレた、とかいふ狙ひ撃ちの直撃する設定はもう少し何とかならなかつたものか。そこに、まるで悪びれるでなく、小宮真知子(夢乃)が悠然と遅れて教室に入る。朝方美樹が衝撃を受けたのは、黒沢が、如何にも一夜を過ごした風情で真知子と歩いてゐたからであつた。美樹は同僚の体育教師・池上小百合(優生)に黒沢の件を相談すべく、行きつけの、下校時間付近の夕方から開いてゐては、終電に間に合ふ時間には閉めてしまふ不自然なバーへと向かふ。正方向の男前全開の樹かずは、バーのマスター。先に店を後にした美樹は、深夜の清掃バイトに汗を流す牧原に目を留める。その頃二人きりのバーでは、小百合が事前に入念に匂はされたマスターへの想ひを、遂に告白。事後の遣り取りまで含め、ここでの濡れ場は即物的な煽情性の充足を超え、目出度く届き叶へられた恋心に素晴らしく温かい気持ちにさせられる。通常“Welcome to the Waai Nakamura world.”と幕を開け、“Thank you for your having seen this Film.”と締め括られる中村和愛映画の、正しく和愛節が美しく奏でられる。話は戻るが美樹授業風景に於けるその生徒部に対する演技指導も、全く十全。
 帰宅した美樹を、不意の来客が訪れる。誰かと思ふと、かつて貸したきりになつてゐた金を返しに来たといふ黒沢であつた。真知子とは別れたと称する黒沢の泣き落としに美樹の弱さは陥落、二人は再び体を重ねる。ところが事後、黒沢の携帯には、普通に連絡を求める真知子からの電話がかゝつて来る。翌日、相変らず堂々と遅刻して登校した真知子はいきなり授業中にも関らず退学届けを叩きつけると、泥棒猫としかも美樹の頬を張る。
 肉感的の徳俵を残念ながら明確に割つてしまつた藤井さとみはひとまづさて措き、優生通子と樹かずとで一旦は美しい頂点を迎へておきながら、中村和愛がやをら自爆上等と突つ込んで来るのはここから。授業中に教師が生徒から頬を張られ、教室は俄かに騒然となる。「ゴメン!」と藪から棒に立ち上がつた牧原が、滅茶苦茶に火に油を注ぐ。「ゴメン、俺が先生を守つてやるよ」、「愛してる」。幾ら何でも箆棒だである、普通ならばここで壊れておかしくない映画が、ところが何故だか、頑強に踏み止まる。そこから無理矢理、美樹と牧原の、最早道ならぬことなど問題にならないラブ・ストーリーへと移行した物語は延々と、剥き出しの純情をノーガードで撃ち合ふ決死の展開へと突入。その中でも素面によく出来てゐる箇所といへば、深夜に牧原の姿を求め街に出た美樹は、何時ものやうに歩道橋を清掃する様子を確認する。牧原も美樹の視線に気づき、何事か言葉を発さうかとしたところで、先輩から呼ばれ慌てて仕事に戻る。といふ、まあそれもそれで類型的な場面程度しかないといへば確かにない。とはいへ、今作中小百合とマスターの件に於いて既に明らかであるやうに、中村和愛には、丹念に積み重ねたシークエンスを、見事に万事成就させる正攻法も十二分に可能である筈だ。にも関らず敢てそれをかなぐり捨て、今回中村和愛は捨て身の正面戦に討つて出た。いはば映画を捨ててまで追ひ求めた、ベタ以前の物言ひにもなつてしまふのは甚だ恐縮ではあるが、求め合ひ、結びつく心と心の愚直なエモーションに、私も底の抜けた阿呆であるからやも知れないが、少なくとも個人的には胸を撃ち抜かれた。平板な技術論からは世辞にも褒められた一作ではないにせよ、時に真のロマンティックは、そこから外れた地点に存する時もある。たとへそれが、しばしば全く極私的で、凡そ共有の適ふ筋合のものではなからうとも。今作が明後日か一昨日作であつたとしても、それは強い決意に裏打ちされた、覚悟の上での頓珍漢である。だとしたならば、そこから生み出されたロマンティックがエモーションが、それはそれとしての強さを、持ち得る可能性も時にあるのではないか。それは最早殆どラックにしか頼るほかはなく、だからこそ、平素あるべき技術論の土壌からは酌むべき点なし、といふ結論しか出て来ない訳でもあるが。

 出し抜けに「ゴメン!」と立ち上がつた牧原に、観客に対する中村和愛自身の姿をも重ね合はせられまいか。ごめん、俺はこの映画を捨てる。それでもなほ、描きたいものがある。流石に、牽強付会どころの騒ぎではないアクロバットに過ぎるやも知れぬ。名作・傑作の類とは決していひ難いが、一ファンとして、私は今作を買ふ。


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