旅行


NIKON 1 V1 + 1 NIKKOR 10mm f/2.8

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銀行の新年会に出席した。
隣に座った初老の男性が話しかけてきた。
「私はあなたの会社を知っていますよ」

胸の名札を見ると、旅行代理店のオーナーの方であった。
「昭和43年の10月だったかな・・・あなたの会社に頼まれて、私が旅行を企画し、同行したんです」
「43年というと、私はまだ小学校に入学した頃ですね」

「会社にHさんという方がおられたでしょう? Hさんに旅行を企画して欲しいと呼ばれましてね」
「ああ、Hさんですか。あの方に私は育てられたようなものです」

Hさんは戦時中零戦の製造に携わった方で、戦後ウチの会社に勤めていた。
終戦時に浜辺で設計図を焼いたとよく言っていた。
「もう亡くなられたでしょうね」
「はい、私が大学生の頃に亡くなりました」
「そうですか。あの方は心のある方でした」

男性は何かを思い出すように少し間を置いた。
「夜行バスで車中泊して、朝には平泉に到着しました。
それから十和田湖を見て、青森の浅虫温泉に一泊し、帰りは会津の方を周って、五色沼などを見たんです」
「なかなかいいコースですね」
「ええ、実は私の修学旅行の時のコースなんですよ」
男性は微笑んだ。

「10月といえば、紅葉が良かったでしょうね」
「そりゃあもう、紅葉を見に行ったんですから。稀にみるほどの、素晴らしい紅葉でした」
遠くを見つめる男性の目には、美しい木々が蘇っているようであった。

「実はあれは私の初仕事でしてね。まだ入社したてで20歳そこそこだったんです」
男性の脳裏に、当時の思い出が次々に浮かんでくるのがわかった。
「あの頃はまだ、旅行なんて誰でも行けるものではありませんでした。会社が連れて行ってくれるというのは、大変なことだったんですよ」
「そうでしょうね。それだけを楽しみに働いていたと、よく聞かされました」

「考えてみれば・・・」
男性は真剣な表情でこちらを見た。
「あの旅行の成功が、その後の私の自信につながったんです。今の私があるのは、あの旅行のおかげと言っていい」
そう言うと男性は、ありがとうございましたと言って、深々と頭を下げた。
僕は恐縮して、こちらこそ、いいお話を聞かせていただきましたと、男性にお礼を告げた。
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