弁理士の日々

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千川上水1

2022-05-29 09:24:43 | 杉並世田谷散歩
玉川上水は、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで続きます。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)

私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。さらに残った明大前から四谷大木戸までを、昨年11月にやっと完了しました。

玉川上水の鷹の台-三鷹の区間は2010年4月3日に歩き、として記事にしました。

       鷹の台-三鷹(クリックすると大きな地図になります)

この区間にある境橋において、玉川上水から分水した千川上水が始まります。
境橋の北東方向に左下写真のように緑地帯が見えます。これが千川上水の始まりです。玉川上水事典の千川上水によると、
『(千川上水は)玉川上水の完成から42年後の元禄9年(1696)に開削された。開削の目的は、湯島聖堂、上野の東叡山、小石川の白山御殿、浅草寺御殿への引水にあった。』とあります。
その後、何回も廃止・再開を繰り返したようです。最後は昭和41年(1966)まで使用していました。
『かつては、産業用水として、明治8年(1875)創業の王子製糸をはじめ、板橋浄水場にあった陸軍の火薬工場、王子村紙幣寮抄紙工場へ用水を利用。その外、水車による精米、小麦やそばの製粉、農業用水は20ヵ村に波及し水田面積100㌶、取水制限の際には、「番水約定」のもと、樋口には水争いを避けるため村役人も昼夜立ち会うのである。
平成元年(1989)高度下水処理水を日量1万㌧放流、水量の70㌫は善福寺川へ、30㌫は板橋に至り、流末は石神井川である。』
右下の写真で千川上水の始端に水が流れている様子が見られます。この水が、遠く板橋の先で石神井川まで流れ着いているのです。
 
千川上水

下の図は千川上水の全体図です。青抜き部は開渠、黄色部は暗渠を意味します。


玉川上水の境橋で千川上水の起点を眺めて以来、いつかは千川上水も踏破したいものと考えていました。そして今回、その計画が現実のものとなりました。

まずは5月25日、千川上水の起点である境橋から、環八との交差点までの約8kmを歩くことができました。以下がその記録です。



私は歳で体力が落ちているので、余計な徒歩区間を極力減らそうと考えています。わが家から境橋までについては、中央線の武蔵境駅からバスを利用して移動しました。

境橋の交差点で玉川上水の側から、千川上水の開渠の起点方向を見たのが下の写真です。前方の緑地がそうです。写真の手前から緑地までの間の地下部分に、昔は玉川上水からの分水の暗渠が走っていたのでしょう。




開渠のスタート地点(下写真)の近くに、上写真の石碑が建っています。上記平成元年の放流開始を祝った石碑でしょう。


千川上水起点(境橋)から関前5丁目交差点までの間には、蛍橋と樋口橋があります。


蛍橋に至るまでの水路が、上写真と下写真です。


関前5丁目交差点において、上水は暗渠として地下を流れています(下写真)。


関前5丁目交差点から武蔵野大学前交差点までの間には鎮守橋があります。下の3枚の写真は、鎮守橋の手前部分の水路です。






武蔵野大学前の交差点を過ぎてすぐのところに、下写真にあるような石橋供養塔と庚申塔があります。

説明書には「五日市街道と千川上水が交わるこの地に、古くから橋が架けられていまた。天保12年(1841)に、石橋に掛け替えられた。その完成を記念して、石橋供養塔が建てられた」とあります。五日市街道は、新高円寺付近から西進し、ここ武蔵野大学前の交差点に至っています。

武蔵野大学前交差点から関前橋交差点までの間には、葭窪橋、千川橋があります。
下の2枚の写真は、武蔵野大学前から葭窪橋までの間の水路です。


この区間、下の写真のような構造が何カ所か作られています。何を模したものか不明ですが、分水の分岐点を模したものかもしれません。調べたけれどわかりませんでした。


千川上水は、関前橋交差点を経て電通研究所前交差点までは、大きな通りと並行して走っています。電通研究所前からは、大きな道路とは並行しない流路となります。電通研究所前交差点から更新橋交差点までの間には、三郡橋、西窪橋があります。
下の写真は、三郡橋と西窪橋の間の区間です。


トイレに行きたくなりました。どうも千川上水の流路には公衆トイレが設置されていません。更新橋の交差点で南に下り、トイレを探しました。交番で聞いたら、近くの体育館にトイレがあるとのことです。近くの運動場(武蔵野陸上競技場)ではどこかの学校の運動会が開かれていました。


すぐ近くに説明書きがありました(下写真)。説明によると、戦前・戦中はこのあたりに中島飛行機の武蔵製作所があり、当時の中島飛行機の運動場が、現在の陸上競技場になったとのことです。




更新橋交差点から吉祥寺橋までの間には、西北浦橋、北浦橋、桂橋、東北浦橋があります。下の写真は西北浦橋です。


吉祥寺橋付近で、千川上水は左に折れ曲がります。下の写真で、後方の緑地が折れ曲がった下流部分、近い方の緑地が折れ曲がる前の流路部分です。


この付近において、千川上水の北側は広い畑地となっています(上写真、下写真)。


吉祥寺橋から石神井西中交差点までの間には、上水のすぐ北岸が私有地であるような地域があります。そのような場所では、上水に私有の橋がかかっています(下写真)。


この付近の水路です(下写真)。


石神井中交差点から関町1丁目交差点までの間には、田中橋、久山橋、竹下橋があります。下の写真は久山橋と竹下橋の間です。


関町1丁目交差点で、千川上水は青梅街道と交差します。そして、この交差点の上流側は原則として開渠でしたが、この交差点から下流側はそのほとんどが暗渠となり、千川上水をたどることができなくなります。「千川上水緑道」としてたどれる場所は迷いません(下写真)。


そこから先は、道路名が「千川通り」とあることのみが頼りです。
左手に上石千川児童公園が現れました。

上の写真にあるように、この場所には昭和40年頃まで水車が回っており、区内でも一番最後まで、上水を利用し、粉が碾かれていたのです。公園内には水車の形をした遊具もあります(下写真)。


通りの南側に、水タンク塔とおぼしき建造物が見えてきました(下写真)。千川上水と関係があるのか不明ですが・・・・。


千川通りが西武新宿線の線路を横切る踏切において、忽然と千川通りが開渠として出現します。

上の写真は、下流側から上流側を見た写真です。夏草が生い茂って分かりづらいですが、この生い茂っている部分が開渠です。同じ場所から下流側をみたのが下の写真です。線路の下を開渠がくぐっています。


踏切をわたって線路の北側へ行くと、下の写真のように、「千川上水橋梁」の下をくぐり、その場で暗渠にもぐってしまいます。


ここから先、千川上水の開渠を見ることはできず、さらには「千川上水緑道」すら見ることができません。
下の写真は、井草4丁目交差点までの間、通りの北側の風景です。この先に「ちひろ美術館」があるようです。


今回は、井草4丁目交差点を過ぎ、千川通り沿いにさらに環八との交差点まで歩きました。起点からの全体距離は8km弱と思います。最寄りのバス停(八成橋)から荻窪駅までバスで移動し、そこからは電車で帰宅しました。
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