弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

玉川上水12(明大前~幡ヶ谷)

2021-11-27 19:54:00 | 趣味・読書
玉川上水踏破-再開 2021-11-12」で書いたように、私は、2008年11月から2011年1月にかけて、羽村取水口から京王線の明大前までの区間を、4回に分けて踏破してきました。
最近になって、残った区間、明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)までを踏破しましたので、その記録を2回に分けてアップします。

       玉川上水全体図(図面をクリックすると大きな地図になります)


明大前から四谷大木戸(四谷四丁目交差点)まで(図面をクリックすると大きな地図になります)

1回目は明大前から幡ヶ谷までです。10月5日に歩きました。

明大和泉校舎の正門前にある明大橋跡を過ぎると、玉川上水は井の頭線の上をまたぎ、その先が公園になっています。左下の写真にある遊具が置かれ、「くじら公園」と呼ばれています。

くじら公園                       久左衛門橋

公園の途中に久左衛門橋があり(右上写真)、公園が井の頭通りにつきあたったところに、左下写真の水門を模したモニュメントがあり、ここで上水公園が途切れます。

モニュメント(井の頭通り手前)       井の頭通り(向こう側に和泉給水所、近くにバス停・水道横町)

井の頭通りに出ると、右上写真のように、通りの向こうに和泉給水所の大きな水タンクがそびえています。手前にはバス停「水道横町」の標識が見えます。どのようないきさつでこの地のバス停の名前が水道横町になったのか、調べましたがわかりませんでした。

井の頭通りから先は、しばらくの間、玉川上水の跡地をたどることができません。和泉給水所の敷地内は入ることができません。和泉給水所の東端から先は甲州街道の北側に沿っているはずですが痕跡はありません。
下の地図は、現在の明大前駅から代田橋駅付近についての、明治20年地図です。水路の青色と活字部分は、私が追記しました。地図の右端で玉川上水がくの字状に右折れして南下する部分が、後述の代田橋駅付近です。

現在の明大前駅から代田橋駅付近についての、明治20年地図
上の地図の範囲内で、明治20年当時の甲州街道は玉川上水と平行に走っています。そして、地図上の「代田橋」と記載した部分より東側は玉川上水の北側、西側部分は玉川上水の南側に沿っています。すなわち「代田橋」は、甲州街道が玉川上水をまたぐ橋だった、ということです。この部分で、玉川上水は直線を保っている一方、(当時の)甲州街道はクランク状に曲がっています。甲州街道よりも玉川上水の方が重要であった、ということでしょうか。
なお、明治20年地図(東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作)(古地図史料出版株式会社発行)については、このブログのこちらで詳しく説明しています。

京王線の代田橋駅付近で、玉川上水は南に転じます。そして(現在の)甲州街道の南側に抜けたところから、開渠になります。下の2枚の写真は開渠の開始部で、左下写真は開渠開始部の下流側、右下写真は開渠開始部の上流側とその先の甲州街道を撮したものです。

開渠開始部(下流側)             開渠開始部(上流側と甲州街道)


京王線の線路下                開渠をまたぐ歩道(ゆずり橋)
開渠になった玉川上水は、まず京王線の線路の下を通過します(左上写真)。その下流側に、開渠をまたぐ歩道の橋(ゆずり橋)があります(右上写真)。車止めとして水道施設のバルブが使われています。歩道の橋を横から見たのが下の写真です。


開渠をまたぐ歩道の橋(ゆずり橋)
歩道の橋と並行して、太い鉄パイプが開渠の上に設置されています(下の2枚の写真)。

歩道と水道管


開渠終了部
京王線の線路と上記歩道の橋のすぐ下流側で、開渠は終了し(上写真)、その先は暗渠で地上は公園になっています(下の写真)。


暗渠の上の公園(代田橋駅から環七まで)
玉川上水は環七と交差します。その交差する部分に、歩行者のみが通行できる地下道が設けられています(下の写真)。

環七の下をくぐる地下道
地下道を利用して環七の東側に出ると、そこはまた暗渠の上の公園になっています。しばらく行ったところ、稲荷橋において、暗渠から開渠に変わります(下写真)。

稲荷橋(暗渠から開渠へ)
ここは区の境で、世田谷区側は暗渠、渋谷区側は開渠となっています。

稲荷橋から笹塚駅方向
稲荷橋から下流方向、笹塚駅方向の開渠部分を臨んだ写真が上の写真です。
さらに笹塚駅方向に進みます。下の写真の左端は二号橋で、ここから先は暗渠になります。

笹塚駅へ向かう開渠部分・左端は二号橋


二号橋・開渠から暗渠へ


二号橋から上流方向の開渠部分を見る

玉川上水は、笹塚駅の付近で京王線の線路に接近し、ここで鋭角に右に曲がり、進路を南に変えます。下の写真は、その曲がり角と京王線の線路を撮したものです。

京王線笹塚駅(暗渠部分)


三号橋(暗渠から開渠へ)
京王線の線路からちょっと南へ下ったところ、三号橋のところで暗渠から開渠に変わります(上写真)。三号橋から下流側の開渠を見たのが下写真です。

三号橋から開渠を下流方向に見る

笹塚駅から南に向かう玉川上水のこの部分(笹塚橋)に、三田上水となる分水がなされていました。下の写真、開渠から暗渠になる部分ですが、青い鉄格子で覆われた部分が玉川上水の下流側、鉄格子の右側に見える階段部分が、かつての三田上水への分水取水部でした。

開渠から暗渠へ・笹塚橋
ここは区の境で、渋谷区側は開渠、世田谷区側は暗渠となっています。
ここからしばらく、玉川上水と三田上水とは平行して流れます。このちょっと先で玉川上水は鋭角で左折し、三田上水と別れ別れになります。

下に、笹塚駅付近を含む明治20年地図をアップします。

笹塚駅付近で南に折れ曲がり、少し南下したところで東に折れ曲がりますが、その途中で分水した先が三田上水です。上の地図では間違えて「三田分水」と書きました。

《三田上水について》
ここで、三田上水について触れます。三田上水は、上の明治20年地図に「三田分水」と記載した水路です。「三田用水跡をたどる」に掲載された地図でもよくわかります。
『三田上水は、現在の港区南東部エリアの飲用水として、1664年に開通しました。上水は現在の世田谷区北沢で玉川上水から分水し、世田谷区、渋谷区、目黒区、品川区を経て港区高輪に至り、そこからさらに地下に埋められた木樋で港区芝に至る、全長10kmほどの水路でした。』
『玉川上水と同じく三田用水もまた、より遠くまで水を届けるために尾根の上を選んで通されています。そのルートはちょうど、渋谷川と目黒川の分水界にあたります。段彩図で地形を見てみると、それは一目瞭然です。細長く伸びた台地の上を、渋谷川や目黒川の枝谷を避けながら用水が通っています。そして、それぞれの枝谷には分水が落とされており、三田用水と目黒川・渋谷川のあいだにはあたかも動脈と静脈のような関係性がなりたっています。』

さて、玉川上水に戻ります。
以上述べたように、玉川上水は、笹塚駅の部分で鋭角に右折し、しばらく南下したところで今度は鋭角で左折しています。なぜこのようなルートを採ったのか。それは、笹塚駅付近に、南から北へ向かう谷筋が存在するからです。上の明治20年地図にもその谷筋の川が青色に塗られています。その谷筋の流れは、さらに進んで神田川に合流します。
上水路は常に尾根筋をたどり、常に上流から下流へと標高を下げていかなければなりません。行く手に谷筋が現れたときは、上水路が谷に下りてしまわないよう、その地域の等高線に沿って流路を曲げていく必要があるのです。

南進から北進へ                      四條橋


常盤橋から暗渠部緑道


暗渠部緑道

下の代々幡橋の向こう側に、「代々幡斎場→」の看板が見えます。代々幡橋を南に入ったところに、代々幡斎場があるのです。実はこの斎場、明治時代から存在しました。上の明治20年地図に「火葬場」と記載した場所です。
それと「代々幡」という地名、代々木と幡ヶ谷をつなぎ合わせた造語のように見えますが、一時期実際に存在した地名なのでした。

代々幡橋

玉川上をたどり、京王線の幡ヶ谷駅付近まで到着しました。二字橋は、幡ヶ谷駅から南下したところにあります。二字橋の欄干の西側すぐのところに、水道管の鉄管が玉川上水を渡っています。下の写真では、鉄管の上に台形のカバーが配置されています。
私が小学生の頃、この地におじさん一家が住んでいまして、その家の二階からこの二字橋がよく見えました。右下写真のアングルです。見ていると、近所の子供たちが鉄管の上をすたすた歩いて遊んでいるのを見た記憶があります。当時、その場所の玉川上水は開渠だったはずですが・・・。

二字橋と上水をまたぐ水道管

10月5日、明大前を出発しての玉川上水散策は、ここ幡ヶ谷駅をもって終わりとしました。

戻る                            続く

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