東京丸の内に、「丸の内八重洲ビル」というビルがありました。こちらの記録によると、
竣工 1928年(昭和3年)3月
所在地 東京都千代田区丸の内2-6-2
設計 三菱合資会社地所部
施工 大林組
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造8階建て、地下1階
私は1997年から2000年にかけて特許事務所に勤務していたのですが、その特許事務所がこのビルの中にあったのです。3年間、このビルに通ったことになります。
しかしこのビルが現存しないのです。すでに取り壊され、丸の内パークビルディングという高層ビルに建て替わってしまいました。
丸の内八重洲ビルは、昭和初期に建築されただけあって、重厚で趣のあるビルでした。正面玄関を入ると、天井の高いホールが待っています。エレベータも古風でしたが、階段を選ぶと、手すりが重厚な木製で磨かれて光っています。ただし古いビルですから、居室の居住性は決してよくありませんでした。
今になって、“取り壊される前に写真を撮っておくのだった”と後悔しているところです。
サイトに紹介されている写真を探してみると、丸の内八重洲ビル、丸の内八重洲ビル・玄関、丸の内八重洲ビル・内部などがいいですね。玄関ホール、階段の手すり、古風なエレベータなど、ご覧いただくことができます。
最近、丸の内八重洲ビルの跡地に建った丸の内パークビルディングに出かける機会がありました。カメラを持って出かけました。
東京駅方面から歩いていくと、高層ビルの隅の下方部分が白い塔のようになっています(上写真2枚)。この塔は、旧丸の内八重洲ビルの隅部分の塔に間違いありません。そしてさらに近くによると、新しいビルの東側正面と北側には、旧丸の内八重洲ビルの1階部分の壁がそのまま残されていました(下写真2枚)。
古めかしい石のアーチをくぐると、残した石のアーチと新しいビルとの間はガラス天井の廊下になっているのでした(左下写真)。新しいビルのロビー部分が右下写真です。
ところで、新しくできた丸の内パークビルディングの南側に、なにやら赤レンガ造りの建物が見えます。下の写真です。こんなビル、私が丸の内八重洲ビルに通勤していた頃にはありませんでした。
調べてみると、昔このあたりに建っていた「三菱一号館」という建物を忠実に復元したのですね。
ところで、丸の内にありながら何で「丸の内八重洲ビル」という名前だったのか、ということですが。Wikipediaによると。明治時代、まだ東京駅がなかった頃ですが、元々の「八重洲」は現在の丸の内に相当する地域のうち、丸ビルと三菱ビルの間に存在する通りの南側を指す地名でした。明治20年地図で確認すると、八重洲町の名称が見え、近衛騎兵、鎮台騎兵の兵営となっていました。ヤン=ヨーステンの屋敷も内堀沿いに存在したようです。そして、現在の東京駅八重洲口の前の外堀通りが本当に外濠で、丸の内の「八重洲」に通じる八重洲橋がかかっていました。呉服橋と鍛冶橋の中間です。
その後東京駅ができ、八重洲橋のあったあたりが「八重洲口」になった、というわけです。
丸の内側の八重洲町も1929年(昭和4年)に丸の内という地名に吸収されました。ちょうど丸の内八重洲ビルが生まれた頃ですね。
ということは、丸の内八重洲ビルが取り壊されたことによって、「このあたりは昔“八重洲町”と呼ばれていた」という証拠が消滅したことになります。
竣工 1928年(昭和3年)3月
所在地 東京都千代田区丸の内2-6-2
設計 三菱合資会社地所部
施工 大林組
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造8階建て、地下1階
私は1997年から2000年にかけて特許事務所に勤務していたのですが、その特許事務所がこのビルの中にあったのです。3年間、このビルに通ったことになります。
しかしこのビルが現存しないのです。すでに取り壊され、丸の内パークビルディングという高層ビルに建て替わってしまいました。
丸の内八重洲ビルは、昭和初期に建築されただけあって、重厚で趣のあるビルでした。正面玄関を入ると、天井の高いホールが待っています。エレベータも古風でしたが、階段を選ぶと、手すりが重厚な木製で磨かれて光っています。ただし古いビルですから、居室の居住性は決してよくありませんでした。
今になって、“取り壊される前に写真を撮っておくのだった”と後悔しているところです。
サイトに紹介されている写真を探してみると、丸の内八重洲ビル、丸の内八重洲ビル・玄関、丸の内八重洲ビル・内部などがいいですね。玄関ホール、階段の手すり、古風なエレベータなど、ご覧いただくことができます。
最近、丸の内八重洲ビルの跡地に建った丸の内パークビルディングに出かける機会がありました。カメラを持って出かけました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/tokyo/s/IMG_1677.jpg)
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/tokyo/s/IMG_1678.jpg)
東京駅方面から歩いていくと、高層ビルの隅の下方部分が白い塔のようになっています(上写真2枚)。この塔は、旧丸の内八重洲ビルの隅部分の塔に間違いありません。そしてさらに近くによると、新しいビルの東側正面と北側には、旧丸の内八重洲ビルの1階部分の壁がそのまま残されていました(下写真2枚)。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/tokyo/s/IMG_1680.jpg)
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/tokyo/s/IMG_1683.jpg)
古めかしい石のアーチをくぐると、残した石のアーチと新しいビルとの間はガラス天井の廊下になっているのでした(左下写真)。新しいビルのロビー部分が右下写真です。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/tokyo/s/IMG_1685.jpg)
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/tokyo/s/IMG_1686.jpg)
ところで、新しくできた丸の内パークビルディングの南側に、なにやら赤レンガ造りの建物が見えます。下の写真です。こんなビル、私が丸の内八重洲ビルに通勤していた頃にはありませんでした。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/tokyo/s/IMG_1682.jpg)
調べてみると、昔このあたりに建っていた「三菱一号館」という建物を忠実に復元したのですね。
ところで、丸の内にありながら何で「丸の内八重洲ビル」という名前だったのか、ということですが。Wikipediaによると。明治時代、まだ東京駅がなかった頃ですが、元々の「八重洲」は現在の丸の内に相当する地域のうち、丸ビルと三菱ビルの間に存在する通りの南側を指す地名でした。明治20年地図で確認すると、八重洲町の名称が見え、近衛騎兵、鎮台騎兵の兵営となっていました。ヤン=ヨーステンの屋敷も内堀沿いに存在したようです。そして、現在の東京駅八重洲口の前の外堀通りが本当に外濠で、丸の内の「八重洲」に通じる八重洲橋がかかっていました。呉服橋と鍛冶橋の中間です。
その後東京駅ができ、八重洲橋のあったあたりが「八重洲口」になった、というわけです。
丸の内側の八重洲町も1929年(昭和4年)に丸の内という地名に吸収されました。ちょうど丸の内八重洲ビルが生まれた頃ですね。
ということは、丸の内八重洲ビルが取り壊されたことによって、「このあたりは昔“八重洲町”と呼ばれていた」という証拠が消滅したことになります。
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