弁理士の日々

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加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2)

2009-01-27 21:23:10 | 歴史・社会
特許庁のホームページに、特許制度研究会第1回(平成21年1月26日)のお知らせがなされています。第1回配付資料を見ることができます。
1月5日の日経新聞朝刊トップニュースで伝えられた研究会ですね(私の記事)。
配付資料を読んでみたのですが、今の特許法のどこがどのように問題か、どのように改正しようとしているのか、具体的なところがさっぱりわかりませんでした。
今後議事要旨が発表になるようなので、それを見てからコメントしましょう。
通常の専門委員会や小委員会では、配付資料と議事要旨の他に、詳細な議事録が公表されます。ところが今回の研究会では、議事録が公表されないようですね。議事要旨だけでは実は詳しい議論内容がほとんど伝わってきません。
今回の特許制度研究会は、半分クローズドで行おうという魂胆でしょうか。

それでは、前号に引き続き、加藤陽子著「満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)」を紹介します。

《日中戦争へ》
単なる発砲事件である盧溝橋事件が、なぜ全面的な日中戦争まで拡大してしまったのか。例の田母神論文では、日本が蒋介石に嵌められたことになっています。
盧溝橋事件の直後、現地では停戦協定が成立します。しかし蒋介石は、4箇師団を北上させる一方、まずは決戦の決心をなせとの命令を発します。
「日中両政府とも不拡大を希望しながらも、挑発には断乎応戦するとのスタンスを取った。」「日本側において当初から拡大論を唱えた者の中には、比較的リスクが低いと考えられた中国を相手とする紛争を名目にして臨時軍事費を獲得し、それによって産業五カ年計画(統制経済による軍需工業を軸にした重化学工業計画)を一気に軌道に乗せてしまおうとの目論見をもつ者がいた。」
日本と中国が、双方の思惑を読み間違い、双方の軍事力を読み間違えたことが、悲劇を生んだ、と言えるでしょうか。日本側で言えば、中国の軍事力を過小評価しすぎていました。ところが上海と長江流域には、蒋介石がドイツ人顧問団とともに育成した精鋭部隊8万を含む30万の中央軍が配備されていたのです。36年の統計では、ドイツは武器輸出総量の57%を中国に集中させ、国民政府軍はドイツ製の武器を用い、ダイムラー・ベンツのトラックで輸送し、ドイツ人顧問団に軍事指導を支援される状態にありました。
対する日本軍は、陸軍の到着までは海軍特別陸戦隊の約5000名にしか過ぎませんでした。

上海では、蒋介石軍の攻勢に対し、日本海軍特別陸戦隊が壊滅の危機に瀕します。私のブログ記事石射猪太郎日記(2)の8月17日部分が、加藤著書に引用されています。
陸軍は上海に5師団からなる上海派遣軍を派遣し、さらに第10軍が編成されます。上海戦は「ベルダン(第一次世界大戦の激戦地)以来もっとも流血が多かった」と称される戦闘となります。
蒋介石は、日本軍を中国内陸部におびき寄せようと策略をめぐらしたのではないと思われます。もしそのような策略であれば、上海に日本軍を呼び入れ、巧みに後退して日本軍を内地に引き入れるでしょう。しかし上海戦の終盤になると、ドイツ人顧問団によって訓練され、ドイツ製の兵器で装備した近代的戦闘部隊が完全に消耗する痛恨の事態に見舞われます。上海戦に投入された中国軍は延べで70箇師団、70万、そのうち19万人が犠牲になったといわれています。蒋介石は、日本軍を罠に陥れるのではなく、本気で日本軍を上海で壊滅するつもりだったのでしょう。

日本陸軍の派遣軍の陣容は、現役兵を中心とする部隊ではなく、予備後備兵、補充兵を中心とする部隊でした。当時参謀本部第一部長であった石原完爾は、戦線の不拡大方針をとり、あくまで関東軍をはじめとする在支日本軍の主力は対ソ戦に備える方針だったからです。戦線の不拡大に失敗した石原は、9月27日に第一部長を辞任することになります。
「こうした陸軍の方針には、天皇もまた強い疑念を抱いていた。華北から華中に拡大した戦争に対する、戦力の漸次投入ほど拙策はない。不安に駆られた天皇は、8月18日、軍令部総長と参謀総長に対し『重点に兵を集め、大打撃を加えたる上にて、我の公明なる態度を以て和平に導き、速やかに時局を収拾するの方策なきや、即ち支那をして反省せしむるの方途なきや』と下問する。」
陸海統帥部がなした奉答は、航空機による爆撃であり、兵力の少なさを戦略爆撃で補完する発想でした。

事変の不拡大方針、その根本は正しい判断だと私も思うのですが、結果として「不拡大方針を取ったことから、事変は泥沼化し、かえって事変を拡大させる結果を招来した」という皮肉なことになったように思います。

以上のとおり、日本陸軍の派遣軍の陣容は、現役兵を中心とする部隊ではなく、予備後備兵、補充兵を中心とする部隊でした。これが、上海から南京にかけての日本軍の軍紀弛緩の原因となりました。この点についてはまた次回に。
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