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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

石射猪太郎日記(2)

2008-11-28 21:18:36 | 歴史・社会
前回紹介した「石射猪太郎日記」の中から、盧溝橋事件勃発時の内容について、ピックアップした事項を紹介します。
この日記の内容を、例えば服部龍二著「広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)」の日中戦争初期の部分を読みながら、下記を参照すると、あたかも同時代の外務省から日中戦争を追体験しているような感覚を得ることができます。

なお、文章中の漢字の使い方やかな遣いについては、原文通りとはせず、現代の使い方に修正しています。

昭和12年
7月17日
○而して東亜局長なる職が難儀な役目であることは予想していたことであったが、今度のような馬鹿げた北支事変に巻き込まれようとはこれまた夢思わなかった。
○而してまた広田外務大臣がこれほどご都合主義的な、無定見な人物であるとは思わなかった。
○所謂非常時日本、ことに今度のような事変に、彼のごときを外務大臣にいただいたのは日本の不幸であるとつくづく思うのである。
7月20日
○朝から閣議あり。内地3ケ師団を動員するや否やを議題とす。
○夕方7時半過ぎよりまた閣議、始まる前に首相官邸に行き兼ねて用意の嘆願文を広田大臣に手交す。石射上村連名。
○11時過ぎ外務大臣官邸に帰来、3ヶ師団動員閣議決定という。大して議論なしに。
○辞職、少なくとも休職の決意をしつつ帰宅。
7月21日
○次官(堀内謙介)次いで大臣に上村君同道面会し心境を申し出る。大臣種々答弁、且つ曰く、知りもせぬくせに余計なことを言うなと。
出兵するや否やを見るまでこのままいることにする。
○柴山(兼四郎・陸軍)大佐来訪、帰来談に曰く、現地は実に冷静、条件は次第に実行されつつあり、増兵なんかは要求はしておらずと、大臣にその旨報告し置く。
○後宮局長来訪・・動員はまだ下さず今晩一晩猶予することになったという。あるいは賢きあたりから注意があったのではないかとの観測あり。
7月22日
○現地より帰来の柴山課長の意見上申もあり、天津軍よりの援兵無用の来電もあり軍は動員をしばらく見合わせることになったという。
陸軍大臣(杉山元)より外務大臣にもその話あり。
東亜局第1課これによりて大いに活気づき今後の平和工作をねる。
○今日の閣議で広田大臣は局地解決、次いで日支国交打開に大きな手を打つべしと大いに主張して閣議を驚かしたと。陸軍大臣から頼まれたらしい、陸軍も広田もヅルイヅルイ。
7月26日
○昨夜廊房で日支衝突、切断された電線修理のため廊房へ出動の日本軍に28師兵が攻撃してきたのだという。
○おまけに北京へ入城せんとした日本軍に支那兵が広安門で攻撃してきたという。
○どっちが悪いのだ。
7月27日
○軍は閣議へ3ヶ師団動員の通告をする。今更反対はできぬ閣議となってしまった。
7月28日
○午前衆議院で事件費の予算総会。質問を用いず全会一致でウノミ、さすがに軍国日本ではある。
○29軍を今朝から全面的にやっつけているようだ。コレが皇軍の姿だ。
7月31日
○柴山大佐来訪、支那軍に一撃を与える前に日支停戦提議を支那側から言わせる工夫はあるまいかという。全面的国交調整を外務省案によってするならば、工夫なきにあらずと告げ、柴山君これを了して帰る。
○昨夜大臣からの謹話によれば一昨夜近衛首相お召しになったとき、陛下からもうこの辺で外交交渉はできぬものかとお言葉ありたる由、叡慮の存するところ、まことに有り難い極みだ。
8月1日
○午後柴山大佐、そのあと保科大佐来訪、停戦交渉及び全面的国交調整案につき意見一致し、そのラインにより軍部内を納得させるべく約束して柴山君帰る。うまくいけばいいが。
8月2日
○柴山大佐、豊田軍令部長(ママ)来訪。
今朝海軍大臣官邸における、梅津(美治郎・陸軍次官)、後宮、山本(五十六・海軍次官)、豊田、4人会談の結果をもたらし、外務大臣の工作を要望す。
8月3日
○支那側より停戦提議をなさしむべく工作のため船津氏に急に上海に帰ってもらうことに話す。
8月4日
○外務次官、陸軍次官会見。
 これに基づいて夕方保科、柴山、上村3課長を会同して停戦案、国交調整案を練る。だんだんコンクリートなものになる。これが順序よくはこべば、日支の融和、東洋の平和は具現するのだ。日本も支那も本心に立ち帰り得るのだ。崇い仕事だ。
8月6日
○陸海外三相会議、何を相談したのか要領を得ない。結果につき三人三様のことをいっている、この国家非常のことを議するのに、いい加減さも程がある。
○とにかく南京へ停戦工作条件を打電す。
○夜陸軍次官、外務次官を来訪したが、主張をせぬ外務次官だからこまる。
8月7日
○三相会議においてようやく対支案確定す。深夜大臣官邸に赴き発電案にサインをもらう。
8月10日
○川越大使高宗武と会見、打診したのはよけれども船津を阻止して高との話をはぐらかしてしまったのは誠に遺憾だ。スキを見せねば打ち込んでこぬ、その工作のためにやった船津だったのに。
○昨夜上海で陸戦隊の大山(勇夫)中尉、斉藤水兵がモニュメント路で支那公安隊から殺される。またにぎやかになった。モニュメント路なんて余計なところへ行ったものだ。
8月11日
○海軍が上海へ派遣せる1千名の陸戦隊増援部隊今朝上海着の由、だから心配、何ごともなければいいと念ずる次第だ。
8月12日
○上海からの電報。
88師は北停車場へ出動、保安隊は陸戦隊ウラの線路まで出てきた。陸戦隊危うく居留民危うい。海軍あせる。
○明日の閣議で上海への陸兵派遣を決するという。
8月13日
○上海では今朝9時過ぎからとうとう打ち出した。平和工作も一頓挫である。
○川越大使より出兵思いとどまるようにと来電ありたるも、もう遅い。夫子自ら少しも働かずに、高宗武に会いながら高飛車に出て追い返したりするのは面白くない。
○海軍もだんだん狼になりつつある。
8月14日
○上海で支那飛行機の空爆あり。
○海軍は南京を空爆するという。とめたが聴きようもない。
○陸戦隊は日本人保護なんかの使命はどこかに吹き飛ばして今や本腰に喧嘩だ。
もう我慢ならぬと海軍の声明。
8月15日
○(内閣の声明)独りよがりの声明、日本人以外には誰ももっともというものはあるまい。
○無名の師だ。それがもとだ。日本はまず悔い改めねばならぬ。しからば支那も悔い改めるに決まっている。日支親善は日本次第という支那の言い分の方が正しい。
○日本機昨夕杭州、広徳を空襲し敵に多大の損害を与えたという。なお今日午後南京を空爆した。
○高、日高昨日会見、本日さらに会見して我が方の腹をある程度話せと訓示したが空爆のため連絡つかずと夜来電。これが最後の望みの綱であったのに。
8月16日
○英代理、米大使本日それぞれ次官及び大臣を来訪、上海戦争をやめてくれという、英の語気すこぶる荒らし。その回答ぶりにつき海軍を説く、豊田軍務局長も事態を知るが故に停戦を欲しているのだが、部内の昂奮に手が出ない形だ。
8月17日
○支那は大軍を上海に注ぎ込んで陸戦隊殲滅を図っている、これに対して幾日もてるか。陸戦隊本部は陥落しはしないか。
8月18日
○広田外相は時局に対する定見も政策もなく、全くその日暮らし、いくら策を説いても、それが自分の責任になりそうだとなると逃げを張る。
頭が良くてズルク立ち回るということ以外にメリットを見いだし得ない。それが国士型に見られているのは不思議だ。
8月19日
○本日石原完爾の河相情報部長に内話するところによれば、支那軍に徹底的打撃を与えることは到底不可能と、私の予見もその通り。日本は今やソビエットの思う壺に落ち込みつつある。新追加予算、陸海軍併せて30億という。愚かなる日本国民はどんな顔をするだろうかあざ笑うはロシアばかりではない、拙者もだ。
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長くなったので以下は次回に。
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