弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

目青不動、豪徳寺、そして松陰神社

2009-01-11 10:25:58 | 杉並世田谷散歩
1月10日、本日は知人のS野氏とともに世田谷散策に出かけました。
前日夜の大雨は一応予報通り朝には止んでいましたが、雲が多めです。しかし昼過ぎには大方快晴に近くなりました。

12時に三軒茶屋駅で落ち合い、まずは近くの蕎麦屋で腹ごしらえです。
そして目青不動にお詣りしました。
  
目青不動 不動堂           目青不動尊

ご本尊は暗くて写真にならないので、ご本尊の手前にあった絵を撮してきました。
以前書いたように、サイトによると、
「寛永年間の中旬、三代将軍徳川家光が天海大僧正の具申をうけ江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、江戸市中の周囲五つの方角の不動尊を選んで割り当てた「東都五色不動【五眼不動】(目白、目赤、目黒、目青、目黄)」のひとつである。
五色とは密教の陰陽五行説に由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している。
そして、この五色不動の位置を線で結んだ線の内側を、江戸の内府と呼ばれた。しかしながら現在の住所は、明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動しているので本来の結界の役を失ったといってよい。」
とあります。

上のサイトにおいて、ここ目青不動については、
「当初不動尊は港区麻布谷町(現:六本木)勧行寺にあったが廃寺となり明治15年青山南町「教学院」に移転、その後同41年この地に移り現在にいたる。」
と説明されています。

続いて、世田谷線に乗って上町駅で降ります。
上町駅から南に下ると、世田谷1-29-18に代官屋敷があります。
  
世田谷代官屋敷 表門          母屋

江戸時代に井伊家の代官が住んだ家ということで、左が表門、右が母屋(約70坪)で、いずれも萱葺きです。江戸中期の建築とのことです。
表門に掲げられた説明書によると
「江戸時代の初め、大場氏は彦根井伊家領世田谷(2300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲した」とあります。
  
世田谷代官屋敷  母屋内部

代官屋敷から上町駅に戻り、さらに北にのぼると世田谷城址公園です。以前こちらに詳しく書きました。

世田谷城址公園

世田谷城址公園と隣り合わせに豪徳寺があります。
日本大百科全書で豪徳寺を引くと、以下の主旨の記事があります。
「1480年吉良左京太夫忠政が、伯母の弘徳院の菩提のために建立し、臨済宗に属した。1584年門庵宗関が曹洞宗に改め、中興開山となった。井伊直孝が当地に住んでからはその菩提所となり、1659年直孝の法名によって豪徳寺と改称。寺内に直孝の墓碑がある。」

戦国時代、世田谷城は吉良氏の城であり、今の豪徳寺のあたりが城の中心であったとのことですから、豪徳寺の建立者が吉良氏であることはうなずけます。
また、江戸時代に世田谷のこの一帯は井伊家の所領であり、豪徳寺は井伊家の菩提寺になりました。
  
豪徳寺参道         豪徳寺山門

  
豪徳寺仏殿             豪徳寺本堂

以前、Wikipediaで調べたところ、豪徳寺は招き猫発祥の地と伝えられていることを知りました。井伊家二代目の井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたというものです(Wikipediaより)。
今回、仏殿と井伊直弼墓所との間に、招き猫を奉納するお堂を見てきました。
  
       豪徳寺 招き猫
豪徳寺の招き猫は小判を持っていないということですが、なるほど写真では持っていないですね。

井伊直弼墓

井伊直弼の墓には、おばあちゃんの集団が参っていました。話しているのを聞くと、篤姫の関係でやって来たようです。篤姫人気は、井伊直弼にも及んでいたのですね。

豪徳寺拝観が終わり、次は松陰神社に向かいます。途中まで烏山川緑道をたどり、国士舘大学の前を通って松陰神社近くに至りました。
今回、S野さんに教えてもらって知ったのですが、松陰神社のすぐ隣に桂太郎の墓所があったのですね。これは聞かなかったら知らずに通り過ぎてしまいます。ウィキペディアには「桂自身の遺言により、この地に埋葬された。」と記されています。
  
        桂太郎 墓所

  
松陰神社            松下村塾レプリカ内部


吉田松陰の墓

コメント
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