大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年12月21日 | 写詩・写歌・写俳

<1203> 二〇一四・午年回顧

          目瞑れば 古馬が吹雪を 衝いて行く  ただ凛々と あるべくありて

 平成二十六年(二〇一四・午年)も終わりが見え、この一年を振り返るときが来たが、わずか一年にも満たないのに既に忘れていることが多い。これは多分私だけではなかろう。情けないとは言えるが、負け惜しみではなく、忘却も生きて行く上の処方とも思えたりするから、まあ、何とも言えない。そんな頭脳の状況においてこの一年の記憶を辿ってみると、今年の傾向というか、特色として見えて来るものがある。今年はその特色的な点にポイントを絞って回顧してみたいと思う。

 まず、ベートーベンのごとく耳が聞こえない作曲家として活動していた偽作曲家の暴露があった。全く作曲が出来ないのに、ゴーストライターの力を利用して作品を手がけ、自分のものにして世に出していた。所謂、詐称事件で、NHKもすっかり騙され、この偽者を主人公にした特別番組を作ったほどであった。

 次に、新しい万能細胞であるSTAP細胞を見つけることが出来たという論文の不正騒動が起きた。この件は故意でなく、未熟から発した騒動だったと見るのが妥当なように思われるが、そこには真理探究を目指す科学者にはあってならない嘘ごとが見抜けないという点が指摘された。発表者が若い女性研究者だったということもあって、マスコミは飛びついた。以前にも偽論文の問題があったばかりであるが、この件でもマスコミは不正に気づくことが出来ず、巻き込まれてしまった。

                     

 次に、兵庫県の県議による政務活動費の不正利用による騒動をあげることが出来る。出張していないのに出張したように見せかけ、その旅費を着服する質の悪い不正であったが、これは政治に甘い制度の体質から来ている事件で、この事件は予想通り他の議員などにも波及した。この件にも、この県議だけでなく、多くの議員が大なり小なりやっているという疑惑を含め、人を騙しても平気でいられる性根が事件の根底にあることを物語るものだった。

 これらは三者三様に記者会見の俎上において厳しく糾弾され、自殺者を出すまでに至ったほどであるが、これらの事件の背景に権威というものが横たわっていることが思われるところである。所謂、権威を利用したり、権威に乗っかったりして自分の活動や立場を有利に運ぶというやり方である。偽作曲家はNHKや音楽関係のいろんな分野の権威を巧みに利用し、偽りを通し続け、自分の名声を高め、利益に繋げていた。

 STAP細胞の論文不正においては、国が関与している理化学研究所並びにそこに働く科学者という権威の信頼性の下でなされ起きた事件であることが思われる。また、政務活動費の不正利用を行なっていた県議の話は制度という権威を悪用していたものと認められる。

 おれおれ詐欺というのは随分前から問題視されて来たが、以前のそれは主に人の情につけこんで行なわれていたところがあった。ところが、最近は、役所とか企業の名を持ち出し、それによって信用させる類の詐欺が横行する傾向が見られるようになっている。これは、つまり、役所や企業の権威というものに目をつけ、それを利用して信用させ、騙すやり口である。ここにも権威を利用する姑息が見受けられると言える。

 この権威による不正で最たる話は、以前にも取り上げたが、朝日新聞の従軍慰安婦報道の記事不正の騒動があった。この騒動も今年の大きなニュースとなった。この事件はオピニオンリーダーである新聞が自身の権威をもって偽りの記事を報じ、読者並びに世の中をその権威によって信用させ、世論を誘導しようとしたもので、権威の意志が働いて行なわれことが指摘され、厳しく糾弾された。

 所謂、これらの事件は人を騙すという行為が権威を利用して行なわれるということであり、こういうのが今年一年の回顧には顕著に見られるということが言えるように思われるのである。これは、日本人の本質的なところに関わる問題で、憂慮されて然るべきだと言ってよい。よく、哲学では、エトス(人格)とパトス(熱情)とロゴス(論理)が言われるが、人間力から言って、エトスは人格の徳目とか信頼に現れ、権威もこれに属する。パトスは熱情、或いは、感性に基づく情感の部類に当たり、ロゴスは知性を軸にする論理、即ち、言葉に示され、この三要素をもって人間はその生の展開をしていると見なせる。私はエトスとパトスとロゴスについてはこのように自己流に解している。

 そこで思われるのは、私たちにとって、私たちの欲求が、自身の中のエトス、パトス、ロゴスの総合たる人間力を経て自分以外の他、即ち、社会に及んで行く際、自身の人間力の不足によって叶えられないという状況に陥ることがある。この不都合を越えるには人間力を鍛えるほかないのであるが、私たちはしばしば安易に走ってその欲求を叶えようとする。その安易な方法が詐称であったり、「虎の威を借る狐」ではないが、権威の利用という自身への偽りの行為が取られる。つまり、こうした一連の事件は、概して、現代人の人間力の低下によって生じて来た現象の一端ではないかということで、その人間力の低下が問われていると見るのであるが、どうであろうか。

 思うに、これら一連の事件は、戦後の教育に負うところが大きく、競争社会が生み出した状況と重なって見えるところがある。もちろん、これは日本だけの現象ではなく、格差社会を作り上げるのと同じ方向に生じている問題であることが指摘出来る。まじめにこつこつやるよりも、人を騙しても平気でいられる人格の形成を得だとする社会の構築がそこにはうかがえるように思われる。約束を守らない政治家などはそれが当たり前のようになっている。この世の中の状況下にこれらの詐称並びに詐称に類する偽善的な事件は必然のように起きて来たものと分析することが出来る。

 さて、生き馬の目を抜くという言葉の中に用いられているごとくエネルギッシュな動物としての気質を持つ馬の後は温厚にして臆病な性情の羊の出番であるが、どんな時代にあっても、時は繋がって前に進むようになっている。そして、生きとし生けるものはみな一つ年を取る。進化か退化か、とにかく、時代は進み、私たちはまたそれなりの社会を作り上げて行くことになる。そのとき、失敗を教訓にしないのは愚かと言えるが、先にも述べたように、私たちは忘却してしまう傾向にある。果して来年の未年は如何に展開して行くのだろうか。 写真は我が家の一年を見詰めて来た馬の置物。


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2014年12月20日 | 写詩・写歌・写俳

<1202> ドレ画による 『 聖書物語 』

         生と死と 光と影の 存在を 描きたるなり ドレの聖書画

 もうすぐクリスマスである。今日はそこで『聖書』について少し触れてみたい気になった。儒者でなくても『論語』を繙くように、クリスチャンやユダヤ教徒でなくても『聖書』には触れる者が多い。言わば、これらの書は古来よりロングに及ぶベストセラーであり、世界の教養書であれば、関心のある御仁は誰もが手に取る。これは、クリスチャンでなくてもジングルベルやサンタの姿を楽しみにするのと変わりないことである。という次第で、教徒ではない私ではあるが、クリスマスが近いということで、ドレ画による『聖書物語』を開いてみたのであった。

                                

 『聖書』はユダヤ教の教書で、キリスト教においては旧約と新約に分れている。旧約は古い神との契約であり、新約は新しい神との契約を意味する。「旧約聖書」は創生記と部族長の物語から始まり、次にイスラエル人たちがモ―セに導かれエジプトを脱出してカナンの地を目指す出エジプト記に続き、苦難の末、王国をつくる羊飼いの子ダビデの話に至る。王国はその子ソロモンの時代に最も栄え、ソロモンはエルサレムに神殿を建て、神を迎え入れた。だが、その王国も長くは続かず滅び、イスラエル人に苦難の道は続いたが、その後、自由が与えられ、神殿が再建されて、モーセ以来の律法のもと、道が開かれて行くことになる。

 「新約聖書」はイエスの誕生とイエスの系譜に始まり、イエスの人となりと苦難である最後の晩餐、いばらの冠、ゴルゴタの十字架上の死の話を経て、イエスの復活、昇天、降臨と続き、殉教者と殉教者を迫害した者の回心、そして、なお、死神の登場を見るが、『聖書物語』は最後の審判によってサタンとその一派を火と硫黄との池に投げ込んで、「主イエスよ きたりませ」という言葉を持って締めくくっている。

 ごく簡単に言って、『聖書物語』は以上のようであるが、ドレ(一八三二年~一八八三年)の聖書画を見ていると、『聖書』が人間の世界を描き、その生の穏やかならざるところを語っているのがわかる。物語では、人間同士によって展開される迫害とか戦いが印象的で、そこから救いの言葉が生まれ、最後に救い主イエスに向かって「主イエスよ きたりませ」と呼びかける信仰最上の言葉をもって物語が締めくくられているのがわかる。

  だが、生と死、光(明)と影(暗)の知覚がこの生の世界にはあって、未来永劫変わることなく、以後においても、主イエスの救いの手が人間の世界には必要であることを暗には示しているということが思われて来る。 写真はこの間の寒波襲来の日に撮ったものであるが、撮影しながらドレの『聖書物語』を思い出したのであった。写真の手前の川は大和川。奥中央の山は金剛・葛城山系の二上山。

 

 


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2014年12月19日 | 写詩・写歌・写俳

<1201> メジロ (目白、眼白)

       慈悲心の 子守柿かな 目白来る

 台風並みの爆弾低気圧が東に去り、昨日まで吹き荒れていた木枯らしも止み、冷たさはなお続いているが、今日の大和地方は午後からすっきりと晴れ上がり、風もなく、昨日までの天侯が嘘のような穏やかな日になった。よく熟した子守柿にメジロが四、五羽来て枝移りして十個ほど残されている熟柿を啄んでいるのに出会った。

             

 実の形からして、富有柿である。ちょうどいい具合に熟している。近づくと、近くの竹薮にさっと飛び去るが、また、直ぐにやって来る。道ベリとあって、ヒヨドリやカラスのような警戒心の強い鳥は来ない。メジロには独占状態であるのがうかがえる。

 メジロは花の蜜を吸いに来ることが多く、梅に鶯ならぬ梅に目白という取り合わせはよく目にする。ツバキにもよく来るが、やはり、花の蜜が目当てである。ところで、メジロの季語は講談社版『カラー図説日本大歳時記』によれば、夏であり、角川書店編の『合本俳句歳時記』には秋とある。

 『カラー図説日本大歳時記』の説明では「初夏から仲夏にかけてが繁殖期だから、夏季の鳥に編入されている」という。だが、夏にはあまり目立たず、冬から春先にかけてよく見かける鳥で、実感からすれば、その季語はむしろ冬から春が好ましいのではないかと思われるところがある。

 で、冒頭の句は「目白」に季語を求めず、「子守柿」を季語として一句を仕上げた。季語の設定の問題はときにこのようなイメージへの関わりが生じる。これは俳句の弱点と言えるだろう。メジロは目の縁が白いので、見誤ることのない鳥である。では、今一句。 目白来て啄む 子守柿 ほのか


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2014年12月18日 | 写詩・写歌・写俳

<1200> 迎 春 準 備

       新たなる年がまた来る 大絵馬の掛け替へられて羊となりぬ

 大和の一年納めの祭りである春日大社の摂社若宮神社の例祭「春日若宮おん祭」が昨日十七日、お渡り行事があって終わった。社寺の多い奈良大和では、いよいよ迎春準備も大詰めを迎えている。来年は未年。未は羊(ひつじ)に表され、温厚を第一の気性とする。で、来年が温厚な羊のような年になればと思うが、どうであろうか。

       

 内外の事情を思い巡らせるに、日本の状況は内憂外患、内も外も課題がいっぱいで、羊のような温厚をもって臨めるかどうか、定かには言えないところがある。景気の刺激は自ずとプラマイに働き、動揺を呼ぶことになるし、国の要の憲法も危うく、日本の意志の揺るぎに他国の介入する隙を作る懸念も持たれる。そして、国内ではいよいよ壊れて行く懸念が地域格差に見られ、経済成長戦略路線の裏で進みゆくことが憂慮される。

 羊の第二の気性は臆病で、このような内外の課題に直面するに至って、その臆病が思われて来るところとはなる。臆病は、概して、負のイメージに取られがちであるが、慎重性をともなうという点を考慮すれば、効用は大いにあり得ると言ってよい。ということで、人間は大望と勇気の反面、智恵と臆病によって今日にあることが思われる。つまり、大望を持って進むことはよいとして、無暗にそれに向かって行くことは、大望ゆえに大きい失敗に行き当たることもあるわけで、ときには臆病が気持ちを引き締めさせ、手綱を引かせて、難を免れるということもある。

 言わば、突っ走る者には、臆病の手綱が必要になるということになり、ここに未年は十二支の中にあって意味を持つということになる。何においても、相対にして総体があるわけで、相対にある吉凶を軽んじてはいけない。という次第で、神社の大絵馬も未年に向けて掛け替えられ、羊の大絵馬が掲げられた。 写真は新年を待つ大門松(大神神社で)と掛け替えられた羊の大絵馬 (左から樫原神宮、大神神社、大和神社で)。

 

 

 


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2014年12月17日 | 写詩・写歌・写俳

<1199> 台風並みの木枯らし

       落葉舞ふ 落ち着く先を 求めつつ

 低気圧が台風並みに発達して、全国的に寒い強い風が吹き荒れ、雪模様のところが多く、北海道では暴風雪に襲われ、被害も出ているようであるが、大和も終日強い北西の風に見舞われ、雪混じりのときもあって、寒さが身に沁む一日だった。

 風が強いと体感温度が下がり、風のないときよりも寒く感じられる。動くことの出来る動物は暖かなところに移動すればよいが、草木はそういうわけにはいかない。そこで草木は寒さに耐える工夫をし、力もつける。ここで草木に重要なのは根の存在で、大地に張り廻らせた根によって命を繋ぐ。どんなに寒くても、根がしっかりしているものは生き延びられる。

                                       

 草木を見ていると、枝や葉などが悲鳴を上げていても、根は微動もしていないのがわかる。この根の強さによって草木は存在を維持していられる。「根こそぎ」という言葉があるが、根にダメージを受けた草木は大方において生き長らえることが出来なくなってしまう。

 ところで、今日は風の強い日だったので、それを写真に表現しようと思い、出かけたのであった。だが、スチール写真で風の表現は、音に等しく透明なため、直には写し得ない。そこで、戦ぐ草木によって表現しようということになるが、それでも、動画のようにはうまく表現出来ない。

 スローシャッターもあると思ったが、竹がしなうほどの風だったので、しなう竹の写真を持って表現してみた。竹は風に煽られ枝や葉が右往左往しているように見える。だが、根はびくともせず大地をつかんで動じない様子がある。これはほかの草木にもほぼ同じことが言える。つまり、根の丈夫をもって草木は存在している。写真は左から地面を走る落葉。強風煽られ葉裏を見せるシラカシ。  走り行き 落葉歩道の 片隅へ