<1203> 二〇一四・午年回顧
目瞑れば 古馬が吹雪を 衝いて行く ただ凛々と あるべくありて
平成二十六年(二〇一四・午年)も終わりが見え、この一年を振り返るときが来たが、わずか一年にも満たないのに既に忘れていることが多い。これは多分私だけではなかろう。情けないとは言えるが、負け惜しみではなく、忘却も生きて行く上の処方とも思えたりするから、まあ、何とも言えない。そんな頭脳の状況においてこの一年の記憶を辿ってみると、今年の傾向というか、特色として見えて来るものがある。今年はその特色的な点にポイントを絞って回顧してみたいと思う。
まず、ベートーベンのごとく耳が聞こえない作曲家として活動していた偽作曲家の暴露があった。全く作曲が出来ないのに、ゴーストライターの力を利用して作品を手がけ、自分のものにして世に出していた。所謂、詐称事件で、NHKもすっかり騙され、この偽者を主人公にした特別番組を作ったほどであった。
次に、新しい万能細胞であるSTAP細胞を見つけることが出来たという論文の不正騒動が起きた。この件は故意でなく、未熟から発した騒動だったと見るのが妥当なように思われるが、そこには真理探究を目指す科学者にはあってならない嘘ごとが見抜けないという点が指摘された。発表者が若い女性研究者だったということもあって、マスコミは飛びついた。以前にも偽論文の問題があったばかりであるが、この件でもマスコミは不正に気づくことが出来ず、巻き込まれてしまった。
次に、兵庫県の県議による政務活動費の不正利用による騒動をあげることが出来る。出張していないのに出張したように見せかけ、その旅費を着服する質の悪い不正であったが、これは政治に甘い制度の体質から来ている事件で、この事件は予想通り他の議員などにも波及した。この件にも、この県議だけでなく、多くの議員が大なり小なりやっているという疑惑を含め、人を騙しても平気でいられる性根が事件の根底にあることを物語るものだった。
これらは三者三様に記者会見の俎上において厳しく糾弾され、自殺者を出すまでに至ったほどであるが、これらの事件の背景に権威というものが横たわっていることが思われるところである。所謂、権威を利用したり、権威に乗っかったりして自分の活動や立場を有利に運ぶというやり方である。偽作曲家はNHKや音楽関係のいろんな分野の権威を巧みに利用し、偽りを通し続け、自分の名声を高め、利益に繋げていた。
STAP細胞の論文不正においては、国が関与している理化学研究所並びにそこに働く科学者という権威の信頼性の下でなされ起きた事件であることが思われる。また、政務活動費の不正利用を行なっていた県議の話は制度という権威を悪用していたものと認められる。
おれおれ詐欺というのは随分前から問題視されて来たが、以前のそれは主に人の情につけこんで行なわれていたところがあった。ところが、最近は、役所とか企業の名を持ち出し、それによって信用させる類の詐欺が横行する傾向が見られるようになっている。これは、つまり、役所や企業の権威というものに目をつけ、それを利用して信用させ、騙すやり口である。ここにも権威を利用する姑息が見受けられると言える。
この権威による不正で最たる話は、以前にも取り上げたが、朝日新聞の従軍慰安婦報道の記事不正の騒動があった。この騒動も今年の大きなニュースとなった。この事件はオピニオンリーダーである新聞が自身の権威をもって偽りの記事を報じ、読者並びに世の中をその権威によって信用させ、世論を誘導しようとしたもので、権威の意志が働いて行なわれことが指摘され、厳しく糾弾された。
所謂、これらの事件は人を騙すという行為が権威を利用して行なわれるということであり、こういうのが今年一年の回顧には顕著に見られるということが言えるように思われるのである。これは、日本人の本質的なところに関わる問題で、憂慮されて然るべきだと言ってよい。よく、哲学では、エトス(人格)とパトス(熱情)とロゴス(論理)が言われるが、人間力から言って、エトスは人格の徳目とか信頼に現れ、権威もこれに属する。パトスは熱情、或いは、感性に基づく情感の部類に当たり、ロゴスは知性を軸にする論理、即ち、言葉に示され、この三要素をもって人間はその生の展開をしていると見なせる。私はエトスとパトスとロゴスについてはこのように自己流に解している。
そこで思われるのは、私たちにとって、私たちの欲求が、自身の中のエトス、パトス、ロゴスの総合たる人間力を経て自分以外の他、即ち、社会に及んで行く際、自身の人間力の不足によって叶えられないという状況に陥ることがある。この不都合を越えるには人間力を鍛えるほかないのであるが、私たちはしばしば安易に走ってその欲求を叶えようとする。その安易な方法が詐称であったり、「虎の威を借る狐」ではないが、権威の利用という自身への偽りの行為が取られる。つまり、こうした一連の事件は、概して、現代人の人間力の低下によって生じて来た現象の一端ではないかということで、その人間力の低下が問われていると見るのであるが、どうであろうか。
思うに、これら一連の事件は、戦後の教育に負うところが大きく、競争社会が生み出した状況と重なって見えるところがある。もちろん、これは日本だけの現象ではなく、格差社会を作り上げるのと同じ方向に生じている問題であることが指摘出来る。まじめにこつこつやるよりも、人を騙しても平気でいられる人格の形成を得だとする社会の構築がそこにはうかがえるように思われる。約束を守らない政治家などはそれが当たり前のようになっている。この世の中の状況下にこれらの詐称並びに詐称に類する偽善的な事件は必然のように起きて来たものと分析することが出来る。
さて、生き馬の目を抜くという言葉の中に用いられているごとくエネルギッシュな動物としての気質を持つ馬の後は温厚にして臆病な性情の羊の出番であるが、どんな時代にあっても、時は繋がって前に進むようになっている。そして、生きとし生けるものはみな一つ年を取る。進化か退化か、とにかく、時代は進み、私たちはまたそれなりの社会を作り上げて行くことになる。そのとき、失敗を教訓にしないのは愚かと言えるが、先にも述べたように、私たちは忘却してしまう傾向にある。果して来年の未年は如何に展開して行くのだろうか。 写真は我が家の一年を見詰めて来た馬の置物。