大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年12月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1208> スズメの大群

       一斉に 雀群れ飛ぶ 冬景色

 最近、スズメの大群を見かける。スズメは民家の軒先などに姿を見せる身近な小鳥だが、最近の家は軒に巣を作るような隙間がなく、民家に巣を作るツバメと同じく、スズメが少なくなっていると言われて来た。だが、このところスズメが増えているような感じがある。このほど目撃した大群は二百羽以上が稲刈りを終えた田で落ち穂などを漁り、竹林をねぐらにしているようで、みんな竹林に吸い込まれるように姿を消して行った。

        

  これは、大群を作り、竹のような樹木類にねぐらを求めるスズメの仲間のニューナイスズメ(入内雀)の特徴に似ている。ニューナイスズメはスズメと異なり、雄は頬に黒斑がなく、頭部が鮮やかな栗色をし、雌は全体に淡茶色で、黄土色の眉斑が見られる。アジアのほぼ全域に分布し、日本に棲息するものは中部以北や朝鮮半島などで夏の繁殖期を過し、寒い時期になると、日本の南西部にやって来て越冬すると言われ、大和地方では冬のこの時期に見られる。

  大群をなし、竹林などをねぐらにする特徴により、このほど目撃した大群はニューナイスズメかと思われた。だが、頬に黒斑が見られるので普通のスズメであると言える。とするならば、民家などでねぐらを失ったスズメがニューナイスズメ化してねぐらを竹林のようなところに移したということも考えられるか。それとも、スズメとニューナイスズメの雑種ということもあり得るのだろうか。とにかく、このほど見かけた大群はニューナイスズメを思わせるほどの規模の大群だった。

 ニューナイスズメはスズメと同じく、稲の穂を食い荒らすので害鳥とされ、制約なく自由に捕獲出来る鳥で、随分昔のことだが、私が若いころ、竹林に網を張ってこのニューナイスズメを一網打尽にしていたのを見たことがある。捕獲して山と積み上げられたニューナイスズメは生臭い臭いが鼻を衝いたが、そのとき、焼き鳥にするというのを聞いた。このほど見かけたスズメの大群は果たしてどのような経緯によって今の大群を形成しているのだろうか。  写真は竹林に向かって飛んで行くスズメの群(左)とビニールハウスの外枠のアームに止まって一列に並ぶスズメの群 (目のように見えるのは黒斑。斑鳩の里で撮影)。 

    群雀 冬を分かちて ある姿

    睦まじく 仲好く 冬の雀かな

    群雀の 気負ひ冬野の 着地点

    冬もまた 楽しまばよし 群雀

            群雀 添ひて並びて 冬日差す

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年12月25日 | 写詩・写歌・写俳

<1207> 正月に向って

     クリスマスイブ過ぎどことなく静か 

 今日はクリスマスであるが、どうもイブが終わると正月に向かう気分になる。町中を見てもそんな感じで、我が家でも今日は新年に向かって神棚の掃除をし、一年の埃を払った。この時期になると日本が多神教の国であるということに思いがゆく。信教の自由で、他人に迷惑をかけなければどんな宗教を信仰しても構わないが、多神教というのは世界の他の国々に比してみて、珍しいのではなかろうか。殊に一人で多神を信じるというのはよその国の人には不思議なことなのではなかろうかと思われる。

                          

 多神教の国でも、日本の場合は神さまでも仏さまでも掌を合せて拝む対象が数え切れないほど存在する。神さまの場合は八百万の神、仏さまの場合は諸仏という。そして、私たちは神社やお寺に赴けば、そうした神さまや仏さまに隈なく掌を合せる。一神教のように他宗教の神を邪神と見なして、こうした神を信じている者を異教徒と言って排斥するが、今の日本ではあまり見ない。

 言わば、日本人というのは、どの神さまや仏さまでもほぼ等しく掌を合せる。で、キリスト教の信者でなくても、日本人は「メリークリスマス」という。そして、この暮れというのは、こうしたクリスマスイブから正月三箇日ころまで、一連の気分がある。これは宗教的なことではあるが、生活の一環としてある文化と見た方がよいかも知れない。写真は掃除を済ませた我が家の神棚。

 


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2014年12月24日 | 写詩・写歌・写俳

<1206> マツグミ

     松茱萸の 冬に入り その実の硬さ

 久しぶりに植物の話を一つ。法隆寺には参道からずっと境内まで多くの立派なマツの古木が見られる。その古木にヤドリギ科のマツグミ(松茱萸)が着床しているのをこのほど見かけた。マツグミは奈良県のレッドデータブックである『大切にしたい奈良県の動植物』二〇〇八年版に絶滅危惧種としてあげられている大切にしたい植物の一つである。

 アカマツ、クロマツ、ツガ、モミ、トガサワラなどの常緑針葉樹に半寄生する常緑小低木で、先が丸い小さな葉を対生し、光合成も行なう。七、八月ごろ、葉腋に長さ1.5センチほどの赤い筒状の花を咲かせ、その後、小さな球形の実をつけるが、熟すのは翌年の三月以降で、熟すと赤くなり、この実がグミに似ていることと、マツに寄生することからマツグミの名が生まれたという。

 ヤドリギと同じように、実の種子の周りが粘液質で、他物に付着するように出来ている。鳥たちがこの実を食べた後、消化されない種子が糞とともに排出され、この粘液質によって前述の常緑針葉樹に着床する。ヤドリギがサクラ、ブナ、ケヤキ、エノキなどの落葉高木に寄生するのを見ると不思議に思われるが、この違いは同類の住み分けかも知れない。

       

 ヤドリギは落葉高木に宿るので冬場にはよく目につき、その存在がつぶさに確認出来る。これに対し、マツグミの場合はともに常緑なので見つけ難いところがある。これに加え、近年、アカマツがマツクイムシのために枯死する被害が出、この影響によってマツグミも減少し、奈良県では絶滅危惧種にあげられたと、二〇〇八年版の『大切にしたい奈良県の動植物』は説明している。

 それにしても、マツグミは目と鼻の先にあった。「灯台下暗し」とはこういうことを言うのだろう。下北山村で見られるというので、出かけたこともあるし、大塔町ではアカマツ林に色めき立ったこともあったほどである。大和郡山市の矢田丘陵なんかでも、登るとマツに目がゆくありさまで、よく探した。何年がかりだろうか、マツグミは大望の植物の一つだった。花は来年の夏には見られるだろう。撮影が楽しみである。 写真は左から法隆寺のマツの古木、マツに寄生して実をつけるマツグミ(法隆寺で)、マツグミの実。右端はサクラに寄生したヤドリギ(吉野山で)。

 


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2014年12月23日 | 写詩・写歌・写俳

<1205> 我が家のXマスイブ

       クリスマス イブもささやか 我が家流

 今日は妻の都合により、我が家では一足早いクリスマスイブ。クリスチャンではないことをまずは断っておかなくてはならないが、例年通りささやかに紅茶にショートケーキで午後のコーヒータイムを過した。午前中に年賀状を片づけ、投函した。師走というのは一つ一つ用事を済ませて正月に向かう。これは毎年のことで、どこの家でも同じだろう。親戚からはいつものように日めくりのカレンダーが届き、それぞれにつつがなく生活しているという感じを受けた。クリスマスが終われば、迎春準備で、世間も正月ムードになって来る。

                                                         

 今年も世の中ではいろいろとあり、それなりに騒がしいような一年だった。我が家では飛び抜けて喜ばしいこともなかったが、飛び抜けて辛いようなこともなく過せた。消費税が上がり、物価も上がって、庶民には少しもいいことがない一年だったが、生活はいつも切り詰めて粛々とやっているのでさほどの動揺もない。大借金をしている国の政策などを当てにしていては碌なことにはならないという戒めが常日ごろからあり、自衛あるのみという心構えで臨んでいる。

  庶民にとって、今の日本というのはこの程度のものであろう。誰が何と言おうと渋ちんで通す。高齢者にはこの方法しかない。欲を出して詐欺などに遭わぬことだ。楽しみは自分で見つける。ここが肝心なところ。体が動かなくなったら、そのときのことで、そのとき、それ相応に対処すればよい。庶民にはむしろないことを武器に余生を過ごすことである。

  華やかなクリスマスイブもよいだろうが、ささやかなのもまたいいものだ。まあ、負け惜しみかも知れないが。負けるが勝ちとも言う。勝ってばかりの人生は、誰だってわかるはずだ。これは最後が苦しい。何もなければ気楽に死ねる。まあ、どちらにしても、短い人生ちょぼちょぼだよ。というほどに我が友などはおっしゃる。言わば、天下はさまざま。けれども、こういう話は、人生これからという若い者の耳には入れたくない気がする。

  それにしても、人生は祝福あってこそということは言える。年の巡りは実に速いが、その一年の無事こそめでたく、祝福されて然るべきだと思われる。一足早く、とにもかくにも、みなさんへ。「メリークリスマス」。写真は町で見かけたクリスマスツリーと今日の午後の紅茶とレアチーズケーキ。

 

 

 


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2014年12月22日 | 写詩・写歌・写俳

<1204> 冬 至

       温まる 心尽くしの 柚子湯かな

 我が家に柚子が二個初生りしたことは十一月末のブログで触れたが、今日は柚子湯の冬至である。近所から大量に頂いた柚子をどのように用いるか、贈り主からはまだ沢山生っているので要るなら採りに来てもらってもいいと声かけがあったようである。風呂に入れて柚子湯にすることは例年通りで確かであるが、五十個以上もあるので、妻が言うにはジャムにするとのことである。

                     

 今日の大和地方は再びの寒気で、国中は晴れの天気だったが、山間部には冬雲が貼りついた空模様になり、季節風が強く、日が落ちてからは一段と寒くなり、柚子湯が思われた。柚子は妻が頂いたものであるから私がとやかく言えるわけもない。で、このブログのために写真だけ撮らせてもらった。その後、妻は柚子を切り刻んで袋に入れて湯船に浮かべたので、湯船では写真にならなかった。しかし、切り刻んで入れたので、単に浮かべただけの柚子湯よりも香が一段とよかった。そういう次第で湯船の写真は撮り得なかった。

 柚子湯と言えば、過去、娘が結婚する以前に「 柚子三つ 湯船に浮かぶ ことのよし 家族三人 無事の一年 」という歌を作ったことがある。あれから一年一年積み重ねて今日の冬至に至るわけで、平成二十三年(二〇一一年)の冬至には「 一年の 無事が思はる 柚子湯かな 」の句、一昨年は冬至の翌日に「 往く年に 来る年 この身は 古稀に入る 」、で、昨年の冬至には「 今日冬至 明日より日脚 伸びる日だ」という句を得た。そして、今年の冬至は冒頭に掲げた句になった。  写真は近所から頂いた柚子の山。では、今一句。   近所より 届きし柚子の 香りよさ