大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年12月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1213> 年越し蕎麦について

        悲喜苦楽喜怒哀楽は身においてあるものなれば越え行くにあり

 年越し蕎麦はどういう理由によって食べる風習が生まれたのであろうか。誰に訊いても「この年の悪縁を断ち切って新しい年を迎えるため」という答えが返って来る。これは人情であろうと察せられるが、ならば、良縁はどのように考えればよいのだろうと、素直でない私などはふと思ったりする。そう考えると、まあ、人の思いなどというものは勝手なもので、都合よく出来ていると思えたりする。そこで私としては考えることになる。そして、考えるうちふと気づいた。所謂、年越し蕎麦の意味は、良いことも悪いことも一応一年の終わりに際し一区切りにして自分をリセットし直し、新しい年を迎えるというように捉えた方が理屈に合うと。

                       

 平安時代の説話集である『今昔物語』巻三十一の第二十七に「兄弟二人萱草紫菀語」と題したお話があるが、年越し蕎麦にはこの説話が思い起こされるところがある。この物語は、二人の孝行息子が親の死に際したとき、宮仕えをしていた兄は、いつまでも親の死を悲しんでいては大切な仕事に差し支えると思い、その悲しみを忘れたいと願って「忘れ草」の萱草(かんぞう)を墓前に植えた。

 これに対し、弟はその悲しみを忘れては相済まぬという気持ちから、いつまでも思い続けたいと、「思い草」の紫菀(しおん)を墓前に植え、毎日墓参りに出向いた。ある日、墓を守る鬼が現れ、弟に「お前は孝心が深く感心である。その孝心に報いて、明日のことを夢に知らせてやる」と言って、そのようにしたので、弟は以後、明日のことが予見出来、幸せに暮らしたという。これがこの説話のあらすじであるが、この物語から思いを巡らせるに、年越し蕎麦の意味における一般的な解釈には、一方が端折られているということに気づくわけで、考えさせられることになる。

 良いことは断ち切らず、悪いことだけを断ち切るというのはあまりにも虫が良過ぎ、厚かましい。むしろ、良いことも一応一区切りして新しい年に向かうという方が、奢りや慢心を防ぐ意味においてもよいと言える。という次第で、年越し蕎麦は新しい年をスタートさせるに、心機一転、一から始めるということを意味していると理解した方がよいように思われる。まあ、それはさて置き、何はともあれ、諸兄諸氏にはよいお年を。 写真右は我が家の年越し蕎麦。左は大空に羽ばたく平和のシンボル、鳩の群。来年への願いはどうもこの鳩に向いそうな気がする。