大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年10月07日 | 写詩・写歌・写俳

<1129> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (81)

          [碑文]          高圓之 野邊秋芽子 徒 開香將散 見人無尒                                      『万葉集』 巻二 (231)  笠 金 村

 この原文表記による万葉歌碑は、春日山の南に連なる高円山(四三二メートル)の西麓に位置する奈良市白毫寺町の白毫寺境内の一隅に建てられている。歌は『万葉集』巻二の挽歌の項に見える志貴皇子の薨去に際して詠まれた悲歌の長歌に添えられた短歌二首中の231番の歌で、『笠金村歌集』から採られ、 「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに 」 と語訳されている。

 この長短歌一連の歌には、「霊亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨りましし時の歌一首 并に短歌」の詞書が見られ、左注には「笠朝臣金村の歌集に出づ」とある。志貴皇子は霊亀元年(七一五年)秋九月に亡くなったが、『続日本紀』によると、翌二年八月十一日になっている。これは、元正天皇の即位があり、薨去が即位に重なったため、次の年に遅らせて薨奏されたのではないかと言われている。

 志貴皇子は、天智天皇の第七皇子で、天智側と天武側で皇位継承を争った壬申の乱において天智側が敗れたことによって、政権が天武天皇に移り、政治から遠ざかったことと、温厚な人柄によって政争に無縁の文芸の道にその身を置き、名高い短歌などを遺すに至った。このような生涯の皇子であったことにもより、多くの人々に慕われるところとなったようで、この葬送に寄せた一連の悲歌はあり、230番の長歌も次のように詠まれている。

 梓弓 手に取り持ちて 大夫の 得物矢(さつや)手ばさみ 立ち向ふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉桙の 道来る人の 泣く涙 こさめに降りて 白𣑥(しろたへ)の 衣ひづちて 立ち留り われに語らく 何しかも もとなとぶらふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 天皇の 神の御子の いでましの 手火の光そ ここだ照りたる

 という次第で、歌の意は「高円山に春の野を焼く野火とも見えるほどに燃える火は何かと問えば、道を歩いて来た者は、激しく涙を流し、着物を泥に汚して言う。どうしてそんなことを訊ねるのか、それを訊かれると、話すのも辛く胸が痛む。あれこそは、天皇の御子さま(志貴皇子)の御葬列の人々が持つ松明の灯だよ」となる。

                       

 晩年、志貴皇子は春日に住まいしていたので、第六子に当たる白壁王が第四十九代光仁天皇として即位したことによって、薨去後五十年以上を経て追尊され、春日宮天皇と呼ばれ、陵墓の田原西陵が高円山の裏側に当たる奈良市矢田原町に造られたため田原天皇と呼ばれることになった。この経緯から230番の長歌に詠まれた葬送の松明の列は高円山を越えて続いたことが想像される。

 笠金村は山部赤人に少し先立つ奈良時代の宮廷歌人で、長歌八首を含む三十首が『万葉集』に見える代表的万葉歌人であり、この一連の歌のように『笠金村歌集』出典の歌も見られる。碑文の231番の短歌は「高円の野辺の秋萩は空しく咲き散っているだろう。薨去された皇子の悲しみに遇って見る人もないので」となろうか。「見る人」を亡くなった志貴皇子自身とする見解と悲しみに暮れる人々とする見解とがあり、志貴皇子自身とする方が『笠金村歌集』の出典の断りからすれば、妥当なような気もするが、230番の長歌とを合わせて鑑賞すると、この碑文の歌は悲しみに暮れる人々に心持ちを置いて詠んだ金村自身の歌であると捉えた方がすべてにおいて適うように思われ、以前は「見る人」を志貴皇子と解していたが、今の私には悲しみに暮れる人の側の歌として捉えた方が納得される。

 この碑文の万葉歌碑が高円山の西麓の白毫寺に建てられているのは、ここに志貴皇子の離宮があり、その山荘をお寺に変えたということによる。高円の野辺は野趣に富んだところで、ほかにも多くの万葉歌に詠まれ、萩や薄の名所だったことが推察出来る。白毫寺は石段を上って行くと開けた境内に至る見晴らしのよいお寺であるが、萩が多く、奈良大和を代表する萩の名所で、銘椿とともに萩の寺としてよく知られる。  写真は歌碑と白毫寺石段脇の萩の花。    こぼれ萩 こぼるるままに 萩の寺