<1142> 続々々・自作五十句 (<1140>よりの続き)
水脈(みを)青し千巻の経渡りしか 離宮道三三五五の人に春
霜の朝輝けば母思ひ出す 照り翳る心模様の冬人家
書肆に灯の師走三條御幸町 飛鶴画の飛鶴しんしんと冬の室
末黒より芽吹く彩よし雨も 枯葦原去年(こぞ)の記憶は風の鳴り
薄紅梅今日といふ日は昨日より 忍恋去年の雪なほ消えずあり
人の死に遭ひけり二月尽にあり 梅林の花の迷路を妻と二人
比良は雪対局室の若き棋士 奥琵琶の奥の語感に春の雪
海峡の春の潮の速さかな 春の旅車中に眠る人とゐる
湖国には花の汀の美しさ 日の光青葉若葉の彦根城
文月文月文月を纏ふ古墳かな 潮騒や真竹すくすく阿波鳴門
積まれゐる図書に冬陽の暖かさ 倚恋(よするこひ)てふ恋夢の時鳥
豌豆を湯掻く匂ひす歎異抄 特記なき日記の四月二日かな
時雨過ぐ濡れし大根畑かな 夏山をふるさとと言ふ男の頬
遂げ得ざるゆゑと告げおけ不如帰 春の雨妻と娘(こ)がゆく歩道橋
蛇苺雨に濡れ我が南無大師 霜月が何ゆゑ好きか母に問ふ
夢殿に夢見の桜咲きにけり 春疾風『鳴門秘帖』の阿波鳴門
薔薇の芽を濡らす春雨童貞記 大和なる金剛葛城紫苑咲く
寂しくも秋の如来の頬やさし 木守柿あっぱれ孤高の天にあり
観音の大悲の枝垂桜かな 春うらら人の寝姿なる古墳
晩秋の吉野の山に鐘を聴く 田の面を燕飛び交ふ一心に
ほっこりと春を纏へる翁面 冬の底日陰の梅の眺めかな
冬ざれや素足の犬の行きにけり 蝋梅の活けられてある確かな香
郵便のバイク来て去る小春かな 凍蝶の翅の震へを夢に見る
遠雷や野末の辺りにも人家 少女来て画を描く木陰の晩夏かな
冬枯れも一景吉野蔵王堂 ゆく春や猫の徐なる歩み
俳句における写生について今少し触れてみたいと思う。私は写真をするので、カメラを持ってよく社寺などに出かける。そのとき、絵を描いている人に出会うことがあるが、その写生、即ち、スケッチを垣間見て、絵はいいなと思うときがある。例えば、塔の絵を描いたり、写真を撮ったりするとき、手前に電柱があって、邪魔になったりすることがある。そんなとき、絵の場合は電柱を描かなければよい。けれども、写真ではそうは行かない。最近では、パソコン技術によって写真から電柱を消すことも出来るようであるが、そこには、写生における絵と写真の違いが思われる。
では、俳句の場合はどうだろうか。俳句で言われる写生は写真よりも絵におけるスケッチの方に近いのではないかということが言える。「ありのままに」と言っても、電柱の話は写生について回る。そこには取捨選択が行われるわけで、取捨選択は絵を描いたり、俳句を作ったりする者の主観に負うところがあるから写生であっても主観なしには作品が出来上がらないことが生じて来る。
今一つ例をあげて言えば、嘗て、手前に築地塀を入れて奥の堂宇を写した写真があった。その築地塀の上の瓦に椿の花が三つほど写し込まれ、この椿の花がアクセントになってその写真を引き立てていた。だが、椿はあしらいで、実に不自然に思われた。椿の花というのは桜の花と違い、風に舞い散るような花ではなく、木の下にぽとりと落ちる。だから、落ちた花の傍には椿の木がなくてはならない。写真にはその木が見られない。ということは、花を他所から持って来て置いたということになる。
写真はそれで引き立ったが、これは自然に反する。電柱があるのに電柱を描かないのと、このように椿の花を持って来て写真に加えるのとでは、自然という観点において少しニュアンスを異にする。子規の言う写生論は後者の椿の花のようなところをもって空想というように言っているのではないかと思われる。単に写生と言っても、何処までが許されるのかという点は難しく、俳句の立場は言葉をもって表現するから一層この点が思われるわけであるが、子規の写生論は自然や道理に反することがあってはならないことを言っていると知れる。これを実行するには実地を踏んだ十分な観察や知識が必要になって来る。
よく話題になる「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という子規の名句がある。この句は東大寺近くの宿屋で出してもらった柿を食べていたとき、ちょうど東大寺の鐘が聞こえて来たので詠んだと言われ、下句の東大寺を法隆寺に換えたのがこの句だという。この見解をそのまま受け取ると、子規の写生論と矛盾する作句であることになる。しかし、子規は、その後、法隆寺に向かった。ここが重要なところで、私は子規が法隆寺の茶店に立ち寄り、そのとき法隆寺の鐘を聞いたと考える。そこで、タイミングよく柿を食ったかどうかは、その写生論からしてみると、前述の電柱に等しく、さほど問題ではない。「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書があるので、この点はドキュメントと言え、不都合はあるが、作品自身から見れば問題にはならないと言える。
要は、法隆寺に適う要素の句になったということで、この句の正当性が言えるところである。この句は子規が空想して詠んだものではなく、法隆寺に赴いて写生し、この句が法隆寺に適うというところをもってこのような句に収めたというように理解した方がよいと思える。で、芸術性から言えば、東大寺より法隆寺の方がよいと子規は判断した。法隆寺では鐘を撞かないということであれば、この句は前述の椿の例になるが、子規は法隆寺にも出向き、観察してその点を確認している。そこで、句における言葉の展開は収まるわけで、その作品における写生の重要性は寸分違わず見た通りに表現するという狭義の意味に捉えるよりももっと幅広く広義の意味に捉えることをもって子規の認識はあったのではないかと思われる。この意味において私には写生の重要性が納得される。
でなければ、短い生涯に二万句近く詠んだと言われる子規の句作を思うとき、自身の写生を重んじる俳句論と実践が矛盾して成り立たなくなるからである。「ありのまま」に写生して、空想(観念)なく句を作り、二万句と言えば、一日百句をものしたときもあったであろうから、普通に考える狭義の意味の写生では到底その句作には及べず、無理だということが思われることになる。とにかく、写生というのは、内実をも含め、よく観察せよということで、それは必要であるが、作句はそれを基本に自分の観念を入れてなされることが肝心だということになる。ここで私の句作のことであるが、こういう観点から、写生の重要性と私という個の主観というものをもって作に当たるのがよいというふうに思っている。 写真は塔の写生風景と法隆寺境内の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑。 おわり。