大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年08月07日 | 写詩・写歌・写俳

<340> 誕 生 日

         七夕は 我が誕生日 人の世の 願ふ心が ほの見ゆる日

 生まれて来た者には誕生日があり、死んでいった者には命日がある。私の誕生日は盆が近いこともあって、よくこのようなことを思うことがある。

  今日は私の誕生日である。何回目かは伏せて置きたいと思う。このブログを見ていただいている諸兄、諸氏がそうであるとは言わないけれども、学歴でその人物を判断することのあるように、年齢にしても年齢を基準にして判断することも生じる。それが不当とは言わないけれども、そのような基準などなく自由に発信し、自由に見ていただくのが、このブログの願うところであれば、敢えて何回目かということを述べなくてもよかろうと思う。もちろん、氏名も明らかにしていない。これもこのことに由来している。私が気の小さい、否、自信のない人間だからだろう。それでも、述べるということにおいて、自由人でいたいと思うわけで、隠遁生活をしながら発信した先人の姿が私の頭の中にはちらちらしている。どんな生き方をしても毀誉褒貶は世の常で、「踊る阿呆に 見る阿呆」。ならば、踊った方がよかろうと思う次第で、このブログも始めた。

 年によって異なるけれども、今日は立秋でもある。暦の上では秋が立つ日。朝は何か涼しいような気もした。また、八月七日は旧暦の七夕である。子供のころ、母はいつも私の誕生日について、この日を自慢するように言っていた。「どこの家でも団子を作って祝ってくれる」と、そんな風に言って、私の家でも、その日になると、おはぎや焼き餅を作ってくれた。いまは新暦の七月に行うが、私の子供のころは旧暦で雛祭りも七夕もやっていた。だから、私には七月七日の七夕はピンと来ないところがある。言わば、七夕は夏休みの佳境、一番楽しい時期に重なってあった。

 この時期になると、稲はぐんぐんと大きく株を張り、水田はあおあおとして、朝になると、息づく稲は露を帯びるようになる。この露を掬って、それで墨を磨り、それでもって笹竹にぶら下げる短冊に願いごとを書いた。

     ささの葉さらさら/のきばにゆれる  お星さまきらきら/きんぎん砂子

     五しきのたんざく/わたしがかいた  お星さまきらきら/空からみてる       権藤はなよ(補作林柳波)

 これは昭和十六年に出た文部省唱歌である。短冊に願いを書いて笹竹にぶら下げるというのは、恵比須さんの福笹に似ているが、天の川を隔てて輝く牽牛と織女の出会の願いにあやかったもので、年に一度二人の出会うこの日が自分の誕生日であるという気分はまんざらでもなかった。

 ほのぼのとしたその夜。雨のときは逢えないことになっているが、この時期は太平洋高気圧が張り出し、日本列島は台風でも来ない限り雨になることはなかった。それで、子供のころはよく風呂上がりに庭先に出した一丈台に寝ころんで夜空を見上げたものである。牽牛と織女は天の川を挟んでほぼ真上の空にひときわ鮮やかに輝いていた。ひんやりとした一丈台の木質の感触とともに、仰向けになって見上げる星の輝きが随分近くに感じられたことがいまも心地よく思い出される。

 立秋とは言え、私の誕生日は暑さの真っ盛りである。母は出産に当たって相当難儀したのではないかと思われる。母の臨月に当たる七月が私に苦手なのは私をお腹に抱え、暑さに耐えた母の気分の以心伝心ではないかという話は以前に述べた通りである。もちろん、この理屈で言えば、その時の母の辛抱も当然ながら我が身に伝心していると言える。そして、母はその暑さの中で私を出産した。百日紅がほのかな紅色の花を咲かせていた。水田を隔ててその百日紅が見られた。今は、水田が埋め立てられて家が建って百日紅は見えなくなってしまったが、いい眺めであった。原爆投下があった原爆の日や敗戦に終わった終戦の日に近いが、これらは私が誕生した後の出来事である。

    朝戸出に見し田園の青葉月かかる季(とき)にしわれは生れぬ

   八月はわれを産みたる母の月笑みをふふみて咲く百日紅