大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年11月06日 | 写詩・写歌・写俳

<65> 晩秋の夕景
             時はゆき 今日といふ日も 暮れゆける あるいは塔の眺めにありて
  ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、 かつ結びて、 久しくとどまりたる例(ためし)なし。 世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
  玉敷の都のうちに、 棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人の住まひは、 世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年造れり。或は大家亡びて、小家となる。住む人もこれに同じ。 所も変はらず、 人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、 わづかに一人二人なり。 朝(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、 ただ水の泡にぞ似たりける。
  知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、 何方へか去る。 また知らず、仮の宿り、 誰がためにか心を悩まし、 何によりてか目を喜ばしむる。 その主(あるじ)と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異らず。或は露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つ事なし。
  これはよく知られる鴨長明の『方丈記』の冒頭の一文である。無常を説いた名文であるが、大きな災害があった今年、この一文がことのほか身に沁みて思われる。時は戻すことが出来ず、有無を言わさず進んでゆくこの世のならいである。東日本大震災の大津波は未だ眼に焼きついているが、 時は移ろい、 右往左往しながらも半年が過ぎた。紀伊半島の大雨の被害も然り。私的なことではあるが、我が妻の足の怪我も一ヶ月を経過して、 何とか松葉杖なしに歩けるようになった。 良しにつけ悪しきにつけ、時は滞ることなく過ぎゆくことが思われる。

                         
  誰がこの時を超越して過ごすことが出来るだろう。若い時分はあまり考えなかったが、年齢によるからか、塔一つの眺めにも時に統べられている私たちの生というものが思われたりする。私たちが忙しなく日々を送ることにもここに一因があるのかも知れない。
   人生論 幸福論に 及ぶとき 鷺の一景 脳裡に浮かぶ
  「鷺」とは、即ち、時を抱いて岸の根に立つ身。この身とは欲するところ。 こと足らざるにある。しかし、それゆえに生は成り立っているとも言えるところがある。「鷺」のみならず、にぎやかに見えるものにも、さびしく見えるものにも、すべてのものに時は関わって刻まれていることが思われる。 写真は斑鳩の里の法起寺三重塔。