<353> 大柳生の太鼓踊り
あをあをと 大和国中 青葉月
十八日、奈良県の無形民俗文化財に指定されている大柳生の太鼓踊りが奈良市大柳生町の営農組合交流館広場で行なわれた。新聞の記事によると、今年が最後であるという。踊りは雨模様の中で行なわれたようであるが、室町時代から継承されて来た太鼓踊りの終焉は単なる感傷では済まされない重要な意味を含んでいるということで、この踊りの終焉について少し考えてみた。
大柳生の太鼓踊りは、五穀豊穣や子孫繁栄を願って地元の夜支布(やぎゅう)山口神社の氏神に奉納するもので、大柳生町三地区の当屋(当番の家)三家が毎年持ち回りで、氏神を自邸に招き、邸内の庭で行っていたが、近年、踊り手の若者が少なくなり、現在の広場で三地区全体から踊り手を集め行なうようになった。しかし、それでも踊り手が確保出来ない状況に陥ったため、今年限りで取り止めることにしたという。
大柳生町は奈良市街から山一つ東に越えた大和高原の一角に位置する農業が中心の町で、近くには大和茶で知られる茶畑なども広がるところであるが、若者の流出が止まらず、太鼓踊りの中止に繋がった。この取り止めは大柳生町の事情によるものであるが、この中止は大和全域が抱える事情を含むもので、我が国全体にも及ぶ産業構造に関わる問題であり、地域社会の存立をも危うくしている現代社会の象徴的な現れとして捉えるべき問題でもあることが言える。
太鼓踊りの取り止めは、橿原市地黄の野神行事の一つである「地黄のススツケ祭り」が少子高齢化によって子供の人数が少なくなって立ち行かなくなり、取り止めに追い込まれ、神事に関わる部分のみが細々ながら続けられている状況と同じで、我が国が抱える社会の変貌を物語るもので、その在り方や行方など考えさせられるものとしてあるのがわかる。
この間、山の辺の道で、七十歳代のミカン農家の主人と話していて聞いたのであるが、天理市柳本町付近の農家千戸の中で後継者に心配のない農家はわずかに五十戸足らずであるという。大和国中の農業には一番いい立地のように思われるこの辺りでと、耳を疑うような話だったが、後十数年もすれば、この辺りは雑草の繁る荒れ地になるだろうと悲観的な言葉が出る。今は青々とした水田が広がっているが、後継者のいない農家は実際のところどうするのだろうか。今でも既に山側の上部は畑が雑木に被われているところもあるという。こういうところを見ると、もっと綿密なリサーチが必要で、それに基づく対処がなされるべきであると思われるのであるが、どのような方策が取られるのであろうか。聞く側も悲観的になる話ではあった。
で、これは太鼓踊りが取り止めになった大柳生町が抱える事情と全く同じであることが言える。こういう深刻な問題を抱えているところが大和のいたるところに見られるのが現代の抱える状況なのである。この問題は国家の計に関わることで、工業国を目指して来た我が国の産業構造における行き詰まりと市場優先による拝金主義的政策における第一次産業の辿って来た道の現れと言ってよく、一地域の個別的な問題に止まらない深刻さを示すもので、これは、都市部とも関連し、考えを巡らさなくてはならない問題としてあり、政策的知恵が求められるのんびり構えていられないところのものがあると言ってよい。
思うに、国には市場経済に左右されないような地に足のついた地道な産業の育成に当たり、まともな家庭生活が営める社会環境の整備、構築が必要で、食料の自給率ぐらいはもっと高めるぐらいの政策を取ることが望まれる。そうすれば、自ずと少子化の問題などは解消し、活力のある社会が蘇ることになる。杜甫の五言律詩『春望』にいう「国破山河在」は、これを裏返しに言えば、山河があれば破れた国もまた立て直すことが出来ることを示している。しかし、その山河(例えば田園風景)が荒れてしまっては、私たちの精神状況にも関わることで、ゆゆしきことと知らねばならないわけで、冒頭の句が思われて来るのである。写真の太鼓踊りは十年ほど前に担当当屋の邸前で行われたもので、夜中に行なわれる踊りは実に華やかだったのを覚えている。
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