大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年09月12日 | 創作

<2805> 作歌ノート 見聞の記    見聞の記

         誰もみな今を生きゐる時のひと感と知により身を処す定め

 歌人の河野裕子は「人間を含めたすべての生物が宿命的に逃れられないものが三つある。生まれ合わせた時代から逃れられない。自分の身体の外に出ることができない。必ずいつか死ななければならない」と言っている。何をしようが、何を考えようが、人は人種、性別、年齢、身分、貴賤、職業、思想を問わず、みなどんなことがあっても、生きている上においては決して己が生きている時代から逃れることは出来ない。つまり、この言葉は、この時と空間の同じ位相に生きるものであることを言うものと知れる。

 見聞の産物である我が「見聞の記」の短歌はもちろんのこと、私の一挙手一投足はみな今という時代に包含され、その内にあり、今という時代の束縛から決して逃れることは出来ないということ。そして、いくら速く走っても、時より速くは走れないし、いくら居場所を変えようとしても、この世の外には出られない。もし、この二つを叶えようとするなら、それは命を絶つ以外にないということになる。

                                 

 ということで、この「見聞の記」の短歌は、今という時代から逃れられない身として、納得、同調はもとより、許容も妥協も、また、批判も反発もみなすべてこの身のうちそとに意識しつつ、ときには空想、夢に遊んだりするのであるが、以下の五首はこういう状況を認識しながら詠んだものと言える。これは私という脈絡における歌の姿であるが、思うに一つの眺めになっているのに気づく。

  廃屋の意味深かからむ旺盛に茂る葛にて埋め尽くさるる

  草むらに投げ捨てられし空罐が雨に濡れゐる現代を撃て

  空瓶が露に濡れゐてひんやりと見ゆる自愛を思はしめつつ

    屑籠に捨てられてゐる週刊誌我ら流されゆく身の証

  捨てられし時計が違和を刻みゐるいや現代の意思に叶ふか

 葛の茂る光景は昔からある。我が目を射たのは廃屋。廃屋が意味するところは荒廃、過疎化、無関心。往時の活気はどこに行ったのだろう。この光景はときに別離に始まる人生の流転を思わせる。空罐、空瓶、これらは捨てれば厄介なゴミになり、集めて再利用すればまた資源に還元される。使い捨ての時代が到来して久しく、その時代である今の時代は次から次へと何でも捨ててかかる。そのお構いのないやり方が意識のうちに否応なく入り込んで来る。いつになったら意識改革はなされるのだろうか。

  屑籠に捨てられた週刊誌は読み捨てを意味する寸景にほかならない。その週刊誌に見え隠れするのは、現代人の流儀であるが、その週刊誌から何を得たのであろう。そこには捨て去り捨て去り捨て去りして流されてゆく私たち現代人そのものが透けて見えるような気がする。

  捨てられている卓上型の時計。文字盤の一部が欠損しているが、不思議でもなんでもなく、まだ、しっかりと時を刻んでいる。捨てられた理由は能力の不可ではなく、見映えの評価によるのだろう。そんなところが透けて見える。で、思うに、現代人のやりたい放題は地球(自然)にとって決してよいものではなかろうと思えて来たりする。

      今という時をこの身は生きてゐるあるは見聞の耳目において

 極めて小さく、誰に理解してもらえなくても、私にとって、この「見聞の記」の思いの告知である歌を除き去ることは出来ない。欲求にほど遠い身の貧困と欲望を追求して止まない貪欲な豊満の内に宿る精神の貧寒たる現実とが輻湊する現代。人間はなぜこのような様相に陥り来たったのだろうか。時代が進むに従ってより貧困と貧寒の様相は大きくなっているように感じられる。

   なぜ私たちは天の時をともに心やすく過ごせないのか。なぜ丸い地球(自然)をともに享受出来ないのか。なぜ戦火を交えてしまうのか。なぜともに和合して和めないのか。同じ生きとし生けるもの、同じ時空にあり、ともにあるべきものなのに、なぜ、なぜなのだろうか。醜い欲望よ、さびしい羨望よ。思うに、私たちに問われる「なぜ」は、「なぜ」が永遠の課題としてあることを再認識させる。 写真はイメージで、廃屋。    ~ 見聞の記 終 わ り ~