大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年01月22日 | 万葉の花

<872> 万葉の花 (116)  ひ (檜) = ヒノキ (檜)

       杉 檜 凛として立つ 寒中も

  ― 前略 ― 石走る 淡海の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手を もののふの 八十氏河(やそうぢがは)に 玉藻なす 浮べ流せれ  其を取ると さわく 御民も家忘れ 身もたなしらず ― 後略 ―                                                                                              巻 一 ( 5 0 )    役   民

   いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折りけむ                巻七(1118)柿本人麻呂歌集

  巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松が末(うれ)に沫雪(あわゆき)流る            巻十(1314)柿本人麻呂歌集

 ヒノキ(檜)は「ひ」と呼ばれ、『万葉集』には、長短歌九首に見える。この九首を見るに、まず、冒頭にあげた巻七の50番、藤原宮の民(えのたみ)の長歌がある。この歌は、持統天皇が藤原京に遷都したとき、その宮の造営に当たり、働いた労働者の歌として見えるもので、造営に用いたヒノキを近江の国(大津市)の田上山(たなかみやま)から伐り出し、運びやすいように短くして、琵琶湖から流れる瀬田川より宇治川に流し、淀川の合流地点で、筏に組んで泉乃河(木津川)を遡り運んだと詠まれている。

 多分、木津川の岸から藤原宮(橿原市)の造営地まで陸路で運んだのであろうとされている。また、佐保川から大和川を経て飛鳥川等によって造営地まで運んだとも考えられる。この歌は大事業を人力で行なった時代を彷彿とさせる歌であるが、当時、ヒノキが建築材として重要視されていたことをも物語る歌でもある。

 次に、1118番の柿本人麻呂歌集の歌に見られるようにヒノキの枝葉を髪に挿して飾りにした歌が二首あり、当時は草木を髪に挿してかざしにする習わしがあったが、この二首の歌はヒノキの枝葉もこの習わしに用いていたことを示すものと言える。次に1314番の柿本人麻呂歌集の歌のごとく、ヒノキが一面に生えているところを檜原や檜山と表現し、その風景をして詠んだ歌がかざしの二首を含め、七首に及ぶ。

 この檜原や檜山にはすべてに固有の地名が冠せられ、「巻向の檜原」、「三輪の檜原」、「初瀬の檜原」、「丹生の檜山」といった具合に歌枕的に用いられているのがわかる。原や山という言い方は、一帯がヒノキ林であったからで、スギ(杉)にも言えることであるが、これは植林されていたことを意味するものとも受け取れる

 ところが、藤原宮の造営には宮の近くに位置するそれらの檜原や檜山でなく、この長歌によると、遠い近江の国からその材を運んでいる。これは田上山のヒノキが良質なものであったのと大量の材が必要だったからに違いない。民のこの歌はそれを物語るものと言える。

                                                         

  ヒノキはヒノキ科の常緑高木で、わが国固有の針葉樹として知られ、本州の福島県以西、四国、九州(屋久島まで)に分布し、大和でも各地で見受けられる。高さは三十メートル、根元の直径は六十センチほどになり、田上山にはこのような立派なヒノキの成木が多く生えていたのだろう。材は硬質で、光沢があり、香りがよく、腐り難いため建築材や仏像などに用いられ、世界最古の木造建築物である法隆寺がヒノキで作られているのは有名である。また、皮は檜皮(ひわだ)と呼ばれ、神社の屋根などをこれで葺く。その材の褒め言葉として、檜舞台とか檜普請などと言われる。なお、ヒノキは雌雄同株で、花は春に咲き、球果の果実は秋に熟す。

 因みに、ヒノキの文献上の初出は『古事記』の上巻、須佐之男命が八俣の大蛇を退治したときの話に登場する。大蛇の凄さを述べている件で、「その目は赤かがち(ほおずき)の如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生ひ、その長は谿八谷峡八尾に度りて、その腹を見れば、悉に常に血爛れつ」とある。なお、ヒノキの「ひ」は火を意味するもので、その名はヒノキを擦り合わせて火を起こしたことによると言われる。写真は熟したヒノキの球果(左)とヒノキ造りで知られる法隆寺。五重塔は世界最古の木造建築物である。

 


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