大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月07日 | 万葉の花

<583> 万葉の花 (82)  な し (梨、成)=ナシ (梨)

        猫の手も 借りたき農家 梨の花

    もみち葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折りかざさむ                    巻 十  (2188) 詠人未詳

   露霜の寒き夕の秋風にもみちにけりも妻梨の木は                           巻 十  (2189) 詠人未詳

   梨棗黍に粟つぎはふ田葛(くず)の後も逢はむと葵花咲く               巻十六 (3834) 詠人未詳

 左注に梨の黄葉を見て作ったとある大伴家持の巻十九の4259番の歌を含め、集中にナシ(梨)を詠んだ歌は四首ある。漢詩の世界では梨花と呼ばれて、ナシは花が詠まれているが、中国の文化を採り入れて来た当時にしては不思議なことに、花よりも、秋の黄葉に関心が持たれ、詠まれているのがわかる。これはどうしてなのか、後で触れてみたいと思う。

 まず、この四首を基に万葉の歌をうかがえば、花はウメとサクラに譲っているようなところがあり、ナシの花は敬遠されているきらいがある。『枕草子』にも「よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文つけなどだにせず。愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに葉の色よりはじめてあいなく見ゆるを、唐土にはかぎりなきものにて、文にもつくる。云々」とあり、当時のナシの花の評価は極めて芳しくない。

                                                                           

 家持の4259番の歌は「十月(かむなづき)時雨の常か我が背子が屋戸の黄葉(もみちば)散りぬべく見ゆ」とあり、現代の私たちからすれば、ナシよりもカキやサクラの紅葉の方が印象的で、ナシの黄葉は今一つピンと来ないところがある。カキは『万葉集』に登場しないので論外として、花はもちろんのこと、葉の色づきもナシよりサクラに思えるのであるが、サクラはウメと同様花に尽くして詠まれている。

 これは『万葉集』に登場する「もみち」に黄葉の表記が圧倒的に多く見られるのに相通じるところがあるように思われる。つまり、当時、秋の紅葉(黄葉)は黄葉が主眼に置かれていたので、黄色く色づくナシの葉が注目されたと考えられるが、どうであろうか。中国では初唐のころまで紅葉(黄葉)の表記には「黄葉」が用いられていたから、初唐と万葉時代が重なることをして言えば、これについては、中国の影響があったと見なせる。

  言わば、ナシの場合、花はウメやサクラに譲り、黄葉をもって迎えられたと言えそうである。これは摂取して来た中国の文化を自らのうちで咀嚼しながら日本独自の文化に織りなして行く一つの過程的現象と見てよいように思われる。平安時代以降には花が詠まれるが、中国の「梨花」には関わりなく、「あしびきの山なしの花散りしきて身も隠すべき道やたえぬる」(藤原定家)と我が国独自の花をもって登場している。

                                                                          

  ナシ(梨)はバラ科の落葉高木で、高さは十五メートル以上になる。春、葉の展開と同時にサクラに似た白い五弁の花を咲かせ、秋にほぼ球形の果実をつける。ヤマナシを原種にして改良されたという説のある一方、古い時代に中国から渡来したという説もある。現在はいろんな種類のナシが登場し、果樹として、大和でも大淀町や斑鳩町などに産地があり、棚作りにした梨畑が見受けられる。現在生産されているナシは改良に改良が加えられ、主に皮に赤味のある赤ナシ系と青い青ナシ系に大別され、美味なナシが開発され、西洋種のナシも見られる。

  花については、3834番の「梨棗――」の歌にうかがうことが出来るが、この歌は物名としてあげたものに過ぎず、花自体を詠んだものではない。ところで、『日本書紀』には、持統天皇七年(六九三年)の記事に「桑・紵・梨・栗・蕪菁等の草木を勧め殖ゑしむ。以て、五穀を助くとなり」とあり、ナシは五穀の足しにするため栽培が奨励された。また、『延喜式』には甲斐や信濃の国から青ナシの献上があったことが記されているから、ナシはその昔から果樹として注目されていたことが言えるが、果実を詠んだ歌も『万葉集』には見られない。

 なお、黄葉を詠んだ2188番と2189番の歌の「妻梨の木」の梨は無しに重ねて用いられている。これは、ナシがアシ(葦)を「悪し」として嫌い、ヨシ(良し)と呼ぶのと同じく、「無し」の意を嫌って、「有りの実」と呼ぶこともあるのに通じる。王朝歌人相模の一首に「おきかへし露ばかりなるなしなれど千代ありのみと人はいふなり」とあるのがこの例である。もしかすると、歌をはじめとする当時の我が国の文芸においてナシの花や果実が敬遠されたのはこの語呂合わせに起因するのではないか。こう考えれば、中国文明信奉の時代にナシの花も果実も文芸の世界において姿を見ないことに納得がゆくと言えそうである。

  写真は上段左から花盛りを迎えた棚づくりにされたナシ畑。ナシの花のアップ。ヤマナシの花。下段は左から野生状態に置かれたナシ。順にナシの実、ヤマナシの実。万葉人は果たしてどれほど改良されたナシを口にしていたのだろうか。ヤマナシは果実が小さく、直径三センチほどである。

 


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