大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年10月13日 | 創作

<1135> 自 作 五 十 句

        詩魂問はば 白鶺鴒を逆光に                倒さるる家の隣りの白木槿

       汝が一矢 文月の喉射貫きたり               花葵笑ひて避けし言葉顕つ

       春昼や男雛が眼差し空にあり              棕櫚の花豊饒の恋歌を掲げ

       夕陽射す外人墓地のはるしゃ菊              行く春や童貞二人橋の上

       人人人 人と見に行く桜かな                  ただひとり対峙して見る桜かな

       時雨過ぐ 玻璃の中なる兜かな               春の夜の完成予想図 淡翅色

       千鳥ゆけ 歌とはつまり思ひなり              竹の花色の小包届きけり

       南無大師遍照金剛 男郎花                 経糸に緯糸 蝶の生るる夢

       眼つむれば 寒林に人 ひとりなく             黒衣の背行きてありけり 棟咲く      

       廃園の薔薇の主はいづこにや               ダリア咲く 母の明るき朝の声

       銃声を返す汀の薄氷                      寒月や神殿まさに鎮まれり

       扇売る店(たな)より紅葉散り止まず       春風や塔にはるけき心かな

       萩揺れて影添ひ揺れる ショパンかな          結氷の寸前にして底見ゆる

       寒中や蹂躪の胸燃え始む                  寒月や流竄の帝の一首かな

       人国記 挿絵に一枝寒椿                   立葵 伊勢の神楽が来て舞へり

       たゆたへる晩春午後の艀かな                カタログの第一頁 ヒヤシンス

       漁火や彼方恋しき燧灘                      寒月や命(みこと)まし坐す階段(きざはし)に    

       百日紅 母の笑みある誕生日               鉋屑 葉月の火照りより菩薩

       少年のソプラノ聞こゆ 寒北斗                楠若葉 終末論に叛旗かな

       八月や畳に兄の昼寝かな                  炎天に先導の巫女 しづ しづ と

       蒼天に鳴る寒風や立志伝                   朧夜に忘れ去られし三輪車

       駅までのジョギングコース帰り花               半身を冬陽に染めて汝がピアノ

       木琴の春の童謡家内より                    凍蝶の声なき声を聞きにけり

       現身や病院脇の桜かな                     グッバイは明るし さくらの散りゆける

       花冷えや昨日のピアノ聞こえ来ず              稲の香や月明を得て父帰る

 俳句は短歌より派生した連歌を経て、その発句五七五に表現の世界を発見し生まれたもので、俳句の五七五に七七が加えられて五七五七七の短歌が出来たのではない。これは短歌や俳句をする誰もが承知していることで、俳句があって、それが短歌に及んだのではなく、短歌と俳句の間柄は、短歌の世界から俳句の世界が発見された経緯による。言わば、短歌と俳句は深い関わりを持つが、両者の関係からすれば、短歌が基の引き算によって俳句が成立したことが言える。

                                                       

 私の場合、短歌の実作が先で、俳句は短歌より随分遅れて作るようになった。短歌の実作に当たっては、ときに、前句の五七五が俳句の形をもって出来上がり、下句の七七に短歌的抒情を担わせる形で一首をまとめるという歌の手法を採ることがある。そのときは七七が蛇足のように思われることもあって、こうしたとき、私には俳句表現の方が自分の心持ちからすれば、納得されるということがあって、俳句の世界にも興味が持たれ、俳句にも及んだのが経緯としてある。私のこうした実作的感覚からして言えば、短歌の下句七七というのは、短歌を抒情詩たらしめる十四文字であると言ってもよいように思われるところがある。もちろん、すべての短歌に当てはまるわけではないけれども、そう言える。

 例えば、「詩魂問はば白鶺鴒を逆光に」も「倒さるる家の隣りの白木槿」も私の最も初期の句であるが、よく見ると、短歌的な句であるのがわかる。これをもって「最も俳諧に遠く、また句になりにくい題材を――」と評されたが、これは短歌から俳句に入ったことによる現れであろう。評者の慧眼に頭が下がる思いが今もある。「詩魂問はば」の句に「思へば胸の中に高鳴る」の個人的心情の抒情的表現の七七の言葉を加えれば、即ち、短歌になる。「倒さるる」の句にしても、七七に「ともにありしは心に残る」の語句を加えれば、これも抒情の短歌になり得る。

  所謂、俳句は短歌より生まれた俳句の世界の表現であるが、短歌から俳句に及んだ私からすれば、伝統的定型短詩の短歌と俳句を別次元の詩と見なすことには抵抗がある。言わば、五七五に七七の加えられたその表現の七七に深い意味があるように私には思われる。逆に言えば、五七五七七から七七を切り取った俳句があるわけで、これは実に不思議であるが、おもしろいと言ってよい。写真はイメージ。シュロの花と紅葉。 続く。

 

 

 


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2014年10月03日 | 創作

<1125> 「 斑 鳩 の 四 季 」

      三塔を 巡る斑鳩 うるはしく 四季はあるなりそれぞれにして

                                          (春)                                                   (夏)

                                菜の花 蓮華 咲き満ちて                                            田植えの後の 早苗田に

                              ひばりがあがり 鳴いている                                     つばめすいすい 飛び交いて

                              ひねもす霞む 空のなか                                     田面(たのも)に映る 塔の影

                              うららな うららな 春の日に                                    さやかな さやかな 夏の日に

                              巡れば うるわし いかるがの里                             巡れば こよなき いかるがの里

 

                                   (秋)                                                    (冬)

                                 コスモス咲いて 稲穂垂れ                                      穫り入れ終えた 田は広く

                               赤とんぼ飛び 虫の声                                        すずめ群れ来て 遊びいる

                                 日差し明るく ここちよく                                        いにしえ人に こころ寄せ

                                 のどかな のどかな 秋の日に                                    ほのぼの ほのぼの 冬の日に

                               巡れば さやかな いかるがの里                                 巡れば 楽し いかるがの里

              

                  (春)             (夏)            (秋)             (冬)

  これは「斑鳩の四季」と題する童謡の歌詞として試作したもの。写真は左から春夏秋冬、四季の斑鳩の里(後方は法起寺の三重塔)。


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2014年09月06日 | 創作

<1098> 野良猫三吉の考察

        人間の人間にして人間の人間を問ふ人間の声

 久しぶりに猫殿の登場を願おう。以下に述べるところは、吾輩ふうたの親友、否、悪友かも知れない野良猫三吉の思い巡らせているところのものである。野良猫といえども、人間に接してこの世に生を得ている猫であれば、人間に影響される存在である。だから、人間に関心を寄せるのは当然と言える。野良猫は何ものにも束縛されることのない自由な身であると思われがちであるが、自由は自由で、それはそれなりに厳しい事情がついて回る。猫の身であっても、霞を食って生きているわけではなく、ときには、鯖の頭を丸かぶりにして思う存分食ってみたいと思うこともある。

  しかし、人間の世の中が厳しくなると、それにつれて、そんな望みは叶うべくもなく、遠い昔の親の親のそのまた親の時代のこととして、幻と言っても差し支えない。それどころか、そこそこに食って行ければというのも怪しくなっているというのが昨今のご時世、野良猫の事情と言ってよい。だが、そうかと言えば、人間同様、否、人間以上の暮らしをしているセレブな猫も中にはいる。言わば、人間に付き合わなければならない猫の世界にも、人間の世界と同じく、格差というものが生じて来ている。今日は、この格差のことについて、三吉の思い巡らせるところを聞いてもらうことにする。

                                                               

                                              *                                             *                                            *

 紹介に与かったふうたの親友三吉という猫です。ふうたが自分のことを吾輩と呼んでいるので、こちらはふうたに見捨てられた小生という言い方で参りたいと思います。早速ですが、小生は近くの公園を住処にして、やさしい心根の何人かのお計らいにより、まあ、何とか命を繋いでいる身ではあります。当然のことながら、小生のようなこういう身の上の猫に対しては厳しい御仁もおられることはお察し願えると思います。猫には実に住み難い世の中になっているのが実情でございます。

  これは私のこういう立場にも関わっているのだとは思いますが、人間社会も厳しく難しいところに差しかかっているということで、その人間社会が大きく影響していると思われます。ということで、猫にとって人間が暮らしている環境というのは大いに関係することですので、ここで日ごろ小生が気づき考えを巡らせていることについてお話してみたいと思う次第です。ふうたの考えもなかなか辛辣で、侮れませんが、小生にも考えるところがあります。今日はその一端を時事的問題をあげてお話してみたいと思います。

                                     *                                             *                                            *

  鷗外先生は『高瀬舟』の中で 「人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄(たくわえ)がないと、少しでも蓄があったらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。かくの如くに、先から先へと考えて見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない」と言っています。

 これは生きる上における人間の欲求というものが際限のないことを言うものですが、欲求には個々に等差のあることも言っているのがわかります。これを平均的人間集団に当てはめることも出来ると小生には思え、ここにとりあげた次第です。というのは、このほど、国政において地方創生ということが国の政策として打ち出され、担当大臣も置くということになったからです。言わば、日本というのは東京一極集中がどんどんと進んで、地方が疲弊状況に追いやられていのが現状です。この現状認識に立って地方の活性化を目的に出された政策の一端がこの地方創生の政策だと思われます。

 東京のみが日本ではなく、如何に集中し、首都として機能していても、東京は日本の一部にしか過ぎません。もちろん、ほかの市町村にも言えることで、その一部一部の細部をもって日本の全体は成り立っています。このことからすれば、地方創生はバランスの取れた日本創生ということになります。だが、猫の身ながら、この掛け声が東京一極集中の隠れ箕にならないかということが気になって来るのです。

 小生が『高瀬舟』の一文をあげたのは、この地方創生に思いが行くからです。東京人と地方人にはかなりの実質的並びに意識的格差が生じています。この格差は『高瀬舟』の一文が語る例を引用して言うことが出来ます。その例で言えば、地方人は「その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う」という立場にあることが言えます。それほどではないという文句が出るかも知れませんが、慎ましく日々の生活を送っていることに違いはなく、そういう立場にあります。

 これに対し、東京人というのはどうであろうと想像するに、「蓄(たくわえ)があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う」というところに生活の状況があるのではないかと思われます。政府は株価の上昇を景気のバロメーターにしているようですが、食うことに精一杯の地方人には、言わば、無縁な話で、この政策は東京人を標準にしたものであることが言えます。このように、日本というのはかなりの地域格差が出来上がっているということになります。

 然るに、遅まきながら国政において地方に目が向けられることは、日本の将来にとってよいことであると思われますが、地方創生をどのような意識をもって行なうかが、重要に思われます。「その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う」状況に対し、「蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う」状況にある立場の人間が対処に当たれば、実情に理解が及ばず、政策に身が入らないということになるのではないかということが懸念されることになります。それは意識において他人事になるからです。その例は、これまでも見られて来ました。沖縄然り、福島然りではないかと思います。

 小生などは、ときどき近くの商店街をぶらつくことがあるのですが、シャッターを下ろしっ放しの店が何軒もあり、この状況にこれも時代の趨勢かと思われ、悲しくなります。しかし、もっと田舎の山間地などに行けばその状況は酷いことになっているところが幾つもあるという具合で、情けないことですが、そんな状況を聞き及ぶ昨今です。

 まあ、そういう具合で、地方の疲弊に対処しなければならないと、政府が重い腰を上げたのはよいとして、そのやり方が、優遇されている中央人のアイディアに従って主導されるような地方に愛情の湧かないおざなりな政策が推し進められるとすれば、地域的格差はいよいよ大きくなって、日本全体のマイナスにこそなれ、プラスにはならないことが思われるところで、政策者にはこのことを肝に銘じて地方創生の実行に当たってもらいたいと、猫の身ながら思う次第であります。

                       *                              *                              *

 以上が、地方に身を置く野良猫三吉の世の中を見聞して思い巡らせるところである。では、三吉に代わって今一首。 虎児を得ん ためには虎穴に 入らずんば ならぬを思ひ 知るべくあるべし 諸兄諸氏にはどのように思われるであろうか。 写真は左が三毛猫のふうた。右がふうたの親友、雉猫の三吉。


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2014年08月03日 | 創作

<1064>  掌 編 「祖 母」 (1)

      祖母(おほはは)の背にて見しかな 温もりの心の中の夕茜雲

 終戦当時、つまり、私の幼年のころは大方の家が大家族で、私の家も八人家族だった。祖父母が離れで寝起きをし、父母と子供たち四人が母屋で生活していた。子供は上の二人が女、下の二人が男で、私は末っ子だった。よく熱を出す子で、あまり丈夫ではなかった。四人はほぼ三歳違いの間隔にあったが、母は上の三人の面倒をみなければならないことがあったからでもあろう。私を祖母に預けることがしばしばで、私には祖母の子守りで育ったようなところがあり、祖母との関わりが多く記憶にある。

 熱は冬ばかりでなく、夏場にもよく出た。出始めは四十℃近い高熱になることがしばしばで、それが二、三日で収束すると、今度は三十七℃前後の微熱が十日ほども続くということが何度もあった。医者はその都度、扁桃腺炎という診断を下したが、そういうのが私の幼年時代から少年時代にはずっとあり、熱が出たときは家族をひどく心配させた。このため私は姉や兄よりも祖母との関わりが深かったと自認している。

 祖母は腎臓に持病があり、丈夫ではなかったこともあって、熱を出すことの多い私によくしてくれたのかも知れないと大人になってから、ときにそう思うことがある。祖母は私が高校一年のとき、この腎臓の病が高じて尿毒症を併発し、七十歳を前に亡くなった。家の裏は瀬戸内特有の丘陵地が低い山に繋がり、葡萄畑が一面にあって、その葡萄畑を縫うように登って行ったところに、村人から「おぎおんさん」と呼ばれる祇園社の小さな祠のような社があった。こんもりと繁った照葉樹の中にあって普段は忘れられたような社であったが、祖母は私を連れてその社に何度か出向いた。

 五十センチばかりに切り揃えた篠竹に半紙の四手を垂らした幣を作り、これを携えて、この祇園社に赴き、供えたのを覚えている。これは後年になって知ったことであるが、祇園社に参るのは、祇園社が須佐男之命を祀る社で、私が丈夫でなく、直ぐ病気に罹るので、須佐男之命の崇によるものではないかという祖母の信心から発したという。

 どちらにしても、丈夫でない自分や孫のために、また、一家の安泰を願って、祖母の祇園社詣ではあったのである。祇園社の岡からは眼下に村の集落が一望出来、そこからの俯瞰する風景が幼い私の目には新鮮に映った。それが今も何となく思い出される。私が幼いころは、私がぐずぐず言い出すと、祖母が私を背負って外に出て行くというのが習いになり、ときには、荷物をうず高く積んだリヤカーを引くぼろ買いの男に遇ったりすると、子盗りに連れて行かれると言って、私を怖がらせたこともあった。そうすると、私のぐずぐずが止まることを祖母は心得ていたのである。

                     

 背負われて外に出ると、祖母のふっくらとした背中の温もりと、揺られ心地のよさから家に戻るころには眠ってしまうということが多かった。そんな祖母の背で見た夕空の茜雲は今も幻となって私の心の奥に残っている。それは稲が穂を出す前の晩夏の季節だったと私は思っている。

 そんな私に、もらい受けたいという話があったことを後年知った。子供のない家が、家を継がせるので私をくれないかという話だった。大きくなったら嫁さんを迎えて家を継がせたいという条件付きだったという。悪い話ではないと、父母は気色立ったようであるが、「それはならない」と祖母が強く反対した。反対の理由は次のようであったという。

 まず、私を他所に出さなければなほど家の中が逼迫しているわけでないこと、それに、幾らよくしてくれる家でも、両親に勝る愛情が受けられる保証はない。幼くして出される子のさびしさを思えば、出す気にはなれないだろうということ。そして、私がよく病気になる丈夫でない体質にあること、このことが一番の心配であること。で、この子(私)の幸せがこの家にあって、姉や兄とともに大きくなることをおいてないこと。また、兄に何かあった場合、この家はどうなるのかということ。それに、本人の意志なく勝手に他所さまに行かせてよい法はないと、こういう理由を並べて反対したのであった。

 祖母は末っ子の私を殊に可愛がっていたことにもよるだろう。しかし、反対の理由は理路整然としてあったので、祖父もこれに同意したため、父も母も祖母の意見を入れたのであった。父母には私を養子に出すこともやぶさかでないという考えであったようだが、この問題は他家の事情によるもので、私たちには、もらわれて行く立場のこの子(私)のことが一番で、一番いいのは私を出すことではなく、私たちで育てることだということでこの話はないことになったという。 写真はイメージで、茜雲。     ~次回に続く~

 


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2014年05月23日 | 創作

<992> 童話 「お薬師さん」  (2)

       叶はぬも叶へらるるもそれぞれがそれぞれに抱く悲願と祈願

  それから半年ほどが過ぎ、霧の深い朝、やはり、堂守のおじいさんはこの日も掃除に取りかかる前に薬の壺を確かめるべく蓋を開けた。すると中に黄金色の仏像が入っていた。お身拭いの日以来だったが、仏像は以前に比べるととても綺麗になって黄金色に輝いて見えた。おじいさんはこの黄金仏を壺の中から取り出し、今度こそ誰にも渡すまいと思い、懐に入れて自分の家に持ち帰った。おじいさんは懐から小指ほどの仏像を取り出して掌に載せてしげしげと眺め、小さいのにずしりと重いのを改めて感じた。

  それから、おじいさんは毎晩この仏像を枕許に置いて寝た。すると間もなく、心の奥の方で、「お前一人のお薬師さんでねえ-ぞ、返せえー」という声がするので、仏像を家に持ち帰ってからあまり気分よくなれなかった。そのうち、寝床に入ってもなかなか寝つかれなくなって、ある晩また、心の奥のどこかで「お前一人のお薬師さんでねえ-ぞ、返えせー」という声がした。そして、その日、おじいさんは明け方近くになって夢を見た。

                                                         

 母の病気が早く治ってほしいと願う蜂が一匹お薬師さんを尋ねて遠路はるばるお参りに来た。しかし、遠くから休むことなく来たので、お堂に着くと力尽きて死んでしまった。すると間もなくそこに雛罌粟の花が一つ咲いた。蜂の母親はどうなっただろうと思っていると、雛罌粟の紅い花びらが一つはらりと散って、悲しいような声が響いて来た。「お前一人のお薬師さんでねえ-ぞ、返せえー」という心の奥でするあの声と同じ声だった。おじいさんははっとして、夢から醒め、仏像を返さなくてはならないと思った。

  次の朝、おじいさんは黄金色の仏像をお薬師さんの薬の壺に返し、蝋燭に火ともして線香を立て、お薬師さんに掌を合わせた。お薬師さんは以前にも増してふくよかなやさしい顔に見えた。大和の薬師寺には立派な薬師三尊がおられ、あそこには全国からお参りが絶えないが、あの丈六金銅仏、薬師瑠璃光如来の瑠璃光の一分を頂いてお薬師さんの悲願は村の一隅を照らしておられる、と、おじいさんはそう思い、それから、いつものように朝の掃除に取りかかった。

  おじいさんは庭を掃きながら、ふと、敷石の上で死んでいた蜂のことが思い出された。あのときは、どうという感慨はなかった。ただ掃き捨てるにはばかられただけのことだった。だが、今日は違うと思った。どのような訳があって、蜂はあそこで死んでいたのだろうかと思われた。そして、夢の中のことはあのときの光景に導かれたに違いないと思われ、あの蜂の小さな一つの命でさえその真の姿を掬い得ない自分がいて、お薬師さんの慈悲の姿があると思われた。 

 それからもおじいさんは堂守を続けたが、お参りに来る人たちに、この不思議な話をして聞かせ、お薬師さんの薬壺の中に黄金色のお薬師さんが入っていることも隠さず話したので、村ではいつの間にか、薬壺の小さな黄金仏をお薬師さんの子と見て、お薬師さんを「子持ち薬師」とか「子守りのやくっさん」と呼ぶようになり、薬師堂は年寄りだけでなく、老若男女みんなが立ち寄るお堂として、親しまれるようになったということである。写真はイメージで、雛罌粟の花と薬師寺の薬師如来坐像の尊顔。  ~おわり~