大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年07月08日 | 創作

<3099>  作歌ノート  悲願と祈願   (八)

                山頂はまだまだ遠し風が告ぐ「汝のいまは五合目あたり」

 <成果が認識出来なければ、無念が残る>

   遠くから憧れをもって眺めていた山頂は、山に入るにつれて見えなくなった。それとともに、辿る道は険しさを増し、登るにつれて山は深くなって、いまどの辺りを登っているのか、それも定かでなくなった。気分はすぐれず、疲れも出て、休もうか。いや、もう少し頑張ろう。そう思いながら登っていると、急に視界の開けた見晴らしのよい尾根筋に出た。五葉躑躅の古木が散見され、「ああ、ここまで登ったか」と、眼前の眺望に、歩を止めて、持参の水をぐいっと飲んで、一つの成果を噛みしめた。

             

 一息入れた後、また、心を励ましつつ登りに向かった。この尾根筋からもなお頂きは見えなかった。それは山頂までまだ相当の距離を登らなければならないことを物語る。急変する空模様でもなかったが、いかなるわけか、風が帽子を飛ばさんばかりの勢いで吹き始めた。風のあるのは登る身にありがたい。が、これ以上吹かれては困るというほどの強さになった。私は飛ばされそうになった帽子を抑えながら登りに向かった。樹林帯であったそれまでと違って、道は急に岩肌が多くなり、勾配も険しくなった。その急勾配の突出した岩場に差しかかったとき、ふと、風がものを言った。

 「汝のいまは五合目あたり。汝のいまは五合目あたり。まだまだ遠い道のりだ」と。それは、当然のこと風の悪戯だった。で、なお、頂きをめざして歩を進めた。尾根筋の見晴らしは気分のいいものだったが、ウイ-クデ-のためか、その見晴らしのいい視界に人一人見えないのが不安を抱かせた。それでも、登ると決めたからは引き返すわけにはいかない。で、また、一歩一歩山頂に向かって歩いた。

 それから小一時間ほど歩き、また、尾根筋を逸れてつづら折りの登りに差しかかった。と、そのとき、目線の彼方に何かが動いた。鹿であった。鹿は十メートルほど走って立ち止まり、振り返ってこちらを見た。五十メートルほどの距離。親しみを込めて手を振ってみた。だが、鹿はじっとこちらを見て何の反応も示さなかった。しばらくして、何を思ったか、急に駈け出し、斜面を斜めに下って見えなくなった。

   鹿のお蔭で、気分が紛れ、また、登りに向かい、つづら折りの途切れた辺りに差しかかり、都笹の繁る反対斜面に出たところで、また視界が開け、遠くに山頂が見えた。道はその笹原の中にあった。暫く歩いて、山頂の裾に取っつき、橅や唐檜の樹林帯に入り山頂が意識された。と、そのとき、「一歩一歩、無心に登れ」と。今度は橅の陰から石楠花がものを言ったように感じられた。胸の中には「歩歩到着」の言葉があった。目的の小一葉蘭は花を咲かせているだろうか。 写真は山道よりの眺め(左)と小一葉蘭(右)。


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2019年09月11日 | 創作

<2804>  作歌ノート 見聞の記    見聞の記  

    この身ここいま刻々と過ぎゆくに生まれんとする身の丈の歌

  斎藤茂吉の歌集『赤光』の「死にたまふ母」の絶唱一連中の一首に次のような歌がある。

      死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

  この歌について、塚本邦雄は『茂吉秀歌「赤光」百首』の中で、「遠田のかはづ天に聞こゆる」の本歌の話に到って、この本歌とされる明治三十八年の三井甲之の作「道おほふ細竹(しぬ)の葉そよぎ風起り遠田の蛙天(あめ)に聞ゆも」について、「紛れもない本歌とする説などもあるが、このやうな本歌こそ取られたことを光栄とすべきだし、蛙の声の天に谺する様などあへて倣はねば歌へぬものでもあるまい。母の死の近きを天に告げてゐるやうな、切切たる蛙の声を詠んだか詠まなかったかが問題なのだ」と述べている。

 この鑑賞譚は、「天に聞こゆる」かはづの声が他の歌に倣ったものとしても、母の臨終の床に寄り添いながら聞く茂吉の感性が掬い得た実感ゆえこの歌を高らしめ、絶唱たらしめていると言っている。つまり、これは茂吉の感性が捉え得たものであり、茂吉でなければ表現し得なかったという点で、茂吉の個性が発揮された歌と言え、塚本はこの歌に本歌の論議など無用なことだと言っているのである。

                                            

  この歌の一連にはほかにも「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり」や「ひとり来て蚕のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」というような小さな生き物に触発されて、そのときの心情を詠んでいる。これらの歌は他の歌に倣って詠んだものではなく、茂吉の個性の顕現にほかならず、いつまでも瑞々しく、読む者に感動を与えるということを塚本は敢て言っているのである。とともに、感性が短歌の機軸にあることをも暗には言っていると知れる。

  という次第で、「見聞の記」の歌に立ち帰れば、感性は父母より授かった血筋である天与の気息と生まれてこの方の環境によって育まれてある心の有り様からなるものであると確信される。言わば、私の歌は、私の気息と私を取り巻く環境に育まれた感性の働きに負うということが言える。では、続いて「見聞の歌」二十首。 写真はイメージで、夕闇に騒ぐ鴉の群。

      誘はれて出で来しものら見上げゐる八面玲瓏梅の花咲く

      恋歌五首解けど解けざる三月の今宵誰かの高鳴るピアノ

    かたはらに咥へ煙草の男ありビルの峡にはうすべにの月

    街に降る雨にも春の兆しあり夢か現か汝が思ひ

    出雲路のポスター駅の雑踏に顕ち魂の旅を誘ふ

    蒼穹を斜めに過りゆきし鷹何を望める若さか鷹は

    水槽の金魚も壁の絵の中の少女も黙しゐるなり真昼

    踏切に通過電車を待つもののそれぞれの背に葉桜の影

    百合一茎花粉を零しつつ匂ふダ・ヴイ ンチ論を聞きし六月

    雑魚寝する若者たちの犇めく身慮れば英雄の眉

      赤々と誰が放ちし野火か燃ゆ判らぬゆゑは疑念となりぬ

    千の声いや万の声灯火を得て一本の輝くツリー

    夕闇に輝くツリーひもじさを温めてゐる心もあるよ

    枯色の街を映せるウインドーポストモダンのごとく立つ犬

    誘導灯点綴するは誰がためか夢夢夢のその先へ夢

    何をもて不吉となすや常ながら鴉は野辺の夕空の中

    びしょ濡れの自転車あまた人類の延命嘆願駅裏通り

      起重機の動くあたりに人二人天地の間(はざま)思はしめつつ

    大鴉ふわりと飛びし識閾の一景にして冬の夕空

      これやこのたとへば書店一つにも人の思ひが犇いてゐる                                                ~ 続 き ~

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年01月31日 | 創作

<1244> 信濃永遠

       そこここに思ひ点せし君ゆゑに 花と山との信濃永遠

     早春の信濃の朝の大気感 眩しき雪の嶺の連なり

     人の手の温もりなども思ひしが信濃の旅の早春の朝

       懐かしく思ひ出すなり雪嶺と雪嶺色のやうな昼月

       稜線の起伏を辿る眼あり声をともなふやさしかる声

       一本の白木の道標 嶺を指し歩きしことも信濃なるかな

       花あれば花に歩を止め目に入れて行きし二人の信濃なりけり

       スト-ブの赤々と燃えゐたれるに信濃はありき 連嶺のフォト

       夏蜜柑置かれし窓辺 思ひ出は信濃の旅の夜汽車のあかり

       信濃への旅の夜汽車の薄明かり蜜柑一つを分かちあひたり

     青春の一頁なる信濃路は夜汽車「ちくま」のほどよき速さ

       樹の高さ梢を渡る風の鳴り信濃の夏の季の輝き

       美しき花のあたりに聞きし声 恋しくありし信濃路の旅

       辿りゆくその先々の期待感 思へば信濃の駅の名なども

       しばたたく眼が遥か辿りしは稜線まさに遥かなるもの

       君の背が木々の間を軽やかに行きUFOの形の夏帽

       君と我が行き帰りなる夢の中 山独活の花咲きしなりけり

       眺望は眩しく君の眼差しも 穂高の嶺の連なるあたり

       雲よりも雪渓よりも眩しかる信濃の旅の君が夏帽

       信濃には何が似合ふか 問ひしとき 君の夏帽輝きにけり

       青春歌ありけるところ 夏帽を点睛として君の信濃路

       万緑に輝く羽毛 寸刻を旅す信濃の君が夏帽

               信濃路を君に山の名訊きながら歩きたくゐし思ひの一日

               夏帽を心に点し訪ひ行かむ 二人のための記念樹の丘

                               

  ここに掲げた「信濃永遠」二十四首は、二十歳前後、憧れの信濃に思いを馳せて旅した青春真っただ中の恋歌という設定である。信濃にはそれほど頻繁に訪れているわけではないが、北アルプスをはじめとする連嶺の爽やかな印象が四季を通じて私の心の中に一つの大きな存在的風景としてある。ここに掲げた一連の歌は、この青春の浪漫的風景に触発されて生まれたものと言える。相手は若くして世を去る設定であるが、冒頭に掲げた題詠の「信濃永遠」の歌は忍恋の永遠性を意識に置いて作ったもので、それは生涯のひととなる偲ぶ恋にも繋がる恋の一典型という心持ちによる。 写真は初夏の北アルプス穂高連峰。

 

 


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2014年10月18日 | 創作

<1140> 続々・自作五十句  (<1138> よりの続き )

           祖(おや)の智をゆらりと掬ふ湯葉の夜                  花水木青空渡る応援歌

         遅桜洛北便寄恋                                   道は草 墳墓に尽きて 繁る夏

         花桐を先がけとして峡(かひ)に入る                     帰るべし魂を得て鰔の目          

         旺盛に茂る古墳の緑かな                            時雨るるやひとり深夜の湯につかる

         蛇逃げて兜子と分かつその姿                         蛇の衣こころも濡らす午後の雨

         神経に蛇の赤舌襲ひ来る                            神経にちょろりちょろりと蛇の舌

         蛇の衣ありて我が身と兜子の身                        虚を虚とし楽しむ春や片笑ひ

         深閑と水澄み切りし寒さかな                           額の父人来て帰り蝉の声

         北国の便りとともに冬が来る                           春はまた夢殿までのうららかさ

         嬰児(みどりご)と春雨小雨の一日なり                    行く声も堂宇の秋の冴えにあり

         巡る春この身は見えぬものばかり                       月冴ゆる父の痩身三回忌

         壮年の父がゐませり麦の秋                            柿若葉寡黙の父へ母の声

         蝉鳴いて茶碗坂より清水へ                            夢殿へ春告げに行く歩速かな

         春雨や飛鳥板蓋宮の跡                              子規の句の数句に足りて九月過ぐ

         子規に二万我に一句の九月尽                        陽光の斜めに射せる冬の海

         物干しの辺りさびしき冬の午後                        初時雨 富小路の扇店

         夜汽車ゆき車窓に人の見ゆる春                       父危篤 秋の播州路を急ぐ

             青林檎一つ地に落つ意識界                           雨もよし雨傘もよし牡丹寺

         家内に灯ともれり雪こんこ                               老母(はは)と寝てつつじの山を歩く夢       

         全山の紅葉を胸に湯船かな                           菜の花や堤を駈ける子等の声

         風一過茅花輝きまた一過                             春寒や反論を胸に抱き寝る    

         鎌倉の青水無月に巫女の額                          叡山は時雨ゐるなり京五条

         秋の夜の妻の電話の訛りかな                         一本の樹が曳く影の晩夏かな  

         千金の書の一頁朝桜                                冬ざれの鉄錆色の町へ来ぬ

 『第二芸術』の論への対論で見れば、俳句の五七五は小説のように人の心理を探って表現する人事を司る詩形にはなく、また、短歌のように自己の心持ちから来る抒情を表現する形式でもない概ね自然との関わりを主眼にした詩形であることが言える。そこで、その関わりを表現するのに写実が言われるところとなり、正岡子規のような意見も登場して来た。子規は写実とその対極にある観念を空想と言って、写実を入れ空想を排斥した。で、短歌でも写実に心入れをし、直截な表現による『万葉集』を採り、観念的な『古今和歌集』を否定したのであった。

 つまり、ものを忠実に見聞きして表現することを作句の基本として推し進めて行ったのである。だが、この論の真意が聞く者に十分伝わったかどうかについては不明である点が思われる。完璧な写生は象徴たり得ると思うが、芥川龍之介が『侏儒の言葉』で言っているように「完全に自己を告白することはなんびとにもできることではない」というのと同じく、写生において物の内実まで完璧に見聞することは極めて難しく、ほとんどの観察者はありきたりの写生で妥協し、写実の実に及ばないところで作句するということになる。そういう実践の現実では、子規が理想とした写生論は安易に流れ歪められることになって、作品の評価を低くすることになる。

                                                                    

 子規の写生論は空想に走らず、素直にしっかりものを観察することがよいとするわけであるが、この子規の写生論ではもの足りず、修正をして深めたのが、アララギ派歌人の斎藤茂吉で、「実相観入」という言葉を用いて、物ごとの内実に迫るべきであるということを主張した。子規の考えもここにあったのではないかと、その実作等と写生論を比較して思われるところがある。この実相を探るには探る側に何かがなければ探り得ない。これは梅原猛の『古典の発見』の言葉にある通りで、松尾芭蕉は歴史に造詣が深かったので、当時誰も成し得なかった歴史に関わる句を残し得たということが出来る。

 子規は空想ということを嫌い、排斥してかかったが、空想を主観的観念と捉えるならば、俳句の立場から見て理解されなければならないということが、芭蕉の句作の実践を辿ればわかる。つまり、主観なくして作品の成り立たないことをして言えば、芭蕉の作句のあり方が作句者としては自然体であることが言えそうである。俳句において写実と空想については、どちらに重きを置くかであって、空想を完全に排斥してかかることは作句者の個性を否定することに繋がるわけであるからよくないと言ってよい。結論的に言えば、俳句に写生は極めて重要なことではあるが、主観たる作句者自身も自分というものを高めてかからなくてはならないことが梅原の言葉からしても言えると思う。 写真はイメージ。茅花と紅葉。 続く。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年10月16日 | 創作

<1138> 続・自作五十句  (<1135> よりの続き )

                梅雨寒や怨念説の耳朶に絡む                         山桜点睛のごと咲きにけり

         恋ひ恋ふる心潜むや 吾亦紅                           西日射す軍人墓の女郎花

         月冴えて先の世へ飛ぶ三輪車                         花火あがり一つの記憶胸に顕つ

         破塀の奥の闇より沈丁花                              五月雨が甍を濡らす本能寺

         秋深し我がナルシスは独りなり                          朝桜近江へやりし心かな

         菜の花の一群(ひとむら)ありて遠野かな             恋しけれ伏見深草相深町

         開け放つ堂宇より見し黄落期                           病老死 病棟脇の白木槿

         花楝 祖父の天寿に咲きし花                           にはたづみ 姉と跳びたる少年期

         抒情詩と辛夷の花の信濃かな                           巡行のはてたる町の日照りかな

         夜の蝉 中也の祈り祈らねば                            千屈菜や祖父の腕に濡れし花

         楠若葉 祭礼の人 艶やかに                            蝉時雨堂宇の奥の坐像かな

         送り火や五山に思ひ馳せし記者                         大文字人の背越しに見しは去年(こぞ)

         生命を思へば厨に秋の蟻                              茜雲祖 母の背に見し幼年期

         北斗冴え 寒林まさに極まれり                           茶の花や父の寡黙と卓の冷え

         野は緑どこへの帰り献血車                              半夏生 堂宇に続く道静か

         転勤の挨拶状や藤の花                                機関車の情調走る冬野かな

         寒き夜の外面に母の下駄の音                           雲雀あがり大和三山霞みゐる

         ひばりひばり汝の大和平野かな                          アカシアの花咲きゐたるボート祭

         鯉の背にひらひら散りゆく桜かな                          みづすまし水の上なる世界観

         図書の山 限界説のありし夏                             青紫蘇の口中の香や壮年期

         ほととぎす言外の闇 引き絞る                           この世観 我が死の後も百合匂へ

         端正にピアノありけり 青葉光                            クライバーン聴く初夏や句のひかり

         紅葉のひとひらごとの水の冴え                           秋はよし 祭り日和を訪ね来よ

         グラジョラス花の音階姉の声                             鯉幟 そらみつ大和平野かな

         恩師逝き父逝きひとり晦日蕎麦                         三輪の春 紅を引きたる児らが行く   

                                                                             

 五七五の世界を確立した俳句は季語という一つの決まりごとを定め、無季俳句を目指す御仁もいるけれども、この季語に基づいて句を仕上げる習わしを採った。これは俳句が四季を念頭に置いたからであるが、四季というのは日本の自然を意味するもので、要は自然に寄って句作を行なうことを基本にしたことによる。言わば、個人の抒情質を抜きに、自然に重きを置いて、そこに句の世界を展開することを目指した。所謂、俳句の表現領域は自然の世界観を主にするもので、俳句はそこに軸足を置いて展開されて来た。

 このような観点から、俳句では自然の観察が大切であるという認識に沿って自然を忠実に写し取ることを標榜した正岡子規の写生論なども現れ、俳句を作るため旅をするということも試みられ、芭蕉の『奥の細道』のような優れた俳句をともなう紀行文も生み出され、吟行という活動も俳人などの間では行なわれて来た。そこでは自然と向き合うことが必然的に求められ、今もこの点においては大筋のところ変わっていない。

  戦後間もなく出された桑原武夫の『第二芸術』の論が、俳句に対し、「俳句の取材範囲は自然現象及び自然の変化に影響される生活である」という水原秋桜子の『現代俳句論』の見解を引用しながら「人生そのものが近代化しつつある以上、いまの現実的人生は俳句には入りえない」と主張した点を考えると、これは、自然への関心が薄れて来た現代の一面において、当を得ている論のように思える。だが、これは少し早合点に過ぎると言ってよいのではないか。というのは、自然と乖離したようなところで成り立っている傾向が見受けられる現代の環境下では、却って自然に立脚する立場の俳句の重要性が思われて来るからである。

  つまり、自然を蔑にして進み行くような現代においては、自然への認識の重要性が、科学技術の進歩による利便や物質的豊かさの中で、見直されなくてはならないからである。この見直しを重視する傾向が、現代の状況にはまたの一面として現れ来たっている。例えば、自然災害や科学技術の盲点、あるいは、西欧文明による生活の変化の中で日本人が矛盾や抵抗を感じていることがあげられ、自然への関心が高まっていることがある。このような自然に立脚した立ち位置による考え、即ち、俳句の立場でものごとを考える必要性が、現代の一方では希求され、認められるところにあり、俳句も活動の場を得るわけである。

  その活動がノスタルジーに働いて見られるものであっても、自然に立脚した俳句には光のようなものが見られる。もちろん、俳人たちのたゆまない努力が必要であるが、如何に時代が進もうとも、自然が歴然として存在する以上、自然に向かって立つ俳句の行末というものは決して暗くはない。人間は自然の中の一員であって、自然が人間の認識の中の一現象ではないことをして言えば、発句から始まった俳句の発見とその発見が意味する世界に人間の調和を模索する俳句の道はあって然るべきで、これからも必要であると思われる次第である。 写真はイメージ。藤の花と打ち上げ花火。 続く。