大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年05月22日 | 創作

<991> 童話 「お薬師さん」  (1)

         願ふこと誰にもあるを思ふなり 春ともなれば巡礼が行く

 村の辻に小さなお堂があり、中に一体の仏像が祀ってあった。仏像は檜で作られ、大人の半身ほどあって、ふくよかなやさしい顔立ちをしていた。座像であったが、左の掌に薬の壺を載せているところから、村の人たちはお薬師さんと呼び、お堂を薬師堂と呼んで大切にしていた。よく線香や蝋燭が供えられるので、煙によってお堂の中もお薬師さんも黒くくすんで見えるほどだった。

 ある朝、堂守をしているおじいさんが掃き掃除をしていると、一匹の蜂がお堂の正面の敷石の上で死んでいるのが見えた。掃き捨てるのは何となくはばかられて、おじいさんは蜂の骸を指でつまんで、お堂の傍らの日当たりのよいところに埋めてやった。すると、そこに、月日の経ったある日、雛罌粟の花が咲いた。

                         

  花は明るい紅色で、あまりにも美しかったので、お参りに来たおばあさんがその一本を手折ってお薬師さんに供えた。おばあさんにはお薬師さんがにっこりとほほえんだように見えたが、そのとき、お薬師さんが随分汚れているように感じられた。そこでおばあさんは、「一度お身拭いをしては」と堂守のおじいさんに持ちかけた。おじいさんはすぐさま村の年寄りたちにこの話をしたところ、それはいいことだということで、話はとんとん拍子に進み、天気のいい日に村の年寄りたちが集まってお堂の大掃除をすることになった。

 そこで、茅花が薫風に靡く五月の末の爽やかな晴天の日、村の年寄りたちが朝からお堂に集まって掃除に取りかかった。お薬師さんはくすんだお堂の中から日当たりのよい庭のむしろの上に運び出され、それは気持ちよさそうに見えた。葉桜になった桜が影をつくり、雛罌粟は咲き残った花がまだ見られた。

  年寄りたちはみんな代わるがわるお薬師さんのお身拭いをした。堂守のおじいさんが薬の壺を拭こうとしたところ蓋がはずれて、中に小さなものが見えた。それはだいぶんくすんでいたが、黄金色をした小指大の仏像だった。その仏像もやはり左の掌に薬の壺を載せていた。おじいさんは知らぬふりをして薬の壺に蓋をし、壺の中に仏像のあることは誰にも言わず、自分一人の秘密にした。

 掃除はみんな精を出してやったので、お堂もお薬師さんも見違えるほどきれいになった。あくる朝堂守のおじいさんは、まだ誰もお参りに来ない間に壺の中の仏像が見たくなって蓋を開いてみた。すると、中には何もなく、壺は空っぽだった。おじいさんは黄金色の仏像が目に飛び込んで来るものとばかり思っていたのでがっかりするとともに、誰かに持って行かれたと気づき、悔しさが湧き上がって来た。

 堂守のおじいさんは、壺の中の仏像が自分だけが知っている秘宝のような気分になっていただけに、それからというもの、その黄金色の仏像が忘れられず、毎朝、薬の壺を改めるようになった。そして、以前と少し人が違って見えるようになった。一ヵ月しても二ヵ月しても仏像は帰らず、薬の壺は空っぽのままだった。おじいさんは「もしかしたらまぼろしを見たのかも知れない」と、ときにはそういう思いになることもあったが、「確かにこの目で見た」という気持ちの方が強かったので、それからも壺の中にあった黄金色の仏像が気になって、薬の壺を改めることを止めなかった。写真はイメージで、ヒナゲシ。 ~次回に続く~

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月25日 | 創作

 <964> 童 話 「小鳥たちの歌声」 (1)

      春の鳥 夏の鳥 また 秋の鳥 冬の鳥 みな仲良く見ゆる

 年老いたきこりがいた。毎日山に出かけては木を伐っていたが、ある日のこと、一本の大きなけやきの木を伐ろうとしたとき、一羽の小鳥がやって来て「どうかこの木を伐らないで下さい。私の住む家があるのです。家には生まれたばかりの子がいます」としきりに訴えた。年老いたきこりは長い年月山に入ってひとりで仕事をしていたので、一日中人と話をしない日が多かったけれど、そのかわり山に住む生きものたちと心を通わせ、小鳥たちの話も多少はわかった。

 この日も、小鳥の訴えることが理解出来たので、年老いたきこりは、打ちかけた斧を止めて、小鳥がとまっている小枝を仰ぎ見ながら「大丈夫。お前さんの言うことはよくわかった。この木は伐らずにおくよ」と言って微笑んで見せた。小鳥は年老いたきこりの微笑みを見て嬉しくなったのか、辺りを飛び回って喜んだ。

 それから季節が過ぎ、雛たちはみんな大きくなり、一人前に飛べるようになった。小鳥の父親は何かにつけ子供たちに年老いたきこりの話をして聞かせた。私たちの願いを聞いてくれたおじいさんに何かお返しをしなければならないといつもみんなで話し合った。しかし、小鳥たちの力で年老いたきこりにしてあげることは何もないように思われた。「みんなで考えればきっと何かあるはずよ」と母親の小鳥が言って、またみんなで考えた。すると子供の一羽が「こんなのはどうかしら」と言って、澄んだとても綺麗な声でうたい始めた。

         おじいさん

         おじいさん

         私の好きなおじいさん

         輝いているのはお日さまで

         うたっているのは私たち

         とっておきのしあわせは

         今日のお空のようですね

         みんなと一緒に遊びましょう

 するとみんなもそれに合わせてうたい出した。「おじいさんはいつもひとりぼっちで仕事に精を出しているので、ときには私たちが行って歌をうたってあげたら喜ぶに違いない。これはいい考えだ」と言って、みんなで練習した。みんなはもともと歌が上手だったので、一時間もしないうちにうまくうたえるようになった。

                    

 そこで、小鳥たちは年老いたきこりの仕事場に出かけて行き、みんなでうたい始めた。年老いたきこりは頭上から聞こえてくる小鳥たちの歌声を聞きながら快く斧を振った。しかし、天気のいい季節が過ぎ、年老いたきこりにも小鳥たちにもいやな長雨の季節になり、雨の日が何日も続くようになった。年老いたきこりは山へ入ることが出来なくなり、小鳥たちも遠くへは行けなくなった。雨は一ヶ月も降ったり止んだりのありさまで、みんなを困らせた。

 そうして、その雨もやっとあがり、お日さまの顔を見ることが出来るようになったが、年老いたきこりは山に姿を見せなかった。小鳥たちは年老いたきこりに何かあったのではないかと心配になって、みんなで麓のきこりの家まで様子を見に行くことにした。行ってみると、案の定、年老いたきこりは病気のため寝込んでいた。小鳥たちは窓のそばに寄って、みんなであの歌をうたい始めた。 写真はイメージ。  次回に続く。

 

 


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2014年04月05日 | 創作

<945> 短歌の歴史的考察  (18)         ~ <944>よりの続き ~

        短歌には千年超の歴史あり 人麻呂 定家 啄木 茂吉

 「第二芸術」について、次に、芸術を語るに芸術の定義があいまいな点が気になるところである。定義が曖昧なまま論じられても、それは曖昧なままに終わるということで、これは、推論の結果が推論の域を出ず、推論の延長でしかないのと同じことではないかということが思われるからである。では、芸術とは如何なるをもって芸術と言うのであろうか。概念的には何となくわかるような気がするが、言葉で定義づけようとすると限りなく難しくなる。では、その芸術について、次に触れてみたいと思う。

  夏目漱石は『草枕』の冒頭において、この世は住み難いところであるが、住み難い人の世を、いくらかでも住みよく幸せにするところのものが芸術であるという趣旨のことを言っている。大くくりな定義であるが、その通りであろうと思われる。芸術作品には心を玲瓏と楽しく安らかなものにする効用がある。で、私は芸術について、普遍性と個性の現れだと定義づけている。芸術作品に存する感銘乃至感動は普遍性に属し、いつまでも新であり続けることが出来るということは個性に属するもので、芸術にはこの二つの要素が必要であると言ってよいように思われる。

 芸術にはこの二つの要素のどちらが欠けてもよくない。普遍性の最も顕著に言えるのは自然で、これについては芭蕉が言っている。『笈の小文』に「見る処、花にあらずといふ事なし。おもふ所、月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり」と。ここで言われる「造化」とは自然を言うものであリ、「花」や「月」は自然の事象である。ただ、自然は神の則るところであり、神の意志の現れであるのに対し、芸術は人間が作り出すものであり、この違いを私たちは認識しておかなくてはならない。自然は今いう二つの要素を含むけれども、私が芸術と言わないのはこの点にある。

 芭蕉の言葉は俳句をたしなむ立場から述べているもので、芸術は自然に等しく、自然を基本にし、自然に習って俳句などは作るべしということが込められているわけである。だから、これは芸術論として聞くことが出来るが、芸術だけに止まらず、科学全般にもこの普遍性は言えることで、自然とは普遍性の基盤とも見て取れるのである。

                                         

  一例を示せば、原発がある。原発は人間の知恵と利己(欲望)によってある自然を変造した普遍性に欠ける存在で、その現われを示したのが福島第一原発の悲惨極まりない事故である。にもかかわらず原発を稼動させるということは、普遍性の軽視であり、私には科学者(現代人)の奢りにしか見えない。端倪を許さない時を思うとき、この問題は芸術論に似るところで、時局に迎合するがごとくに論ずる第二芸術論に重なるのである。

 少し話が逸れたが、芸術の要件は普遍性と個性にあって、文学で言うならば、文字量の多少によるものではなく、その内容によることが言えるように思われる。いくら長い大河小説であっても、如何に時局を得たものでも、この二つの要素を満たしていなければ、端倪を許さない時の厳しい審判のうちにあっては、評価されず、消え去って、芸術でも何でもないことになる。短歌や俳句のように短い作品でもこの要件に適っていれば芸術たり得る。ただ、文字数の少ない短詩ではそれが叶い辛いところがある。だから、短歌で言えば、古来より詞華集の形で編まれて来たのである。

 短歌や俳句に芸術論を被せて言うならば、心の呟き、もしくは、感性の呟きであり、言い換えて言うならば、これまで言って来た個別、個人的おのがじしの抒情歌を基とする短歌がそこにはあるということになる。この呟きこそが短歌の短歌たるところで、これまでもこの特徴をもって短歌は成り立って来たと言ってよい。そして、私には普遍性と個性の両立が作品に認められるとき短歌にしても俳句にしてもある種の芸術性が認められるということが思われるのである。

 『源氏物語』や『伊勢物語』には短歌が登場し、『奥の細道』には俳句が登場する。源氏を読まないのは、歌人として遺恨のことであると言ったのは定家の父藤原俊成であるが、『源氏物語』には人間の綾を知ることの出来る相聞の短歌がそこここに散りばめられている。この相聞は物語の重要な役割を果たしているが、俊成はこの数々の場面に登場する歌と物語の関わりを歌人ならば学べと言っているのである。

  この物語中の短歌は、短歌が心の呟きであることをよく示しており、芭蕉の奥を辿る紀行文中の俳句にしても、俳句が自然との交わりにおける感性の呟きであることを示すもので、ともにその作品の内容にとって大いなる役目を果たしていることが言え、私には『源氏物語』も『奥の細道』もともに芸術作品であると思えるのである。そして、これは芸術のみならず、何ごとにおいても、なるべく普遍性に近づけ、なるべく個性を発揮出来るようにすることが肝心であると思える。

  長々と述べて来たが、結論的に言えば、短歌は心の呟き、即ち、個別、個人的おのがじしの抒情歌たるもので、千年以上前に遡る歴史において、やはり、『古事記』の須佐之男命の祝歌が改めて思われるのである。以上で、「短歌の歴史的考察」を終えたいと思うが、最後に短歌に思いを馳せて詠んで来た我が拙歌三十首を抄出し、次の項で披露し、終えたいと思う。写真はイメージで、紅葉の映え。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月04日 | 創作

<944> 短歌の歴史的考察  (17)        ~ <941>よりの続き ~

        短歌とはあるは心の呟きにほかならぬ言はば命の発露

 戦後になって短歌を否定するような論が登場した。これは一つの衝撃であったと思われる。この論は俳句に向けてまず発せられたもので、要は伝統的定型短詩が俎上に上げられたわけである。五七五七七や五七五の型にはまった韻律の様式は制限されたもので、この制限においては現代のような複雑な精神世界は汲み取れず、言い表せないというのが趣旨であった。そして、定型短詩の短歌や俳句は芸術たり得ず、「第二芸術」と呼ぶのがよいと言われたのであった。

 これは、戦後間もない昭和二十一年(一九四六年)に仏文学者の桑原武夫が発表したもので、賛同する詩人や学者も現われた。だが、当然のこと歌人や俳人からは強い反発の声が上がり、論が巻き起こったと言われる。私は短歌の「た」の字も知らないころのことで、この経緯についてはよく承知していないが、桑原武夫が発表した「第二芸術」と「短歌の運命」は講談社学術文庫版で読んだ。

 それによると、伝統的定型短詩には複雑な近代精神は入り切らず表現出来ないから、この定型短詩は現代には適さず、滅びざるを得ないと言う。そして、その滅びは異質的で対立的なものが忍び込んで来るとき、それをきっかけに起きると言っている。その上、学校で子供たちに学ばせる必要などないということまで言っている。

  まさに、敗戦に際し、欧米文化が入って来る状況下における見通しをして論を展開しているところがあり、時局をもって言われているのが感じられる。もちろん、仏文学者という立場によったこともあろう。だが、「第二芸術」や「短歌の運命」を読み返してみると、どうもこの論には短歌や俳句への理解に欠け、認識に乏しいことが言えるところがある。

                                       

 確かに短歌や俳句は一首または一句で複雑な全的精神を盛り込むには難しいところがある。なかには象徴手法によって一首であっても短い言葉を駆使して物語よりも深い内容の作品を目指す歌人も見えるし、また、言外に意味や情感を込めるといった手法も取られる。で、「けり」とか「かも」といった助動詞や助詞の活用によって詠嘆の表現をする方法が短歌や俳句には用いられて来た。以下の短歌はその象徴手法による歌と詠嘆の「けり」、「かも」の見られる歌で、それがよくわかる。

     日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも                     塚本邦雄

   死に死に死に死にてをはりの明るまむ青鱚の胎てのひらに透く                       同

   めん鶏ら砂あび居たれひっそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり                   斎藤茂吉

   さ夜ふかく母を葬りの火を見ればただ赤くもぞ燃えにけるかも                     同

  邦雄の一首目「皇帝ペンギン」は何を象徴し、歌は何を言わんとしているのか。わかるようでわからない意味深長な歌で、想像が働いて来る。これはまさしく象徴主義の思惑で、アイロニーの勝った人間関係が根っこにあるのがこの歌には感じられる。これは好き嫌いの分かれるところであろうが、そこが狙いの一首でもあるように思われる。鑑賞者は自由に鑑賞出来るけれども、鑑賞者はその鑑賞能力を試されるということにもなる。この手法は前衛短歌と呼ばれる一群に見られ、まずあげられるのが寺山修司であり、岡井隆、春日井建などであったが、彼らの勢いは第二芸術論への実践者の戦いと言ってよかった。これも自由にものが言える世の中になったことによることを忘れてはならないだろうことが言える。

  二首目の「死に死に死に」の歌は、「三界の狂人は狂せることを知らず。四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」という空海の『秘蔵宝鑰』の本歌取りであろうが、この空海の言葉を逆手に取って一首をまとめ上げている。思えば、逆説的視線の内容であるが、これも人生を生きる者からすれば、真実であろう。それがうかがえる。二首とも心の呟きに違いないが、呟き以上のものを感じさせるところがある。

  茂吉の一首目「めん鶏」の歌の光景は今や見られない懐かしさの感じられるものであるが、歌の最後に用いられている詠嘆の「けり」という助動詞はどんな言葉を駆使しても言い表せない情感を滲ませてある文字で、歌の内容を深くする不思議な力をもっている。この歌にもそれがうかがえる次第である。これは伝統に裏付けられているもので、やさしくも美しい日本語の特徴の一つと思われる。次の歌の「かも」という助詞にも言えることであるが、これらの用字は抒情歌である定型短詩の短歌に生まれ育ったものであると言ってよい。この「かも」も、やはり、ほかの言葉に置き換えられない言外の情感を表わしているのがわかる。

  「第二芸術」の論では定型短詩の短歌や俳句を言葉の制限と言っているが、短歌や俳句の実践者は言葉の抑止と認識している。言い方が違うだけで、同じことではないかと思われるが、制限と抑止とは違う。抑止は言葉の吟味が重視され、実践者はこの言葉の吟味において常に悩む。私は日本人の奥ゆかしさは短歌的抑止の働きだろうと思っている。言いかえれば、婉曲的であり、抑止における短歌をして、婉曲の文学とは言われるところであって、この認識が、短歌や俳句を理解するには望まれるのである。また、それゆえに、用いられた一つの言葉から見解が分かれることもあるが、意味が広がり、豊かにもなるのである。

  だが、このような事例の歌を考えに入れなくても、短歌や俳句が心の呟きである以上、全的精神が盛り込めないにしても、また、いくら異質の文化が入り込んで来て表現に混乱を生じるとしても、これによって短歌や俳句が廃れるようなことはないということが私には思われる。

 で、短歌や俳句を大上段に振りかざした芸術論の中で論じること自体が無謀であると、私には思える。どれほどの実践者が自分の短歌や俳句に芸術性を思っているだろうか。これを考えても自ずと答えは出て来るはずである。しかし、その詠まれた作品が芸術の高みにあらざるものにしても、この心の呟き(感性の呟きと言ってもよい)は私たちにとって大切なものであり、高尚な芸術にも劣らない表現としてあることが言える。これは今も昔も同じことで、私たちはここのところを認識しておかなくてはならない。この短歌や俳句の呟きの連なり合うところが、即ち、芸術にも通じるのである。

 だから、短歌で言えば、『万葉集』に始まる詞華集が昔から編まれて来たわけである。言われるように、一首では全的精神を盛ることは出来ないかも知れない。だが、百首、二百首となれば、その精神も語れるし、時代を負うことも可能になる。純然かどうかはさておき、庶民の呟きの歌をも収載している『万葉集』の価値は高く、『古今和歌集』の真似歌という評も第二芸術論からは聞かれそうな『新古今和歌集』も、衰えゆく貴族の執念のような精神が展開され、中世という時代の精神性が見て取れるという点において、芸術に劣らない価値があると思えるのである。 写真はイメージで、山並。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年04月01日 | 創作

<941> 短歌の歴史的考察  (16)       ~ <940>よりの続き ~

        鄙にあり 都にあり 且つ 集ふあり 歌を思ふに 詞華集のあり

 まず、短歌の隆盛について触れてみたいと思う。現在、我が国の短歌人口(短歌を作る人の数)がどのくらいにのぼるか、定かなところはわからないが、五十万人とも十五万人とも言われる。上下にあまりの差があり過ぎるので、中を取って約三十万人としても、これは多い数である。俳句は小学生なども大いに作っていて膨大な数にのぼり、百五十万人とも言われる。川柳も最近は多くなっているので、我が国独自の定型短詩が如何に愛好されているかがわかる。そして、これはやはり、戦後の状況、つまり、自由を標榜してある社会環境と生活のゆとりから来ていることが察せられる。また、教育の存在も大きいと思われる。

 歌謡曲とかポピュラーとか童謡とか民謡とかは短い歌詞によってあるが、半ば以上は音楽がその魅力を担っているから、短歌や俳句のように純然たる言葉の力が示されているわけではない。この点を考慮すれば、短歌形式や俳句形式の短詩の親しまれ方は、他の国に例を見ないものと言ってよいほどであることがわかる。この親しまれ方は日本語が有する五七あるいは七五の韻律に負うところと見てよく、この短歌や俳句は、この考察のはじめに述べた須佐之男命の歌の通りで、この日本語の特徴から必然的に生じて来たものと考えられる。

 短歌には以上のような環境の土壌があって、次のことがその隆盛に関わって来たと言えるように思われる。それは近代短歌にも見られた結社とその機関誌の存在で、まず、これがあげられる。明治時代には数えるほどしかなかった結社とその機関誌は今や七百以上、もっと小さなグループを含めれば、千を越えるのではないか。その活動は全国津々浦々に及び、そこを拠点に作歌がなされ、作品の発表が日々行なわれている。もちろん、結社に所属しない一匹狼的な歌人もいるが、この結社が短歌の世界を支え、そこに属する歌人たちが短歌の世界の牽引役になっていることは間違いないところである。

 これに角川書店の『短歌』や短歌研究社の『短歌研究』、現代短歌社の『現代短歌』などの短歌総合誌があり、新聞各紙が設けている投稿による新聞歌壇がある。また、テレビではNHKが短歌や俳句に力を入れているのがうかがえる。いわゆる短歌ジャーナリズムと言われる分野で、この分野の働きも大きいものがある。また、インターネットを活用したネット短歌が若い人たちに支持され、広がりを見せているのが最近の短歌事情として見られる。

             

 また、現代歌人協会、日本短歌協会、日本歌人協会といった歌人の団体による短歌祭などの催しによって短歌の盛り上がりが見られ、各地に記念館としてつくられている短歌関係の文学館による短歌作品の募集などがあって、現代短歌の世界は活況を呈しており、商業ベースで見ても、一つの事業として定着しているところがうかがえるほどである。こんな中で、宮内庁が主催する歌会始めが厳然と伝統に則って存在するところが短歌の短歌たる存在を示していることが指摘出来る。天皇、皇后の御歌とともに選ばれた歌人の短歌が披講されるというもので、毎年お題が出され、一般国民からそのお題に沿って短歌が募集される。明治期よりある伝統の宮中行事で、これは一つの国民性としてある伝統的短歌の意義を示すものと言える。

 次は口語による短歌の出現について触れたいと思う。日本語には古い時代からある文語と新時代、主に戦後になって用いられるようになった口語による文字表現がある。これは文法の旧と新をはじめとし、仮名遣いの旧と新、字体の旧と新とともに短歌が変化を来たして現在に至っている現われを言うものである。口語の使用は、西洋詩の導入に刺激されて模索された明治期に見られ、作歌の主題を生活に求めた大正期の歌人にも一時期口語に傾斜した者がいた。だが、定着するほどには至らなかった。

 それから太平洋戦争の敗戦を機に、いよいよ著しい欧米文化の導入が進み、外来語が氾濫するに至り、文章も縦書きから横書きに移り、文語にこだわるのは伝統に則った短歌や俳句くらいになって来た。そこに戦後教育の影響を受けた若い歌人たちが登場するようになり、口語短歌が短歌の世界へ違和なく入り込んで来ることになった。

  そのきっかけを作ったのが、バブル景気さ中の昭和六十二年(一九八七年)に出された俵万智の第一歌集『サラダ記念日』であった。角川短歌賞を受賞した直後で、伝統的な詩形の短歌がもっとも最先端を行くコピーライターたちに衝撃をもたらしたという宣伝文句を加味してたちまち冊数を重ね、ミリオンセラーになったことによる。その凄さは、五月八日に初版が出され、八月三日には七十二版を重ねたことである。この口語表記の歌集が短歌のその後に大きく影響し、短歌の口語への傾斜に拍車をかけたのであった。

   「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

   大きければいよいよ豊なる気分東急ハンズの買物袋

 この二首を見てもわかるが、『サラダ記念日』には外来語の片仮名表記が目立って多いことに気づく。これはこの時代の反映、つまり、欧米文化の影響下の産物であり、二番目にあげた「東急ハンズ」の歌にあってはバブル期をよく表している歌で、その時代精神を写している歌と言え、明治時代末期から大正時代初期に出された石川啄木の第一歌集『一握の砂』や遺歌集『悲しき玩具』に似るところがうかがえるのである。

 ともに、卓越した感性によって時代を写し取り表現した歌人であるが、その歌には隔世の感があり、万智の短歌はまさに戦後日本の歩んで来た道における一つの頂点にあった時代に詠まれたもので、その時代とその感性、そして、外来語の片仮名表記に適合する口語がぴったり一致して評価されたことが分析出来るのである。

 戦後の短歌は難しい言葉や言い回しを駆使して象徴主義的傾向にあったことにもよって、わかりやすい口語短歌の出現は多くの目を瞠らせたのであった。で、短歌の口語化は、以後、堰を切った濁流のように広がりを見せ、今や口語によって作歌を行なう歌人が増えている次第である。そして、万智が示したように感性を第一義として気軽に短歌を楽しむ風が、殊に若い歌人の間で見られるようになった。これは一つに俳句や川柳にも言えるが、短歌の大衆化ということではなかろうか。

 ネット短歌もその一つで、時代の流れを感じさせる。だが、短歌を作る人が増えれば、粗雑な作品も見られるようになるのは自然なことで、それはいずれの分野にも言える。で、その質が問われ、短歌や俳句に対してもの申す批評家も現われることになるわけである。これは戦後間もない時であるから問題の質が異なるかも知れないが、誰でも作れる気安さがあるゆえに低級と見なされる向きも出るわけで、芸術論をもってこれを批判した桑原武夫の短歌、俳句に対する第二芸術論なども現われることになった。この論が如何なるところから生じ、如何なる者へ発せられたのか、この論は短歌にとって重要な意味を持つので、少々反論めくが、次に触れてみたいと思う。 写真はイメージで、実り。