goo blog サービス終了のお知らせ 

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年04月11日 | 創作

<3736> 作歌ノート 瞑目の軌跡(十四)

                自負と自慰思ひのうちに絡みつつ来ていまそして歌のその数

 歌は直感的に湧き出て来るものであるが、瞑目の内に思いを重ね、推敲し、形づくられるものである。悲歌にしても恋歌にしても雑歌のような歌にしても歌はすべて感と知により、瞑目の内に出来上がる。その歌をなしてすでに数十年。駄作か秀作かは知らず。とにかく、瞑目の結果として幾つかの歌が生まれて来た。その歌は自負の思いなきにしもあらず。また、自分を慰める詩形。つまり、自慰なるものとも言える。

         東海の小島の磯の白砂に

         われ泣きぬれて

         蟹とたわむる                     石川啄木

 

         呼吸すれば

         胸の中にて鳴る音あり

         凩よりもさびしきその音!                 同

                               

 上記二首は、啄木の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』の冒頭の三行による短歌である。この二首が代表するごとく、『一握の砂』も『悲しき玩具』も啄木の自慰の歌からなる歌集と言われ、ナルシシズムの論評がある。なるほど、そうかも知れない。しかし、短歌は、喩の働きによるような象徴的な歌にしても、自己の表象(自己肯定的表現)という意味において言えば、どこか自慰に近いものがある。まして、<我>という一人称を主として俎上に展開する短歌の特質をして思えば、啄木をしてナルシシズムと決めつけることにはいささか抵抗がある。例えば、次のような歌がある。

  日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も            塚本邦雄

 啄木の歌とは随分様相を異にする歌であるが、この歌のごとく、現代短歌の一面とも言えるアイロニーを駆使して論を展開するような歌も、ナルシシズムの裏返しにあるようなところが覗え、そこが気になる。これは短歌が完全フィクションの小説などと違って自己同一の内心からなる思いの抒情詩としての歴史的認識を纏ってあるからだろう。

 言ってみれば、啄木のごとく、自己の内に向かって思いをつのらせるか、現代短歌の特質の一面である自己と対立する、或いは同和する外に向かって攻撃的若しくは防御的、または同調的に歌をなすかで、それはどちらにしても自己の意(思い)を歌にするということで、歴史の俎上に展開されて来た定型短詩の抒情詩たる短歌の本質のところでは何も変わっていないような気がする。

  啄木をナルシシズムと説くものへその裏返しなる時代いま

 短歌が大きく変革したのは、和歌から短歌と言われるようになった明治時代以降であろう。これは自然主義とか浪漫主義とか写実主義とか象徴主義とか、また、新思潮とか、西洋文明の影響によるところが大きく、自我の覚醒ということが関っているのではないかと思われる。それまでの和歌にはなかった自我の主張が顕著に表現され、歌に個性的なバリエーションが見られるようになったことによる。技巧、修辞の仕様、感性の行きどころについては日進月歩、新しいところが見られるのは当然と言えるが、この自我(主体)の顕れという点にして思えば、啄木も現代歌人も同じ位相にあるように思える。

 手法や文体を異にし、衒学の衣を纏う語彙、語法の豊かであること、韜晦的または婉曲的に表現する修辞法など現代には瞠目に値する表現技巧が見られ、逆に言えば、意味不明に近い短歌もまた夥しく、これについては、読み手の力量や理解力のなさなども問われ、衒学に臆する鑑賞にも起因するところがあると言えるが、肝心なところは、言葉と精神の繋がりにあるという気がする。

   難解な言葉を駆使した比喩的な歌も詠み手の精神がわかれば、案外理解が進むもので、難解なのは、散りばめられた言葉にあるのではなく、その言葉のうちに込めるところの精神と言葉の一致が理解出来ないところにあると言える。一つの精神を五七五七七の定型に抑止して伝えるということは至難の技であることは実作者なら誰もがわかっているはずで、そこに作歌の奥深さとか魅力もあるのであるが、言葉(技巧、修辞)が先か、思想(思いの内容)が先かという「古くして永遠の問」(岡井隆)とは言え、藤原家定も言っているように、両方十分に至れない場合は、言葉(技巧、修辞)より思想(思い内容)に重きが置かれるということになるのだろう。

   つまり、作歌に際しては、精神が極めて重要であって、この点、いかに衒学的修辞を凝らしたとしても、歌の根幹をなす精神が貧寒としてあれば、歌の体裁は整うにしても内容は当然のこと貧寒たるものにならざるを得ない。そこで、また、冒頭の問題に帰ることになるが、歌が何に向かって詠みなされるかということになる。自分に向かうか、他者に向かうか。他者に向かう場合、それが個人に向かうか、集団に向かうか、もっと広く社会全体に向かうかということになるが、ここで歌人の資質が問われて来ることになる。

   そこで、思うのであるが、この世に生を得ているもの同士、いつの時代においても喜怒哀楽があり、四苦八苦があり、人は精神において、個性たるものながら、同じ位相にあるものとして理解されるところにあり、歌においてもこのことが言える。同じ精神の問題を啄木のように自己に向かって詠みなすか、現代短歌の一面に見えるように他者に向かって(実のところこれも自分に向かっているのだが)なすかの違いに過ぎないということがこの問いを突き詰めて行けば思われて来る。もちろん、どちらにしても普遍性の欠如は詩において許されないのは当然のことである。

   その精神を思うとき、自分に向かって歌をなすような啄木も他者に向かって歌をなすような現代に見える短歌の一面も自我の覚醒という点においてはそれほど異ならず、啄木一人をナルシシズムと差別化するようなことは妥当でないという気がする。とにかく、短歌を作るものは、自分の精神を歌にするということで、多かれ、少なかれ、みな自負と自慰をもって作る。これはすべての歌人に言えることであろう。そこに歌の道筋があるように思える。その自負と自慰を思うにつけ、何に向かって歌をなすかの作歌姿勢が思われて来る次第である。

  自負にある遥かな思ひ白帆なす歌はすなはち輝きであれ

  むらぎもの心における夕まぐれ歌はあるひは自慰とも言へる

 私の短歌は私の精神の現われであり、私の精神の反映にほかならず、これからも短歌は感を得て瞑目の内に生まれるのであろうが、瞑目は身の内の思いを呼び起こすならいであれば、身をよく保ち、高らしめなくてはならない。しかし、これは思うにまかせず、来し方同様、行く末もまた「不束に」とは思わざるを得ない。いままさに老いの域。日月光陰の速やかなるに何ともし難い思いに心急かされる日々ではあるが、しかし、いかに焦っても、短歌は一首一首積み上げて行くほかないというのが昨今の思いではある。

  二千首に及びしことも不束に来し証かも六十路も過ぎぬ

  歳月を経ていまにある歌の数おもへば不束なる身の証

 なかなか思うようには行かないが、私にも作歌に対する心がけ(思い)がある。それは、自分の土俵のうちで作る。世を見ても人を俎上に打ち付けてはならぬ。過ぎ去ったものは美しく思うべし。普遍を常に念頭に置く。作歌は今後もこういう姿勢において続けて行きたいと思っている。 写真はイメージで、海の渚。

  寄せ返す渚の波に如かずかも心の襞に触れて生る歌


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年04月04日 | 創作

<3729> 写俳二百句(123) 花の春

            花の春そこここに恋歌の色

                         

 この間、スミレの登場を願ったので、レンゲソウとタンポポを取り上げないでは片手落ちであろうという気分になり、この度、野辺で出会ったレンゲソウとタンポポの咲くこの花の写真を紹介することにした。

   春はどこに出かけても花盛りである。花を生殖器官だと言ったのは誰だったか。思えば、その花は色とりどり、形とりどりで、香りを誇る花もある。これらの花々は恋の情に切なくも添うところ、冒頭の句。推敲して今一句。 写真はレンゲソウやタンポポが花盛りの野辺の光景。      花の春恋歌の色散りばめる


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年04月02日 | 創作

<3727> 写俳二百句(122) サクラ(満開)

              「爆発だ」万朶の桜の花盛り

                             

 大和路の国中のサクラ(ソメイヨシノ)は満開で週末を迎えた。ソメイヨシノは葉の展開する前の裸木の万朶に花を咲かせ、樹冠一杯のボリュウムをもっていつもは地味なその木の姿を一変させる。で、一年のほんのわずかなこの春の時期、私たちはその花に圧倒されるのである。近くに寄っても、遠くから眺めても満開のその花には趣がある。

   このボリューム豊かなサクラの花盛りの木々を見上げていると、このボリュームは大地に根を張るサクラの生命力の証に違いないという気がし、これはまさしくその生命力の「爆発だ」と言いたくなった。で、冒頭の句を得た。 写真は満開のソメイヨシノ。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年03月30日 | 創作

<3724> 写俳二百句(121)  スミレ

             一花よし群れてまたよし菫草

             

 春本番。サクラ(ソメイヨシノ)は満開に近く、辺りを明るくしている。この時期になると山野ではスミレが一味違った花を咲かせ、山野に赴く私たちを迎えてくれる。行脚の山路越えの道の辺の花を松尾芭蕉は「山路来て何やらゆかし菫草」と詠んだ。人口に膾炙した句であるが、この句のごとく、山路で出会うその花にはこころ惹かれるものがある。

 スミレといっても、いろいろあってそれはバラエティ―に富み、わが国には五十種ほどが分布すると言われ、変種を含めるともっと多く、自然の山野を誇る大和地方でもいろんな種類のスミレが見られ、私も二十種以上の花に出会って写真にして来た。ここではその中の身近でポピュラーな七種について写真で紹介したいと思う。

   すみれとはいい名ですねすみれちゃん

 スミレの名は距(きょ)を有する花が大工さんの用いる墨壷(墨入れ)に似るので、この「墨入れ」からスミレになったと一説にある。異説もあるようであるが、とにかく、その可憐な花とスミレの名はピッタリマッチして覚えがいい。このため女性の名に用いられることがある。というので上記の句。とにかく、スミレはゆかしい草花で、冒頭の句。

 写真は左からもっともポピュラーな淡紫色の花をつけ群生することが多いタチツボスミレ、濃い紫色の花を咲かせるスミレ属の総称スミレと同じ固有名で知られるスミレ中のスミレ、民家の石垣の間などに見られるかわいい花で、この名があるヒメスミレ、ツボスミレの別名でも知られ、少し湿気のあるところに生え、白い花をつけるニョイスミレ、日当たりのよい草地で見かけるスミレに似た花をつけるが、葉が立つスミレに対し、葉が横向きになる傾向があるノジスミレ、田畑の畦などに群生して白い花を咲かせ、群れて咲くことが多いアリアケスミレ、山路でよく見かける長三角形の葉の裏が紫色をし、この名があるシハイスミレ。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年03月19日 | 創作

<3713> 作歌ノート  瞑目の軌跡 (十三)

               連なりて雨に濡れゐる彼岸花道は墳墓に尽きると聞きぬ

 「尽きる」という言葉は意味深長である。果して尽きる道の先はいかなるところで、どのようになっているのだろう。「墳墓に尽きる」と言うからは墳墓があるのだろうと思い歩を進めてみると、やはり、墳墓があった。草の中に木製の立札が一つ立っていて、説明が記してあるが、傷みが激しく、よく読み取ることが出来ない。果たして、いつの時代に誰が埋葬されたのか。雨に濡れて連なる彼岸花とともに印象に残った。

 「墳墓に尽きる」とは人生そのものである。歌ではそこが述べたかった。つまり、人生は「墳墓に尽きる」までのほんのわずかな道のりにほかならない。人はみなそれ相応に人生を送るだろう。しかし、その先は遅かれ早かれお墓の中である。尽きる先、即ち、死の先はどうなっているのだろう。あの世行きか。あの世は地獄か極楽か。それとも、輪廻転生して、また、何かに生まれ変わることになるのだろうか。蛇にでも生まれ変わって、墳墓に棲みつき、墳墓を守って生きるというようなことも想像出来なくはない。

      まことお彼岸入りの彼岸花                                            種田山頭火

   彼岸花は中国原産のヒガンバナ科の多年草で、この句が示すように、九月二十日前後の秋の彼岸のころ花を咲かせるのでこの名がある。曼珠沙華とも呼ばれ、仏教では四華(しけ・白蓮華即ち曼荼羅華、大白蓮華即ち摩訶曼荼羅華、紅蓮華即ち曼珠沙華、大紅蓮華即ち摩訶曼珠沙華)の一つにあげられ、法華経が説かれるとき瑞相として天から降って来る花とされ、経の中の「摩訶 曼荼羅華 曼珠沙華」の曼珠沙華にその名の由来があるとされる。

               

   曼珠沙華は古代インドのサンスクリット(梵語)のマンジュサカ(天上の花)が漢字に訳されたものと言われ、もとは白い花だったが、仏教が中国に伝来したとき、花の赤い彼岸花にあてられたようである。しかし、彼岸花にはその一種にシロバナヒガンバナという花の白色のものもあるからそのあたりにも思いがめぐる。因みに曼荼羅華はナス科の一年草である白いラッパ状の花を咲かせるチョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)のことで、曼珠沙華と同じく有毒植物として知られ、道端などに野生化したものが見受けられる。

  彼岸花の我が国への渡来は日本列島が大陸と繋がっていた有史以前とする説があり、『万葉集』の一首に登場する壹師(いちし)の花を彼岸花とする説が通説になっている。

    路の辺の壹師の花の灼然(いちしろ)く人皆知りぬわが恋ひ妻は                          (巻十一・2480・柿本人麻呂歌集)

   これがその歌で、「路の辺の壹師の花の」までが「灼然く」を導く序にある歌で、植物学者の牧野富太郎は「灼然」を燃え立つ意とし、赤い彼岸花が最も適したイメージの花だと見た。しかし、ほかにもスイバの仲間のギシギシ、クサイチゴ、エゴノキ、イタドリ、イチイシバなどの説が見られ、確証はなく、推論の域を出ないところにある。また、壹師については以後の登場が極めて少なく、花の印象からして首を傾げさせるところもあり、これも壹師が彼岸花という説に否定的な要素になり得るものとしてあげる見解もある。

   彼岸花は仏教に関わり、最初は墓地などに植えられていたようであるが、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の名が登場するのは江戸時代になってからのことと言われる。また、彼岸花はリコリンなどのアルカロイド物質を含む有毒植物で、モグラやネズミを寄せつけないため棚田の畦や土手などに植えられ、デンプン質の豊富な根茎(鱗茎)は水に晒し、毒素を除けば食べられるため、飢饉の備えにもしたと言われ、その特質を利用した昔のなごりが各地に見られ、秋を彩る花にもよりよく知られるに至り、今日にある。

    曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径                                 木下利玄

   彼岸花という和名は前述したとおりであるが、近年用いられるようになったもので、この歌のように、詩歌などでは明治時代以降現代に至るまで曼珠沙華で登場することが多く、曼珠沙華の名は今も根強い人気を保っている。また、彼岸花は北海道南部以西のほぼ全国的に分布し、我が国のものは結実しないとされ、根茎(鱗茎)によって繁殖するため、人のあまり通わない深山などには見られない人里植物として知られる。

 身近で際立つ花のためか、民間伝承による地方名がずば抜けて多いのが特徴で、その異名は全国各地に及び、五百以上存在する。例えば、死人花(しびとばな・京都)、地獄花(岡山)、幽霊花(千葉)、厄病花(新潟)などその名に負のイメージが際立つものが多いのも特徴としてあげられる。これは、彼岸花が仏教に関わりの深い花だったために墓場に植えられ、毒草でもあって、死者との関わりによってイメージされた結果と想像される。

 つまり、彼岸花は、仏教では天上の花で、瑞相の象徴であるが、我が国における民間伝承のイメージでは、仏教の経典のイメージにはほど遠く、極楽花の名は聞かず、地獄花の名が強烈である。華やいだ気分で迎えられる釈迦牟尼の天上の花と末端庶民が抱くところのイメージの落差は大きく、彼岸が地獄ではさまにならないが、人によっては彼岸花(曼珠沙華)、人によっては地獄花(幽霊花)という思いで見れば、真っ赤に燃え立つこの花には因果応報の仏教的教訓が思い浮かんで来て、名付け親にはそこまで考えを巡らせていたかと敬意を表したい気持ちにもなるから人の世は侮れない。

  彼岸花別称地獄花の名も思へば因果応報のこと

 教訓とは生きる上の教えであり、彼岸花を地獄花と呼ぶ言い方にも仏教的その教訓のことが思われる。いまにとらわれず、先に思いを巡らせながら生きよということであろう。草に被われた墳墓の主にはいかなる様相が展開されているのか、知るよしもない現身の私たちゆえに教訓はある。

 雨模様のこの日。墳墓に尽きるまでの道に連なって咲く彼岸花は、雨の露を光らせながらその赤い花が目にしみる鮮やかさであった。  写真はイメージで、雨に濡れて咲く彼岸花。