<3736> 作歌ノート 瞑目の軌跡(十四)
自負と自慰思ひのうちに絡みつつ来ていまそして歌のその数
歌は直感的に湧き出て来るものであるが、瞑目の内に思いを重ね、推敲し、形づくられるものである。悲歌にしても恋歌にしても雑歌のような歌にしても歌はすべて感と知により、瞑目の内に出来上がる。その歌をなしてすでに数十年。駄作か秀作かは知らず。とにかく、瞑目の結果として幾つかの歌が生まれて来た。その歌は自負の思いなきにしもあらず。また、自分を慰める詩形。つまり、自慰なるものとも言える。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたわむる 石川啄木
呼吸すれば
胸の中にて鳴る音あり
凩よりもさびしきその音! 同
上記二首は、啄木の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』の冒頭の三行による短歌である。この二首が代表するごとく、『一握の砂』も『悲しき玩具』も啄木の自慰の歌からなる歌集と言われ、ナルシシズムの論評がある。なるほど、そうかも知れない。しかし、短歌は、喩の働きによるような象徴的な歌にしても、自己の表象(自己肯定的表現)という意味において言えば、どこか自慰に近いものがある。まして、<我>という一人称を主として俎上に展開する短歌の特質をして思えば、啄木をしてナルシシズムと決めつけることにはいささか抵抗がある。例えば、次のような歌がある。
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も 塚本邦雄
啄木の歌とは随分様相を異にする歌であるが、この歌のごとく、現代短歌の一面とも言えるアイロニーを駆使して論を展開するような歌も、ナルシシズムの裏返しにあるようなところが覗え、そこが気になる。これは短歌が完全フィクションの小説などと違って自己同一の内心からなる思いの抒情詩としての歴史的認識を纏ってあるからだろう。
言ってみれば、啄木のごとく、自己の内に向かって思いをつのらせるか、現代短歌の特質の一面である自己と対立する、或いは同和する外に向かって攻撃的若しくは防御的、または同調的に歌をなすかで、それはどちらにしても自己の意(思い)を歌にするということで、歴史の俎上に展開されて来た定型短詩の抒情詩たる短歌の本質のところでは何も変わっていないような気がする。
啄木をナルシシズムと説くものへその裏返しなる時代いま
短歌が大きく変革したのは、和歌から短歌と言われるようになった明治時代以降であろう。これは自然主義とか浪漫主義とか写実主義とか象徴主義とか、また、新思潮とか、西洋文明の影響によるところが大きく、自我の覚醒ということが関っているのではないかと思われる。それまでの和歌にはなかった自我の主張が顕著に表現され、歌に個性的なバリエーションが見られるようになったことによる。技巧、修辞の仕様、感性の行きどころについては日進月歩、新しいところが見られるのは当然と言えるが、この自我(主体)の顕れという点にして思えば、啄木も現代歌人も同じ位相にあるように思える。
手法や文体を異にし、衒学の衣を纏う語彙、語法の豊かであること、韜晦的または婉曲的に表現する修辞法など現代には瞠目に値する表現技巧が見られ、逆に言えば、意味不明に近い短歌もまた夥しく、これについては、読み手の力量や理解力のなさなども問われ、衒学に臆する鑑賞にも起因するところがあると言えるが、肝心なところは、言葉と精神の繋がりにあるという気がする。
難解な言葉を駆使した比喩的な歌も詠み手の精神がわかれば、案外理解が進むもので、難解なのは、散りばめられた言葉にあるのではなく、その言葉のうちに込めるところの精神と言葉の一致が理解出来ないところにあると言える。一つの精神を五七五七七の定型に抑止して伝えるということは至難の技であることは実作者なら誰もがわかっているはずで、そこに作歌の奥深さとか魅力もあるのであるが、言葉(技巧、修辞)が先か、思想(思いの内容)が先かという「古くして永遠の問」(岡井隆)とは言え、藤原家定も言っているように、両方十分に至れない場合は、言葉(技巧、修辞)より思想(思い内容)に重きが置かれるということになるのだろう。
つまり、作歌に際しては、精神が極めて重要であって、この点、いかに衒学的修辞を凝らしたとしても、歌の根幹をなす精神が貧寒としてあれば、歌の体裁は整うにしても内容は当然のこと貧寒たるものにならざるを得ない。そこで、また、冒頭の問題に帰ることになるが、歌が何に向かって詠みなされるかということになる。自分に向かうか、他者に向かうか。他者に向かう場合、それが個人に向かうか、集団に向かうか、もっと広く社会全体に向かうかということになるが、ここで歌人の資質が問われて来ることになる。
そこで、思うのであるが、この世に生を得ているもの同士、いつの時代においても喜怒哀楽があり、四苦八苦があり、人は精神において、個性たるものながら、同じ位相にあるものとして理解されるところにあり、歌においてもこのことが言える。同じ精神の問題を啄木のように自己に向かって詠みなすか、現代短歌の一面に見えるように他者に向かって(実のところこれも自分に向かっているのだが)なすかの違いに過ぎないということがこの問いを突き詰めて行けば思われて来る。もちろん、どちらにしても普遍性の欠如は詩において許されないのは当然のことである。
その精神を思うとき、自分に向かって歌をなすような啄木も他者に向かって歌をなすような現代に見える短歌の一面も自我の覚醒という点においてはそれほど異ならず、啄木一人をナルシシズムと差別化するようなことは妥当でないという気がする。とにかく、短歌を作るものは、自分の精神を歌にするということで、多かれ、少なかれ、みな自負と自慰をもって作る。これはすべての歌人に言えることであろう。そこに歌の道筋があるように思える。その自負と自慰を思うにつけ、何に向かって歌をなすかの作歌姿勢が思われて来る次第である。
自負にある遥かな思ひ白帆なす歌はすなはち輝きであれ
むらぎもの心における夕まぐれ歌はあるひは自慰とも言へる
私の短歌は私の精神の現われであり、私の精神の反映にほかならず、これからも短歌は感を得て瞑目の内に生まれるのであろうが、瞑目は身の内の思いを呼び起こすならいであれば、身をよく保ち、高らしめなくてはならない。しかし、これは思うにまかせず、来し方同様、行く末もまた「不束に」とは思わざるを得ない。いままさに老いの域。日月光陰の速やかなるに何ともし難い思いに心急かされる日々ではあるが、しかし、いかに焦っても、短歌は一首一首積み上げて行くほかないというのが昨今の思いではある。
二千首に及びしことも不束に来し証かも六十路も過ぎぬ
歳月を経ていまにある歌の数おもへば不束なる身の証
なかなか思うようには行かないが、私にも作歌に対する心がけ(思い)がある。それは、自分の土俵のうちで作る。世を見ても人を俎上に打ち付けてはならぬ。過ぎ去ったものは美しく思うべし。普遍を常に念頭に置く。作歌は今後もこういう姿勢において続けて行きたいと思っている。 写真はイメージで、海の渚。
寄せ返す渚の波に如かずかも心の襞に触れて生る歌