昭和20年(1945)11月12日午前8時、昭和天皇を乗せた5両編成の
御召列車が東京駅を発車しました。列車は東海道本線、関西本線、参宮線を経由し、伊勢神宮の下車駅である三重県の山田に向かいました。天皇が神宮を参拝するのは外宮と内宮の祭神に戦勝を祈願した42年12月以来で、今回は「戦争終息」すなわち敗戦を報告するのが目的でした。
戦前の行幸では、沿線の警備や天皇の護衛は厳重をきわめました。列車が通る駅のホ-ムに入れる資格をもった人々も制限されました。ところが、今回は天皇自身がそれらをいっさい撤廃するように命じました。敗戦の衝撃がまだ冷めやらなかった当時、警備や規制をなくせば何が起きるかは予想もつきませんでした。
しかし、列車に同乗した内務大臣の堀切善次郎が目にしたのは、不安を払拭する光景でした。「御召列車が名古屋に着いたときには、熱狂した歓迎の人波が駅頭にあふれ、列車の窓辺まで押し寄せ、その人たちの顔も声も、ただ感激そのものであったのです。」同乗していた内務大臣の木戸幸一もそれを日記に書きました。「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしに拘わらず、敬礼の態度などは自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるがごとき心地して、大いに意を強ふしたり」
戦前とは異なり、沿線では奉迎の必要がなかったのに、人々は自発的にホ-ムに集まったり、万歳をしたりした。たとえ天皇の姿が見えなくても、先頭の機関車に日の丸を交差させた列車が走るだけで戦前と同じ光景を再現できました。天皇の戦争責任を問う声はどこからも聞こえてきませんでした。翌1946年以降、御召列車は全国各地で運転されることになりました。
原 武史 「歴史のダイヤグラム」朝日新聞
御召列車が東京駅を発車しました。列車は東海道本線、関西本線、参宮線を経由し、伊勢神宮の下車駅である三重県の山田に向かいました。天皇が神宮を参拝するのは外宮と内宮の祭神に戦勝を祈願した42年12月以来で、今回は「戦争終息」すなわち敗戦を報告するのが目的でした。
戦前の行幸では、沿線の警備や天皇の護衛は厳重をきわめました。列車が通る駅のホ-ムに入れる資格をもった人々も制限されました。ところが、今回は天皇自身がそれらをいっさい撤廃するように命じました。敗戦の衝撃がまだ冷めやらなかった当時、警備や規制をなくせば何が起きるかは予想もつきませんでした。
しかし、列車に同乗した内務大臣の堀切善次郎が目にしたのは、不安を払拭する光景でした。「御召列車が名古屋に着いたときには、熱狂した歓迎の人波が駅頭にあふれ、列車の窓辺まで押し寄せ、その人たちの顔も声も、ただ感激そのものであったのです。」同乗していた内務大臣の木戸幸一もそれを日記に書きました。「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしに拘わらず、敬礼の態度などは自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるがごとき心地して、大いに意を強ふしたり」
戦前とは異なり、沿線では奉迎の必要がなかったのに、人々は自発的にホ-ムに集まったり、万歳をしたりした。たとえ天皇の姿が見えなくても、先頭の機関車に日の丸を交差させた列車が走るだけで戦前と同じ光景を再現できました。天皇の戦争責任を問う声はどこからも聞こえてきませんでした。翌1946年以降、御召列車は全国各地で運転されることになりました。
原 武史 「歴史のダイヤグラム」朝日新聞
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