yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

長岡城の歌

2008-08-30 12:09:11 | 歴史

私の郷土、長岡の英傑、河井継之助と北越戦争のことを歌った歌です。<o:p></o:p>

一、 砦のかがり影更けて月陣営に傾(かたぶき)ぬ 西軍聴かずわが嘆願(ねがい)無念やるなき継之助<o:p></o:p>

(この歌詞は、慈眼寺に於ける河井継之助と西軍の談判が不調に終わり、凄絶な長岡城下の攻防戦が始まったことを示しています。)<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

二、 大義に生きん武士(もののふ)の道一筋の心意気いかで友藩討たるべき遂に立ちたり長岡勢<o:p></o:p>

 (友藩とは無論、會津藩のことです。)<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

三、 頃しも文月(ふづき)宵闇に八丁沖を押し渡り奪ひ返さん兜城白刃かざす長岡勢<o:p></o:p>

 (長岡西郊の大池八丁沖からの夜襲により、西軍に奪われた長岡城を奪還することに成功しました。)<o:p></o:p>

 <o:p></o:p>

吟詠<o:p></o:p>

  敵(あた)守る砦のかがり影更けて夏も身にしむ越の山風<o:p></o:p>

            <o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

四、 嗚呼(ああ)星移り月変はり悠久山の碑(いしぶみ)に名をば留めて永久(とこしへ)に春爛漫と匂ふなり<o:p></o:p>

(長岡市郊外の悠久山には藩侯、牧野家のご一族と戊辰戦争の戦死者が祀られており、桜の名所として市民に親しまれています。)<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

長岡城の歌は、後にできた白虎隊の歌と同じメロディで唱われます。その事もあって、私の中にはこの歌と白虎隊の悲劇の歌はオーバーラップして記憶されております。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

<白虎隊の歌><o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

一、 戦雲暗く陽()は落ちて孤城に月の影悲し<o:p></o:p>

二、 誰()が吹く笛か識らねども今宵名残の白虎隊<o:p></o:p>

三、 紅顔可憐の少年が死を以て護るこの砦 滝沢村の血の雨に濡らす白刃(しらは)の白虎隊<o:p></o:p>

吟詠<o:p></o:p>

南鶴ケ城を望めば砲煙上がる 痛哭涙をのんで彷徨す<o:p></o:p>

宗社亡びぬ我事畢()はる十有九士屠腹してたふる  

<o:p> </o:p>

四、 飯盛山の山頂(いただき)に秋吹く風は寒けれど忠烈今も香に残す花も会津の白虎隊 花も会津の白虎隊<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義に殉じた彰義隊

2008-08-25 10:50:30 | 歴史

明治維新の時、上野寛永寺に立て籠って新政府に反抗した旧幕府の武士団、彰義隊がありました。人数は数千人で多い時には3000人にもなりましたが、1868年5月15日の上野戦争で大村益次郎が率いる政府軍によって壊滅に追い込まれました。<o:p></o:p>

彰義隊は腕に覚えのある幕府旗本を中心とする明日の命も分からない剣客集団でしたので、江戸の町民には大変人気があり、「情人(いろ)に持つなら彰義隊」と水商売の女性たちにもてはやされました。義経袴に水色の打裂(ぶっさき)羽織を着て朱鞘の刀を差してカラフルなスタイルで格好良く、しかも金離れがいいから、官軍と称して西から侵入して来て、無銭飲食して威張りかえっている侍たちとは比較にならないのは当然のことでした。<o:p></o:p>

ただ惜しいかな、彰義隊には将来展望と将来の生命の保証が無く、あったのは命を懸けて徳川家に対して忠誠を尽くすという義を全うする気概だけでした。一応、旗印は輪王寺宮という皇族でしたが、隊全体を統率する有能な人物にも恵まれませんでした。輪王寺宮を奥羽列藩同盟の盟主に戴き、新政府に対抗する北方政権を樹立したいというのが最終願望があったかも知れませんが、戦争を勝利に導くための政略と軍略を持ったりーダーがいませんでした。<o:p></o:p>

上野戦争は近代兵器を持つ政府軍による殲滅戦とも言える無惨なものでした。<o:p></o:p>

幕府側で唯一、政治力のあった人物は勝海舟でしたが、彼は徳川家の安泰存続と自己の保身を優先する人物でしたから、その事にあまりプラスにならない彰義隊を見捨てたようにも思われます。<o:p></o:p>

福沢諭吉も幕臣でありながら、敢えて非干渉の態度を貫きましたが、冷めた態度でした。そして幕臣榎本武揚は、最新式軍艦、開陽丸に乗艦して江戸湾に居ながら傍観していました。その行動は理解に苦しむところです。(勝海舟から手出しをしないよう強い要請があったのではないかと推測されます。)上野に向けて大砲を据えた本郷台(現東京大学)を江戸湾から艦砲射撃していたら、政府軍のアームストロング砲を一瞬の内に沈黙させることができたのではないでしょうか。これを敢行していたら上野戦争の戦況は一変し、大村益次郎は度肝を抜かれ、計画した殲滅作戦は頓挫した可能性がありました。思うに榎本には主家筋や親族が住む江戸の町に砲門を向けることにはためらいがあったのではないでしょうか。しかし、榎本の軍事技術能力をもって敢行していたら本郷台のみを限定攻撃するのは容易にできたのではないでしょうか。大事な決勝戦に手を抜いて敗れ、敗者復活戦の箱舘戦争で同じ相手に敗れたのでは本末転倒です。<o:p></o:p>

 彰義隊の敗北は、関東各地で戦っていた幕府軍には大きな打撃となり、奥羽列藩同盟は危機に陥り、新政府軍の会津進攻を大きく速めることになりました。<o:p></o:p>

榎本武揚は上野戦争の後、彰義隊の生残りを大勢、開陽丸に収容して蝦夷に向かったのですから、上野戦争を傍観したのは残念なことでした。しかし、いつの時代においても戦争の拡大とそれによる不幸は避けるべきですからこれで良かったのかも知れません。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>星 亮一著『われら義に生きる 彰義隊』三修社<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対人関係13の過失

2008-08-13 18:01:00 | 人生

アメリカの海軍における話題です。良い人間関係を築いて維持するための要件として「合衆国沿岸警備隊マガジン」という雑誌に人間関係における「マイナスの指針」すなわち、やってはならないことを「13の過失」として列挙して発表しています。これらは、海軍におけるリーダーの育成という観点から書かれていますが、海軍士官のみではなく一般社会においても注意すべきことのように思われます。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

(1)自分勝手な善意の基準を設けようとすること<o:p></o:p>

(2)他人の楽しみを自分自身の物差しで測ろうとすること<o:p></o:p>

(3)世間の意見が画一的であるように期待すること<o:p></o:p>

(4)相手の経験の無さを酌量しないこと<o:p></o:p>

(5)すべての気質を同じ型に作りあげようとすること<o:p></o:p>

(6)重要でない些細なことについて譲歩しないこと<o:p></o:p>

(7)自分自身の行動に完璧を求めること<o:p></o:p>

(8)つまらぬことで、自分自身や他人についてくよくよと思い悩むこと<o:p></o:p>

(9)人を助けることができるのに助けないこと<o:p></o:p>

(10)    自分自身が実行できないことを、誰がやっても不可能と考えること<o:p></o:p>

(11)    自分の心でとらえうるものだけしか信じないこと<o:p></o:p>

(12)    他人の弱点を斟酌しないこと<o:p></o:p>

(13)    内部の質的基準でなく、外部の質的基準で人を評価すること<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

これらは、謙虚であり、かつ、相手を尊重して思いやることが基本精神のようです。国境と時代を越えて、また海軍という分野を越えて、現代の日本の一般社会においても良い人間関係を作る上で参考になる指針ではないかと思われます。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

徳川宗英(とくがわむねふさ)著『江田島海軍兵学校 究極の人間教育』講談社<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江田島海軍兵学校

2008-08-06 10:36:07 | 歴史

江田島海軍兵学校は、瀬戸内海、広島湾の小島にある江田島にあり、海軍士官を養成した全寮制の学校です。通称「海兵」で、海軍士官の殆ど全員がここの卒業生でした。元、東京築地にあった学校が明治21年(1888年)この地に移転したのがその始まりです。<o:p></o:p>

陸軍には陸軍士官学校がありました。<o:p></o:p>

海軍では、海軍兵学校のほかに海軍機関学校と海軍経理学校があり、前者では操艦の技術者、機関科士官を、後者では事務、会計などを担当する主計科士官を養成しました。<o:p></o:p>

江田島兵学校の入学資格は年令制限(16-19歳)のみで学歴は特に問われませんでしたが、学力は旧制第一高等学校と同程度のレベルで「兵学校に落ちた者<o:p></o:p>

が一高に行く」とも言われました。ともかく、日本中から俊秀が集まる学校であり、多くの若者が憧れる学校でした。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

 また、イギリスの「ダートマス」とアメリカ合衆国の「アナポリス」と並んで、江田島は世界の三大兵学校の一つであり、多くの事を外国の兵学校から学び、取り入れています。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

 江田島兵学校の基本精神は、「士官である前にジェントルマンであれ」でした。そしてイギリス流にノーブレス・オブリージュ(リーダーとしての義務)が要求されました。これらは、現代の日本の教育において忘れかけられていることではないかと思われます。<o:p></o:p>

 ここではシーマンシップを養うために躾教育が徹底して行われました。<o:p></o:p>

訓育の基本が3S、すなわち、Smart(スマート)Steady(着実)、Silent(サイレント、静粛)でした。<o:p></o:p>

また、「5分前の待機」も重要な躾教育でした。何事においても5分前には次に行う行動の準備を終わらせておく、というものです。こうしないと予定された行動が整然と開始されず、作業の効率が上がらず、周囲にも迷惑をかけることになるからです。言わば常に臨戦態勢にあるとも言えます。<o:p></o:p>

 全体としてその教育はとても厳しいものでしたが、それを体験した人は今でも同期の仲間とそれを回顧して、「江田島にはよい思い出しかない」と言っているそうです。<o:p></o:p>

 徳川宗英(とくがわむねふさ)著『江田島海軍兵学校 究極の人間教育』講談社<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

将棋の名人推戴状

2008-08-04 12:15:18 | 将棋

将棋の名人位は時の将棋連盟会長によって推戴されます。<o:p></o:p>

允許や免許ではありません。<o:p></o:p>

中原誠名人が昨年の将棋の日に第十六世名人に推戴されました。<o:p></o:p>

永世名人になるには名人を5期以上保持しなければなりません。<o:p></o:p>

5期の間、棋界に君臨するのは、本当に偉業と言えます。<o:p></o:p>

以前は、推戴されるのは引退の後でしたが、中原名人の場合、還暦に達したのを機会に推戴されました。このように早めに実施するのはいい事だと思います。<o:p></o:p>

近代の名人位が創設されて以来、永世名人の資格保持者は、次の6人だけです。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>14世名人  木村義雄 (他界)

15世名人   大山康晴 (他界)

16世名人   中原 誠

17世名人   谷川浩司

18世名人   森内俊之

19世名人   羽生善治<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

ところで、推戴状の文面は次の通りです。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

   推戴状<o:p></o:p>

   棋士 中原誠<o:p></o:p>

  夙(つと)ニ将棋ニ天賦ノ資有<o:p></o:p>

  蘊奥(うんのう)ヲ極メ<o:p></o:p>

  入神ノ妙聖域ノ保持者ナルニ依而(より<o:p></o:p>

  茲(ここ)ニ 十六世名人位ニ推戴ス<o:p></o:p>

平成十九年十一月十七日<o:p></o:p>

   日本将棋連盟会長 米長邦雄<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

大層立派な文面です。<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする