yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

教養人 井伊直弼

2008-11-30 07:16:53 | 歴史

かの有名な井伊大老の話です。井伊直弼(なおすけ)は彦根藩第11代藩主、直中(なおなか)の14男ですが世継ぎではなかったため、城下の控え屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名付けて逼塞していました。その間のあり余る時間を使って己を磨きました。まず武士の嗜みである武道に励み、剣術・柔術・馬術・槍術・居合道・山鹿流兵学など、いずれもかなりの高域にまで達したということです。また学芸では曹洞宗の禅、儒学、国学、和歌、俳句、狂歌、書、茶の湯、能、華道、数学、天文学、とりわけ石州流の茶の湯と能は達人の域にあったとのことです。「チャカポン(茶、歌、ポンは能の鼓の音)」というあだ名があったほどで、これだけの事を学ぶのに、睡眠は1日に2時(2とき、約4時間)で足りると言っていたとか。何事も徹底的にやり抜く性格の持ち主だったのでしょう。<o:p></o:p>

運命とは不思議なものです。直弼32歳の時、彦根藩主、直亮(なおあき)の世子が急逝しました。他に後継ぎが無かったので一人残っていた直弼が養子となり彦根32万石の世継ぎになりました。そして36歳の時、直亮の死去により藩主となりました。藩主になるや掃部頭(かもんのかみ)を名告って江戸城に出仕し、大老にまで昇りつめました。政治手法は剛直で独断専行的でした。まず将軍継嗣を紀州藩主の家茂に決定し、一橋慶喜派を退けました。また、かねて開明的な意見を持っていた井伊大老はペリーの要求を容れて1858年に安政条約に調印しました。これにより、日本は従来の幕府の祖法である鎖国を止めて開国に踏み切ったことになりました。これが朝廷の意向に反していたため、異勅としてとがめられ、反幕府勢力は「攘夷」という合言葉をもって幕府に向かって結束しました。これに対して井伊大老は断固とした態度で臨み、幕府への反対者を次々に捕縛し、処刑しました。いわゆるこれが「安政の大獄」であり、吉田松陰や橋本左内らも処刑されました。これらのことが尊皇攘夷派の憤激を買い、井伊直弼は1860年に桜田門外で暗殺されてしまいました。彼のように武道に通じ、学芸で教養を深めた人物、広い視野と思慮深さを備えたはずの教養人が安政の大獄のような暴挙を行ったことについては、理解に苦しむところです。頽勢著しい徳川家の権威回復のために焦り過ぎたのが理由の一つではないかと思われます。程なく、徳川幕府は倒れましたが、直弼が熱心に進めた公武合体の証として徳川家に降嫁した和宮のお蔭で徳川家は滅亡を免れました。もしかして直弼はこのような事態をも予測していたのかも知れません。このように考えると、徳川家にとっては「真の忠臣」の一人と言えるのかも知れません。<o:p></o:p>

なお、江戸城無血開城に尽力した篤姫を大奥に送り込んだ島津斉彬公も徳川家の大恩人と言うことになります。<o:p></o:p>

 徳川宗英著 徳川将軍家秘伝 大老vs上さまvs大奥の舞台裏 大和書房<o:p></o:p>

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常識と良識

2008-11-25 10:54:57 | 文化

常識」を「広辞苑」で引きますと「普通・一般の人が持ち、また持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに理解力、判断力、思慮、分別を含むCommon sense」と、あります。<o:p></o:p>

「常識」というと誰もが持たなければならないもの、普遍的で正しいものと思われがちです。しかし、常識は限られた範囲にしか通用しません。日本の中、関東地方の中、自分が住んでいる町や社会の中だけとか狭い範囲にしか通用しません。<o:p></o:p>

関東での常識は、関西での非常識。日本の常識は中国の非常識などとなるのはよくあることです。<o:p></o:p>

 自分の常識を善として、他人の行為を評価するのは大変危険なことです。<o:p></o:p>

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 常識と似た言葉に「良識」というのがあります。「広辞苑」では「社会人としての健全な判断力、bon sens(仏)」とあります。<o:p></o:p>

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 犬養道子さんは、世界の人と交際するのに、人間としての常識が何より大切、良識は危険であると書いていました。良識には善悪判断がともなっていて、善悪の判断の基準は人それぞれの国籍、人種、宗教、信条、その人が生きてきた歴史により異なりますから、良識を善として行動するのは大変、危険であると述べているのです。例えば、キリスト教徒の良識はイスラム教徒にとっては良識でなくなるなことがしばしばあります。歴史上キリスト教徒の良識に基づく戦争で多くのイスラム教徒が殺害されるということがありました。昔の十字軍の遠征を始め、宗教戦争は苛烈で救いがありません。<o:p></o:p>

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 常識にせよ、良識にせよ、自分の狭い判断にだけ依ることなく、また、盲目的に一党一派に組みすることなく、広い知識と視野をもって物事に対処することが大切だと思われます。<o:p></o:p>

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「専門」という言葉

2008-11-21 07:19:39 | 人生

日常の会話の中で「あなたの専門は何ですか」という質問がよくなされます。<o:p></o:p>

私も勤務先の会議や一般のパーティーの席などで周囲の人からこの質問を受けることがありました。公式に近い場面ですと、この質問に回答するのには、ちょっと身構えてしまいます。それは一般向けに言って「自分が専門と言えるものを持っているかな」と、まず思ってしまうからです。「大学では何学科で学んだのですか」と言う問いかけのほうが、はるかに答え易いのです。大学で4年程度学んだだけで、それを自分の専門と言うのは僭越でしょう。「僅か4年で何がわかるか」という指摘は妥当なものでしょう。<o:p></o:p>

以前、私が勤務した会社は非鉄金属系の製造会社でしたが、技術系の社員には大きく分けて、電気系、機械系、材料系の人がいました。当時は大学の電気工学科を卒業した者は電気系技術者と区分されており、会社内では漠然と自分の専門は電気かな、と考えており、周囲からもそのように見られていました。<o:p></o:p>

 ところで、会社勤務の一時期、あるプロジェクトに参加していた折に京都大学の教授から指導を受けたことがありました。その教授に「君のバックグラウンドは何ですか」という質問を受けました。その時にはバックグラウンドという言葉に馴染みがなかったので一瞬考えてしまいましたが、多分、先生は「大学では主にどういう方面に力を入れて学んだか」ということを婉曲に問われたのでしょう。この教授のような問いかけの仕方には一定の配慮が感じられ、好感が持てました。<o:p></o:p>

 自分の「専門は何々です」と広言できる人は立派だと思います。私などは、「何々の方面に親しんでいる」とか、「何々について少し詳しい」というのが相当なところです。<o:p></o:p>

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紅旗征戎は吾事に非ず

2008-11-16 06:58:26 | 文学

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藤原定家が「明月記」に「世上乱逆追討耳に満つと雖も之に注せず、紅旗征戎は吾事に非ず」と書いています。<o:p></o:p>

「自分は政治的に重要な地位に居ないから、戦争や政争といった権力闘争には関心を持たず、朝廷の旗を掲げ外的を追討することはしない、吾事、すなわち歌道に専念する」と述べたものです。初出典は白居易の詩にある「紅旗征戎は吾事に非ず」によると言われています。<o:p></o:p>

 平安時代以来、源平の争乱、建武の中興の直前の合戦、応仁の乱、幕末の蛤御門の変など京の都には争乱が絶えませんでした。明治時代にも関東では大震災などの大災害がありました。冷泉家は、他の公家と異なり、明治の始めに東京に移転せず、終始京都に在りましたのでこうした災害に遭うことが無く、また、幸い争乱に巻き込まれることなく、藤原定家の冷泉家と時雨亭文庫(冷泉家の文庫)と歌の道を守り、千年後の今日までそれらを無事に残すことができました。これは希有の幸運でもありましたが、冷泉家が朝廷と藤原氏一門の庇護と、門人ら周囲の街人に支えられたからでもありましょう。<o:p></o:p>

 中国、盛唐の詩人、杜甫にしても戦乱に巻き込まれることなく、文学一筋の平穏な生涯を送りたかったのではないかと思われますが、現実には唐王朝末期の争乱に直に遭遇して、妻子を抱え漂白の旅を余儀なくされました。「国破れて山河在り」等の悲痛な詩を残しています。<o:p></o:p>

 これに比べると藤原定家の冷泉家は、千年の長きに亘り和歌一筋の道を貫く<o:p></o:p>

ことができました。これは奇跡とも言える事かも知れません。<o:p></o:p>

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「先憂後樂」と「松柏後凋」

2008-11-12 06:55:28 | 文学

先憂後樂と松柏後凋(しょうはくごちょう)は似た趣のある四字熟語です。<o:p></o:p>

先憂後樂は殊に有名です。中国、北宋の「岳陽楼記」にある言葉で、<o:p></o:p>

「士はまさに天下の憂ひに先立ちて憂ひ、天下の楽しみに後れて楽しむ」の意です。東京小石川の後楽園は、水戸徳川家の上屋敷の庭園で、水戸黄門(徳川光圀公)が造りました。岡山の後楽園は岡山藩主、池田綱政公が江戸時代初期に造らせた大名庭園で、金沢の兼六園、水戸の偕楽園と共に日本三名園と言われています。この後楽園の名前の由来は「先憂後樂」からきています。なお「士」は中国においては「士大夫」、即ち「官僚・知識層」のことです。<o:p></o:p>

松柏後凋は「論語」にあり、<o:p></o:p>

「子曰く歳寒くして松柏の凋(しぼ)むに後(おく)るることを知る」が原典です。気候が寒くなってから、はじめて松や柏が散らないで残ることが分かるように、人も危難の時にはじめて真価があらわれる。木々が葉を落としている中に、青々とした松柏がスックと立っている姿は、混乱した世に節操(みさお)を曲げない人物の姿だ。というような意味です。<o:p></o:p>

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時代を越えて今日にも求められる「士」のあり方ではないでしょうか。<o:p></o:p>

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幕末の将軍 徳川家茂

2008-11-07 07:27:09 | 歴史

第十四代将軍 徳川家茂(いえもち 1846-1866)は徳川幕府末期に徳川家定の跡を継ぎ、若くして将軍になりました、御三家、紀州家の出身で幼名は慶福(よしとみ)でした。折しも幕末の動乱期に当たり、家茂は条約勅許問題など難しい問題に悩みました。公武合体、朝廷との融和という政局を背景に平和の維持のため、1861年に皇女和宮と結婚しました。和宮との結婚生活は短いものでしたが、とても仲睦まじい夫婦であったと言われています。そして第二次長州征伐において幕府軍の総大将となり、惜しくも大阪城で病没しました。<o:p></o:p>

 家茂将軍は人品、風格が殊に秀れ、もし幕末の動乱期ではなく、平時に将軍となって長命であったなら、徳川歴代将軍の中でも屈指の大名君になったであろうと言われています。これは勝海舟をはじめ多くの幕臣が、家茂を生涯の主君と崇めたと言われたことからも窺えます。<o:p></o:p>

 将軍家茂は人間として最も大切な美質である、誠実さと謙虚さを備えていました。また若年の頃から周囲の者への思いやりと気配りができる心の細やかな人物でした。上洛の時にも和宮が欲しがった西陣織を求めることを忘れませんでした。見事な西陣織が京都での激務の間に用意され、和宮に届ける手配りがなされました。この品は家茂が大阪城で他界した後、和宮に届けられ、夫を失った悲しさを一層深くすることになりました。<o:p></o:p>

 また次のような逸話もあります。ある時大奥で将軍に傷んだ菓子が供されたことがありました。家茂は匂いで直ぐにそれに気付き、一同にそれを口にしないように言いました。驚いたお付きの老女頭がお毒味役を厳しく詮議しようとしましたが、「大したことではない。この事は無かったことにせよ」と申し渡したとのことです。一人の犠牲者が出ることもなく、居並ぶ大奥の人々に大きい感銘を与えたということです。<o:p></o:p>

 そして家茂は臨終にあたり、自分は将軍として、また人間としてなすべきことを果たしたであろうかと自問したとのことです。<o:p></o:p>

 さて家茂の他界の後、将軍職を継いだのは徳川慶喜でしたが、この人は情勢が不利と見るや幕府と徳川家を放り出した人物で、家茂とは対極的な性格の持主でした。<o:p></o:p>

  和(かず)に子が無くて二心が役に立ち<o:p></o:p>

和宮に子供ができなかったので(数の子が無い)ので鰊が役に立ったという江戸庶民の狂句があります。二心とは定見がなくその日の気分で言うことがころころ変わることを指します。また豚を好んで食したので豚を食べる一橋殿、すなわち「豚一」と言われました。こうした言葉の中には、将軍に対する敬意が全く感じられません。<o:p></o:p>

 しかし、このような人物が最後の将軍であったため、早々と幕府を放擲し、東西両軍が江戸の町で激しい戦争になって、多くの命が犠牲になることが避けられたとも言えます。<o:p></o:p>

   中村彰彦著 『パックス・トクガワーナの時代』集英社<o:p></o:p>

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回文

2008-11-03 12:14:45 | 文学

前から読んでも後から読んでも読める文を回文と言います。<o:p></o:p>

下記のように同じように読める場合もあります。例えば<o:p></o:p>

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新聞紙   (シンブンシ)<o:p></o:p>

竹藪焼けた (タケヤブヤケタ)<o:p></o:p>

崖飛ぶと怪我(ガケトブトケガ)<o:p></o:p>

冴えた答さ (サエタコタエサ)<o:p></o:p>

松茸鍋食べ泣けた妻 (マツタケナベタベナケタツマ)<o:p></o:p>

など、昔からあるものを含めて挙げましたが、一種の言葉遊びというだけで、<o:p></o:p>

優れた回文は少ないようです。<o:p></o:p>

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ところで、中国 宋の蘇東坡は素晴らしい回文を数多く作っています。<o:p></o:p>

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題金山寺回文体
潮随暗浪雪山傾    潮は暗浪に随い雪山傾く
遠浦漁船釣月明    遠浦 漁船 月明を釣る
橋対寺門松逕小    橋は寺門に対し松逕小なり
檻當泉眼石波清    檻は泉眼に當り石波清し
迢迢緑樹江天暁    迢迢たる緑樹 江天の暁
靄靄紅霞晩日晴    靄靄たる紅霞 晩日晴る
遥望四辺雲接水    遥に望む四辺雲水に接し
  
碧峰千点数鴎軽    碧峰千点 数鴎軽し

   これを逆読すると

軽鴎数点千峰碧    軽鴎 数点 千峰碧なり
水接雲辺四望遥    水は雲辺に接し四望遥なり
晴日晩霞紅靄靄    晴日晩霞 紅靄靄たり
暁天江樹緑迢迢    暁天の江樹 緑迢迢たり
清波石眼泉當檻    清波石眼 泉 檻に當る
小逕松門寺対橋    小逕松門 寺 橋に対す   
明月釣船漁浦遠    明月 釣船 漁浦遠し   
傾山雪浪暗随潮    山に傾く雪浪 暗に潮に随う 
  

 漢字は表意文字なので、普通の読み方をした場合も、逆さ読みした場合も<o:p></o:p>

同じ漢字が使われると意味が似てしまう恐れがあります。<o:p></o:p>

それを回避して順読みと逆読みの両方とも独立した別の漢詩にするには優れた<o:p></o:p>

力量が必要となることでしょう。<o:p></o:p>

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