yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

高適 除夜の作 霜鬢明朝又一年 

2023-12-31 06:12:45 | 文学
毎年、大晦日になると決まって想い起こす漢詩、除夜の作(高適)です。

旅館の寒燈獨り眠らず 
客心何事ぞ轉(うた)た凄然
故郷今夜千里を思ふ 
霜鬢明朝又一年

詩人 高適(こうせき)は四川省成都に流浪して来た杜甫を温かく援助し親交を結びました。晩年は不遇でした.

結句 霜鬢明朝又一年    
白髪に又 一年がむなしく加わる、にしみじみとしたものを感じます。

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椰子の実

2023-12-29 06:07:14 | 文学
明治31年(1898年)の夏、東京帝大の2年だった柳田國男(後に民俗学者)は愛知県渥美半島の突端の伊良湖岬に1か月滞在しました。岬に隣り合う恋路が浜で、風の強かった翌朝に黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ流れ着いたのを発見しました。そして岬付近の潮の流れから見て「日本民族の故郷は南洋諸島である」と確信し、これを親友の島崎藤村に話しました。この浜を訪れたわけでもない藤村は、この話から詩想を得て、椰子の実の漂泊の旅に己の憂を重ね、名詩「椰子の実」を詠みました。
 流れ着いた、たった一つの椰子の実から、民族学者は日本民族の起源を思い、文学者は名詩を着想しました。
  
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子の実ひとつ
故郷(ふるさと)の 岸をはなれて
汝(なれ)はそも 波にいく月

旧(もと)の樹(き)は 生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた 渚を枕 
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
あらたなり 流離の憂ひ
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる 八重の汐々(しほじほ) 
いづれの日にか 国に帰らむ

後に、昭和11年 日本放送協会の依頼で大中寅二が曲を付けて以来、「国民歌謡」として
広く親しまれ、日本の抒情歌謡の代表的な作品になったばかりでなく、伊良湖岬の名も有名
なりました。
なお、藤村の詩の最後の句、「いづれの日にか 国に帰らむ」は杜甫の漢詩「絶句」にある「何レノ日カ 是レ帰年ナラン」と同趣です。



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森保監督 ピッチで答礼

2023-12-26 06:31:20 | 文化
昨年12月6日、FIFAワ-ルドカップ カタ-ル大会において、日本・クロアチア戦があり、残念ながら日本は敗れましたが、その直後、日本代表監督の森保一氏は、ピッチにおいて、スタンドで応援してくれたファンに対して、感謝の気持ちこめて6秒間、90度に身体を曲げ深々と頭を下げました。(写真 下)この行為に対して、英国、韓国などの世界のメディアは、敬意をこめて称賛しました。不肖もこの写真に感動しました。森保監督(54歳)は、静岡県掛川市の出身で、長崎市で育った元・サッカ-日本代表で、現在日本代表チ-ムの監督を務めておられます。日本にこのように折り目正しい監督がいることを誇りに思います。12月7日夕刻には吉田主将らと共に胸を張ってカタ-ルから成田空港に帰国されたニュ-ス映像を見て安堵しました。お疲れ様でした。
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西山 女流四冠 佐藤康光九段に善戦

2023-12-23 06:59:07 | 将棋
将棋の西山朋佳さん(28才)は、女流のタイトルの四冠(白怜、女王、名人、王将)を持つ強豪で、第27回朝日杯将棋オ-プン戦で快進撃を続けています。
    一次予選では、男性プロの谷合廣紀四段、渡辺和史六段、佐々木大地七段に勝って二次予選に進出しました。なお佐々木大地七段は、先日、藤井八冠に王位戦と棋聖戦で挑戦した強豪です。西山さんの力は男性プロとほぼ同等ということを証明しました。二次予選では元名人・連盟会長の佐藤康光九段と当りました。(下 写真)終局後、佐藤九段は「さすがだなと。途中は苦しい戦だと思いました」と語り、勝負に臨んだ心境を「いつも敬意持っていますので。しっかり戦わないと、と思っていました」と振り返りました。西山四冠は「佐藤先生との将棋ですから、読んでいてすごく楽しかったんですよ。本質的な力は全く違いますし、偉大な先生に対して失礼かもしれないですけど、第一感も読み筋もどこか似ているなと以前から思っていたんです。だから指していて本当に面白くて」と語り、敗戦にも笑顔であったそうです。


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幕末以後の有名人の享年

2023-12-20 05:53:15 | 文化
幕末以後の有名人の享年をまとめてみました。志士といわれた長洲藩士や土佐藩士が超短命であったことは驚きです。
また、不肖が気になる50人の有名人の享年を下に記します。当然のことながら50人の人選には不肖の趣味が影響しています。

  吉田 松陰 29才 (
  坂本 龍馬 31才
高杉 晋作 29才
久坂 玄瑞 24才
武市 瑞山 36才
小松 帯刀 35才
西郷 隆盛 49才
大久保利通 48才
木戸 孝允 43才
大村益次郎 45才
河井継之助 41才
小林虎三郎 49才
近藤  勇 34才
土方 歳三 34才
榎本 武揚 72才
山岡 鉄舟 52才
松平 容保 57才
秋月悌次郎 76才 
  勝  海舟 76才
  徳川 家茂 21才
      皇女 和宮 31才
      天璋院篤姫 47才
      五代 友厚 49才
      松方 政義 89才
        伊藤 博文 68才
        山県 有朋 84才
        澁澤 榮一 91才
        岩崎弥太郎 50才
        徳川 慶喜 77才
        山川 浩  53才
        山川健次郎 77才
        正岡 子規 35才
        夏目 漱石 49才
        森  鴎外 60才
        秋山 真之 50才
        東郷平八郎 86才
        広瀬 武夫 35才
        大山  巌  74才
        山本五十六 59才 
        今村 均  82才
        木村 義雄 81才
        升田 幸三 73才
        高川 格  73才
        飯田 蛇笏 77才
        三船 敏郎 77才
        高倉 健  83才
        司馬遼太郎 81才
        半藤 一利 91才
   新田 次郎 68才
   佐貫 亦男 89才
   小島 直記 89才 
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蜀相(しょくしょう) 杜甫

2023-12-17 06:21:27 | 文学
詩聖・杜甫の七言律詩を紹介します。
  蜀相
丞相祠堂何処尋 
錦官城外柏森森
映階碧草自春色
隔葉黄鸝空好音
三顧頻繁天下計
両朝開済老臣心
出師未捷身先死
長使英雄涙満襟
         「読み方」
丞相ノ祠堂 何レノ処ニカ尋ネン 
錦官城外 柏(はく)森森
階ニ映ズルノ碧草 自カラ春色
葉ヲ隔ツルノ黄鸝(こうり) 空シク好音
三顧頻繁(ひんぱん)ナリ 天下ノ計
両朝開済ス 老臣ノ心
出師(すいし)未ダ捷(か)タザルニ 身 先ズ死シ
長ニ英雄ヲシテ 涙 襟ニ満タシム
    「訳」
   蜀の丞相諸葛孔明の祠堂は、どこに尋ねたらよいのだろうか。
   錦官城外、柏の木々がこんもり茂っている所がそれだ。
祠堂の階段に映える緑の草は、春の来るにまかせて美しく萌え、
葉かげの鶯は、聞く人もないままに美しい声で鳴いている。
昔、蜀の劉備は三度も孔明を訪ねて、天下を安定させる策を問うた。
孔明はこれに心動かされて、劉備・劉禅(りょうぜん)の二代に仕え、 
創業・守城にと老臣のまことをつくした。
しかし、魏を討とうと兵を出し、
まだ戦いに勝たないうちに、彼の命はつきてしまい、
長く後世の英雄たちに涙を流させ、襟を濡らさせることになった。
 「鑑賞」

「三顧」は、劉備が孔明の草堂を三度訪れて出馬を乞うたこと。「開済」は国を開き、民を済(すく)うこと。劉備とともに国の礎を築き、劉備の子の劉禅を補佐してよく国を治めたことをいいます。「出師(すいし」は出兵。孔明は魏討伐のため関中に出兵するに際し、有名な「出師の表」を劉禅に奉りました。先帝の遺志を継ぎ、漢王朝を復興すべく粉骨砕身しますが、魏軍と対峙中、業半ばにして五丈原の陣中に没しました。その諸葛孔明の誠忠が、杜甫自身の唐王朝に対するそれに強く共鳴したのでしょう。最後の二句は、特に諸葛孔明に対する杜甫の敬慕の情と深い感慨が込められた名句として、長く愛誦されています。
        石川忠久「ビジュアル漢詩 心の旅」世界文化社 
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陽関三畳 王維

2023-12-14 06:17:04 | 文学
初唐の詩人、王維は、使者の役目を帯びて安西に旅立つ元二(げんじ)を「陽関三畳」を詠んで送りました。以来、送別の時には、王維のこの詩を三度繰り返して詠うのがならわしとなったというように、代表的な送別の詩です。

 送元二使安西

渭城朝雨浥軽塵 
客舎青青柳色新
勧君更尽一杯酒
西出陽関無故人

         「読み方」

元二ノ安西ニ使イスルヲ送ル

渭城ノ朝雨 軽塵ヲ浥(うるお)シ 
客舎青青 柳色新タナリ
君に勧ム 更ニ尽クセ一杯ノ酒
西ノカタ陽関ヲ出ヅレバ 故人無カラン

「訳」
        別れの朝、渭城の町は夜来の雨が軽い土ぼこりをしっとりとうるおしている。
        旅館の前の柳は芽吹いたばかり。ほこりが洗い落とされ、水をふくんで、よりいっそう青々と見える。
        いよいよ旅立つ元二君、さあ、もう一杯酒をのみたまえ。西のかた、陽関という関所を出たならば、もういっしょに酒を汲み交わす友達もいないのだから。

「鑑賞」

       前半二句は、すがすがしい雨上がりの春の情景。昨夜、長安から元二を送ってこの渭城の町にきて、別れの宴を催し、今朝はいよいよお別れ。宿屋の前の柳の芽は雨に洗われて目にしみるように青々としている。中国では昔から送別の時、楊柳の枝を手折って環を作り、それを旅人に送って旅の平穏を祈るならわしがあり、柳は別れの詩によく登場します。
       後半二句、昨夜は遠く旅立つ元二と心ゆくまで酒を飲んだ。だが、いよいよ別れの間際となれあ、また寂しさがこみ上げてくる。そこでせめてもう一杯。ひとたび西の陽関を出れば、そこは砂漠が広がる未知の世界。もう一緒に酒を酌み交わす友もいないだろう。
       
石川忠久「ビジュアル漢詩 心の旅」世界文化社 



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贈る言葉

2023-12-11 06:55:31 | 文学
不肖が好む「贈る言葉」です。
 青年、武田鉄矢氏は、かつて、博多の天神で失恋をしたということです。
 それでも、失恋の経験を糧に名詩を紬ぎ出しました。
 この歌の詞と曲と歌唱が心に沁み、ほっこりするのです。

 JASRAC(日本音楽著作権協会)から歌詞の無断掲載は知財権の侵害の恐れがあると指摘されましたので、有名な歌詞の部分を削除いたしました。

福岡、天神のライブハウス「照和」から、甲斐よしひろ、チュ-リップ、井上陽水、長渕剛等のア-チストが巣立ちました。武田鉄矢もその一人でした。
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百年兵を養うは平和を守るため 山本五十六

2023-12-08 06:31:24 | 歴史
山本五十六連合艦隊司令長官はハワイに出撃する艦隊の全指揮官を集めて次のように言いました。「昭和15年12月X日をもって、米英に戦端をひらく。X日はいまのところ12月8日の予定である。しかし、いまワシントンで行なわれている日米交渉が成立したならば、12月8日の前日の午前1時までに、出動全部隊に即時引揚げを命ずる。その命令を受領したときには、たとえば攻撃隊の発信後であってもただちに収容し、反転、帰投してもらいたい。何があっても、である」
すると機動部隊司令長官南雲忠一中将が反対の声をあげました。「それは無理です。敵を目前にして帰ることなどできません。士気にも影響します。そんなこと、実際問題として実行不可能です」
二、三の指揮官が同調してうなずき合い、なかに「出かかった小便は止められません」と下世話なことをいうものもありました。
山本は、一瞬、キッとなった表情をして、かつてない激しい口調でいいました。
「百年兵を養うのは何のためだと思っているのか!一(いつ)に国家の平和を守らんがためである。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるのなら、ただいまより出動を禁止する。即刻辞表を出せ!」
山本がこの戦争に反対であることは幹部の人たちには知れ渡っていましたが、最後の最後まで強い信念で反対しているとは、だれも思っていなかったようです。全指揮官がこの強い言葉にシュンとなって、山本の顔を見守るばかりでした。
それにしても「百年兵を養うは平和を守らんがためである」とはじつにいい言葉でしょう。いまの日本にもそのまま通用します。自衛隊は文字どおり自衛のための兵力なのです。国家の平和を守るための存在であり、それで営々として陸海空の三自衛隊はこの国は養っているのです。こちらから他国へ攻めていくというようなことがあってはなりません。山本ではありませんが、一に国の平和を守らんがためなのです。
現実には、山本の願いも空しく日米交渉は結局は破綻しました。12月2日午後5時30分、山本五十六長官の名をもって出動している全艦隊にたいして電報命令が発せられました。「ニイタカヤマノボレ一二○八」12月8日、戦争は開始されました。「作戦どおりに全軍突撃せよ」ということ、この日の太平洋は終日南から烈風が吹き荒れていました。
 
     半藤一利「戦争というもの」PHP研究所

 
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琵琶湖周航の歌

2023-12-05 06:09:47 | 文学
不肖が特に好む歌です。大正六年に小口太郎(おぐちたろう)が作詞しました。第三高等学校の学生が歌い始め、現在まで歌い継がれているロマンと抒情に溢れた名曲です。加藤登紀子の歌唱でヒットしたのは周知のことです。

(一番) われは湖(うみ)の子さすらひの 旅にしあればしみじみと
       昇る狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば

(二番) 松は緑に砂白き 雄松が里の少女子は
赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや

(三番) 波の間に間に漂へば 赤い泊火なつかしみ   
     行方定めぬ浪枕 今日は今津か長濵か
   
(四番) 瑠璃の花園珊瑚の宮 古い傳への竹生島   
     仏の御手に抱かれて ねむれ少女子やすらけく

(五番) 矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと   
     古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと

(六番) 西国十番長命寺 汚れの現世(うつしよ)遠くさりて
     黄金の波にいざこがん 語れ我が友熱き心   
     

大正六年六月、第三高等学校(現京都大学)の二部のクルーは学年末(当時は七月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の美保ケ崎を漕ぎ出して一日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、二日目の六月二十八日は、今津の湖岸の宿で疲れを癒していました。その夜、クルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と同行の漕友に披露し、その詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節にのせるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。
小口太郎は明治三十年生まれ。長野県岡谷市出身。第三高等学校に学び、後に東京帝国大学物理学科に進みました。「有線および無線多重電信電話法」の特許を取るなど多才でしたが僅か二十六才で他界しました。
ところが驚いたことに最近、平成七年になって、この歌の作曲者は吉田千秋だということが判明しました。吉田千秋は明治二十八年に歴史地理学者吉田東伍の次男として新潟県新津市に生まれました。東京農科大学(現東京農業大学)に入学しましたが体調を崩して一年ほどで退学、その後郷里で療養生活を送りましたが二十四才で他界しました。
大正四年に「音楽界」八月号に琵琶湖周航の歌の原曲となる「ひつじぐさ」を発表しました。ひつじぐさは睡蓮(Water Lily)の和名です。
千秋は音楽や文学に非凡な才能を持っていましたが、この歌が広く歌われていることを知ることもなく病気で夭折してしまいました。惜しいことでした。
作詞が小口太郎 二十才、作曲が吉田千秋 二十才、奇しくも同じ二十才でした。若い二人は青春の一瞬を煌めきましたが、その後二人とも余りに短い生涯を閉じました。しかし、この名曲は百年も愛唱され続けており、今後も歌われることでしょう。
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