秋月悌次郎は第五高等学校(熊本)で教授の職にありました。明治26年(1893年)1月の末に宮内省の顕官である高崎正風が秋月を訪ねて来ました。高崎は陸軍中将北白河宮能久(よしひさ)親王が熊本第六師団長に任じられて熊本入りされたのに随行して熊本にいたのでした。<o:p></o:p>
高崎は30年前の文久3年(1863年)8月に京都で秋月胤永(かずひさ)を訪ね、會薩同盟締結を提案した薩摩藩士でした。その後、御歌所の長官を経て、この時には北白河宮第六師団長の副官になっていました。<o:p></o:p>
秋月を訪問したその夜は、漢詩の贈答などをしながら、往事を偲んで盃を傾けました。<o:p></o:p>
翌朝、いつものように黒い官服で第五高等学校の教室にあらわれた秋月悌次郎は、登壇して書物を包んである紫色の風呂敷を空けましたが、本を開いて講義を始めようとしませんでした。かなり時間が経ってから「実は昨晩、文久以来の友人が30年ぶりに訪ねて来たので、終夜、酒を酌みかわしてしまった。そのため、今日の講義の下調べができなかった。それ故、諸君には誠にすまないが、今日の講義は勘弁してもらいたい」と言うと丁寧に一礼し教室を出てしまいました。<o:p></o:p>
教授控え室でこの話を知った同僚が、辺りに悌次郎の姿が無いことを確かめてから言いました。「それにしても漢学者というのは融通の利かないものだ。あれほどの大学者なら「論語」など暗誦しておられるだろうに。何とか講義ができなかったものでしょうか。」すると傍で聞いていた法文の教授、末広厳太郎(いずたろう、後に東京帝大教授)が反論しました。「いや、そうじゃない。秋月先生のように良心的であって初めて、本当の先生になり得るのだ。私は今の話を聞いていて深く反省させられた。秋月先生は偉いと思うよ。」<o:p></o:p>
ただ、「休講」と宣言してもよいところなのに、さらに言えば下調べをせずとも講義することは可能なのに、律義にこう述べて学生達に陳謝する。これが秋月胤永という人間なのだということを末広厳太郎はよく知っていました。<o:p></o:p>
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