京都守護職始末の一連のブログの最後にあたり、「七年史」とそれを編輯した北原雅長に触れます。
「七年史」は幕末、維新の歴史資料です。文久2年(1862年)から明治元年(1868年)までの7年間の歴史事実を編年体で記述してあり、會津藩の勤王の立場を知ることができます。
この本は明治33年に出版されたもので編輯者、北原雅長(會津藩家老神保内蔵助の次男)は 後に異境の地 長崎の市長となりました。
ここで、北原雅長の生家、神保家に関して述べます。
神保内蔵助: 雅長の父は會津若松の戦いに敗れ、同じく家老の田中土佐と城下の屋敷で共に自決しました。
神保修理: 内蔵助の嫡男、藩の嘱望を集めた人材で、容保公の
側近となって京都にありましたが、鳥羽伏見の敗戦の責任を取る形でj自刃した悲劇の藩士です。
神保雪子: 修理の妻、會津武士の妻の矜持を胸に、自ら命を絶ちました。
下の写真は「七年史」の表題と雅長が書いた序文の一部です。