yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

アルプスの谷 アルプスの村

2009-04-29 07:03:48 | 文学
  

故・新田次郎氏が1964年にこのタイトルの本を書きました。1961年の夏、ヨーロッパに出張中であった佐貫亦男教授が案内役となり、新田次郎氏に同行してヨーロッパ・アルプスを巡りました。<o:p></o:p>

佐貫先生と新田次郎氏は気象庁において同僚の間柄でしたが、佐貫先生は東大に転出して航空学科の教授になっており、新田次郎氏は文筆活動を始めており、作家への道を歩んでおりました。この旅の紀行文から「アルプスの谷アルプスの村」が生まれましたが、私もこの本をスイス・アルプスの入門書として愛読して来ました。<o:p></o:p>

新田次郎氏はグリンデルワルドに着く直前に目に入ったアイガーを仰いで「これで死んでもよい」とつぶやいたそうです。不肖私も1992年にグリンデルワルドを訪れた際に、アイガー北壁ののしかかって来るような迫力に圧倒されたことを憶えています。新田次郎氏は自分の故郷の信州の山々とあまりに異なる山容に感極まったとのこと。次いで、ヨーロッパ・アルプスと日本アルプスでは、岩肌の色も肉づきも骨格も違い、人種が異なる、いや山種が異なると感じたとのことです。こうした感動とヨーロッパ・アルプスの旅の経験がこの後の新田次郎氏の山岳文学の基になったようです。また、このようなきっかけを作ってあげることができ、案内役であった佐貫先生も安堵されたようです。<o:p></o:p>

 新田氏のような優れた作家の友人を持つと、有り難いことに、佐貫先生ご本人も驚く程の人物として、大いに持ち上げて描写してくれたのだそうです。例えば「佐貫先生は、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語がペラペラ」などと。確かに、登山電車の中でドイツの子供達が騒ぐのを懇々と説諭した場面も紹介されていましたから、ドイツ語ペラペラは事実でありましょう。<o:p></o:p>

なお佐貫先生は別の本の中でも、スイス・アルプスを歩くのに、ドイツ語、フランス語、イタリア語は必要、英語は不要と書いておられました。<o:p></o:p>

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新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』 新潮社<o:p></o:p>

佐貫亦男『佐貫亦男の旅の回想―アルプスとドイツを旅して50年』 <o:p></o:p>

グリーンアロー出版社<o:p></o:p>

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難しい英語の発音

2009-04-24 06:41:26 | 文化
   

  私が敬愛する佐貫亦男先生(エッセイスト、航空工学者)は英語の達人でもあり、著書の中で英単語を正確に発音することは難しく、日本では誤った読み方が定着してしまった語がいくつかあると述べておられます。<o:p></o:p>

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まず、Rolls-Roise これはロール・ロイス と読まなければなりません。ロールズ・ロイス社はご承知の通り、高級乗用車と航空機エンジンのメーカーの社名で創業当時の出資者であるチャールズ・スチュアート・ロールズと技術者のフレデリック・ヘンリー・ロイスの名を取って社名になっています。日本ではロールス・ロイスという誤用が定着してしまい、もはや訂正が不可能な有様です。<o:p></o:p>

次に Greenwich、これは「グリニジ」と読むのが正しいのです。世界標準時を決める位置(経度0度)にあるため、昔から日本ではグリニッジ標準時が定着していますが、このグリニッジと言う読み方も誤りだそうです。<o:p></o:p>

これと似たのに Norwich がありますが、これも「ノリジ」と読みます。<o:p></o:p>

また、Edinburgh   「エジンバラ」<o:p></o:p>

   Farnborough 「ファンバラ」の読みも難しいです。<o:p></o:p>

これらは、ゲール語源の語であるためでしょう。<o:p></o:p>

また、Gloucester 「グロスター」<o:p></o:p>

   Leicester  「レスター」<o:p></o:p>

   Geoffrey  「ジェフリー」<o:p></o:p>

   Worcester  「ウスター」 <o:p></o:p>

も読むのが難しいと思います。<o:p></o:p>

 なおイギリス生まれの「ウスターソース」は日本でもポピュラーです。<o:p></o:p>

Southampton「サウスアンプトン」は日本では「サザンプトン」になってしまっています。<o:p></o:p>

 Mercedes「マーセイディーズ」これはダイムラー・ベンツ社の車名、往時の総代理店社長(スペイン人)の娘さんの名だそうです。日本では、メルセデスもよく使われています。<o:p></o:p>

 これも英語の読み方としては、おかしいのだそうです。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

 「上記のようなくだらないことはどうでもいいや」<o:p></o:p>

と読者はつぶやくでしょう。佐貫先生は「それを知って、わざと書いているのだよ。」と結んでおられました。<o:p></o:p>

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『佐貫亦男のひとりごと』グリーンアロー出版社<o:p></o:p>

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お礼

2009-04-24 06:34:03 | 近況
 

いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。<o:p></o:p>

お蔭さまで、昨日、アクセス数が4万に到達いたしました。<o:p></o:p>

平成18年の3月に書き始めてから3年余りになりました。<o:p></o:p>

この間に40,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。<o:p></o:p>

引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。<o:p></o:p>

コメント (3)
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九連環

2009-04-23 07:42:37 | パズル

 九連環は、中国、三国時代の天才軍師、諸葛孔明が作ったと言われる智恵の輪の一つです。出征や蜀の国の政務のために家を留守にすることが多かった孔明は、妻のためにこの智恵の輪を作り、退屈な時にはこれで遊ぶようにと言って渡したそうです。この智恵の輪はとても難解で、説明書を良く読んで理解しないと解くことができません。<o:p></o:p>

私は約40年前、学生実習の時、東京深川にある大企業の研究所で、研究補助の職工さんから、ご本人が手作りしたこの玩具を頂戴しました。これが九連環との最初の出会いでした。当時は、その解き方が精妙なことに魅了されたものです。またその後、旅行で飛騨の高山市に行った時にも古い玩具のおみやげ屋で売っているのを見かけました。最近もテレビの人気番組で九連環の紹介と、これを解く名人が実演をしていました。<o:p></o:p>

   (下は九連環の写真)

   <o:p></o:p>

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上杉謙信の漢詩

2009-04-19 12:28:07 | 歴史
 

 戦国時代の武将、上杉謙信に「九月十三夜」という漢詩があります。<o:p></o:p>

  むかし、陰暦九月十三日の夜には満月を賞でるならわしがありました。<o:p></o:p>

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九月十三夜<o:p></o:p>

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霜満軍営秋気清<o:p></o:p>

数行過雁月三更<o:p></o:p>

越山併得能洲景<o:p></o:p>

遮莫家郷憶遠征<o:p></o:p>

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霜は軍営に満ちて秋気清し<o:p></o:p>

数行の過雁(かがん)月三更<o:p></o:p>

越山併(あは)せ得たり能洲の景<o:p></o:p>

遮莫(さもあらばあれ)家郷遠征を憶ふ<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

霜が陣営に満ちて秋の気配が清らかである。<o:p></o:p>

月の光の中を雁が幾列も飛んで行く。<o:p></o:p>

時刻は三更(十二時)になった。<o:p></o:p>

能洲の景色の中に越後、越中の山を併せることができた。<o:p></o:p>

故郷では家族がわが身を案じていることだろう。<o:p></o:p>

ままよ、それは、それとして、どうでもよいことよ。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

越後から遠く遠征して能登の七尾城を陥し、得意になっている<o:p></o:p>

英傑の稚気が感じられます。<o:p></o:p>

ただ謙信作と伝えられるただ一つの漢詩であるが故に、後世の創作<o:p></o:p>

ではないかという説もあります。<o:p></o:p>

謙信の辞世の漢詩は<o:p></o:p>

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四十九年一睡の夢<o:p></o:p>

一期の栄華一杯の酒<o:p></o:p>

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でした。酒を愛し、義をもって戦国時代を駆けぬけた無欲の将、謙信らし<o:p></o:p>

い辞世の詩だと思われます。<o:p></o:p>

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先手の利

2009-04-15 19:18:06 | 将棋

  

  知能ゲームにおいての先手の利には大きいものがあります。従来、囲碁・連珠(五目ならべ)・将棋は、特にそれが顕著だと考えられていました。調べてみたら、何と日本で発明されたオセロというゲームは、後手有利が確定しており、ゲームは先手と後手をもって最低2回ワンセットで戦うことになっているとのことです。それに比べて囲碁と連珠は先手の利が圧倒的に大きいので、先手に対してハンデイキャップとなる制約を課するルールがあります。囲碁の場合は「こみだし」と言って、現在では6目半を後手より余分に勝ち取らなければ勝ちにならないルールになっています。連珠では先手に三三、四四、長連を禁止するルールがあって、それによって先手と後手のバランスが取られています。<o:p></o:p>

  将棋には、古来、それに似たルールがなく、私は先手が有利と信じていました。<o:p></o:p>

ところが、最近、その説が初めて覆ったという報道があったのですから驚きました。<o:p></o:p>

 統計を取り始めた1967年度から2008年度の41年間のプロ棋士の公式対局、約10,000局において先手の平均勝率は0.526であり、先手有利説を裏付けています。<o:p></o:p>

 これに対して2008年度中の2340対局においての先手勝率は0.497であり、初めて5割を下回り、先手有利の定説に疑問符がつきました。<o:p></o:p>

 日本将棋連盟専務理事の西村一義氏は「将棋の戦法が最近、大幅に進化した」と述べ、羽生

名人は「最近、研究が進み、後手の作戦の幅が広がり、先手が作戦の主導権を持ち続けることが困難になった」と言っています。その羽生名人は1989年には先手で31局を戦い29勝2敗(勝率0.833)、最近の10局では先手で5勝1敗(勝率0.833)ですから、そのご本人が先手有利を否定するのは説得力が不足しており、私などは、依然として先手が少し有利なのではないかと考えたくなります。かように統計的にも人によってもいちがいに先手有利とは決めかねます。この一事をもってしても、改めて将棋とは奧の深いゲームであることを感じました。<o:p></o:p>

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年々歳々花相似たり

2009-04-10 10:08:54 | 文学

「「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。」<o:p></o:p>

人口に膾炙(かいしゃ)されている名対句です。自然は悠久であり毎年同じ季節に花が咲くが、それに対して人の世は時の移ろいとともに変わり、無常で儚いことを言っています。これは初唐の詩人・劉希夷(きい)の七言古詩、「代悲白頭翁」の一節ですが、この詩は「唐詩選・巻二」に採られており、また「和漢朗詠集」にもあることから、日本でも広く親しまれています。この詩の全文を書き下して下に記します。<o:p></o:p>

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     白頭の翁に代って悲しむ<o:p></o:p>

洛陽城東桃李(とうり)の花 飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ<o:p></o:p>

  洛陽の女児顔色を惜しむ 行く行く落花に逢うて長く嘆息す<o:p></o:p>

  今年花落ちて顔色改まる 明年(めいねん)花開いて復た誰か在る<o:p></o:p>

  已に見る松柏摧(くだ)けて薪(たきぎ)となるを <o:p></o:p>

更に聞く桑田変じて海となるを 古人復た洛城の東に無し <o:p></o:p>

今人(こんじん)還って対す落花の風<o:p></o:p>

年々歳々花相似たり歳々年々人同じからず<o:p></o:p>

  言を寄す全盛の紅顔子 応(まさ)に憐れむべし半死の白頭の翁<o:p></o:p>

  これ昔紅顔の美少年 公子王孫 芳樹の下 清歌妙舞す落花の前<o:p></o:p>

  光祿池台錦繍を開き 将軍楼閣 神仙を画く 一朝病に臥して相識無し<o:p></o:p>

  三春の行楽誰が辺にか在る 宛転たる蛾眉能()く幾時ぞ<o:p></o:p>

  須しゅゆ)に鶴髪乱れて絲の如し 但だ看る古来歌舞の地<o:p></o:p>

  惟だ黄昏(こうこん)鳥雀(ちょうじゃく)の悲しむ有るのみ <o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

この世の無常が見事に詠み込まれています。「四高寮歌」などにも採られている「三春の行楽」(三ヶ月の間の春の行楽の意)の語も見えますし、「松柏摧(くだ)けて薪となり、桑田変じて海となる」も、よく使われます。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

さて作詩に没頭していた作者の劉希夷は、ある時、「年々歳々、、、」を思いつき、得意になっていましたが、舅(しゅうと)の宋之問に「この句は不吉だから削除せよ、そしてこの句を私に譲ってくれ」と言われました。しかし劉は一旦受け容れたものの、放っておきました。それが原因で劉希夷は怒った宋之問に殺されたとも言われています。(宋之問も有名でこちらのほうが詩作の力が高かったとの説もあり、この話の真偽のほどはよくわかっていません。)このように「名詩句には因縁のあるエピソードがつきもの」といわれていますが、この話は格好の一例です。<o:p></o:p>

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武田信玄公の息女と会津松平家

2009-04-05 08:36:07 | 歴史

甲洲の武田家は清和源氏の本流、新羅(しんら)三郎・源義光を祖とする名家です。戦国時代には信玄の下で甲斐・信濃を治め、精強な騎馬軍団を擁して上洛を目指しましたが織田・徳川連合軍に阻まれて果たせませんでした。信玄公には七男、六女がありました。長男、義信は父との確執の末、寺に幽閉された後、自刃。次男信親は盲目であり武田家滅亡の時に自刃、三男信之は早世。四男勝頼は信玄公の跡を継ぎましたが、織田徳川連合軍に敗れて討ち死にし、ここに武田家は滅亡しました。五男盛信は高遠城で織田軍に敗れて討死。また六男信定も討死、七男信春は上杉景勝に仕えたと言われておりますが、七人の男子は戦国時代にあって皆、苛烈な運命にさらされました。それに比べて息女たちは比較的平安な人生を送った姫が多いようです。長女黄梅院、次女見性院、三女真竜院、四女は夭折、五女信松院。六女の菊姫は信玄の嘗ての宿敵上杉謙信の甥、上杉景勝に嫁ぎ、睦まじい家庭をもったと言われています。この菊姫と直江兼続の妻、船は姉妹のように仲睦まじい関係であったとのことです。また、景勝と兼続主従も兄弟と同様であったと言われています。<o:p></o:p>

ここでは、後に会津藩主となった保科正之と信玄公の息女のことを記します。<o:p></o:p>

信玄公の次女、見性院は武田家の重臣穴山梅雪・信君に嫁ぎました。梅雪は徳川家に奔った後、非業の最期を遂げましたが徳川家康は梅雪の忠勤を多として江戸城内、田安に比丘尼屋敷と知行を与えて、見性院を厚遇しました。二代将軍秀忠は静との間に男子を設けましたが、正室の達子は悋気(りんき)が異常に強く、この母子を共に抹殺しようとしました。困りはてた静は子を抱いて比丘尼屋敷(びくにやしき)に逃げ込み、見性院に庇護されるようになりました。達子にも比丘尼屋敷にまでは手が出せず、見性院の下でこの子は平穏にすくすくと成長しました。見性院はいわばこの子、幸松君の育ての親と言えます。幸松君の「幸」は甲洲の「甲」に通じますし、「松」は松平家の「松」から取られています。 見性院は武田家に伝わる累代の宝物を幸松に与えて慈しみました。おそらく幸松君により武田家再興を想い描いていたのではないかと推測されます。その頃、八王子に庵をむすんでいた妹の信松院もしばしば江戸城の比丘尼屋敷を訪れ、幸松君の養育を助けました。信松院は信玄公の第五女で、織田信長の嫡男信忠との縁談がまとまっていたのですが、信玄が上洛軍を起こしたために自然に破談になりました。この後、この美貌の姫は多くの縁談があったにもかかわらず、すべて謝絶した末に八王子に隠棲していました。二人の信玄の姫に育てられた幸松君ですが、女性だけに囲まれていてはひ弱に育つことを心配して、見性院はさらに逞しい武士にするために、幸松君が七歳の時、身を切られる思いで幸松君を一人、武田家ゆかりの信州・高遠藩に下らせ、保科家に養育を委ねました。幸松君はその後保科家を継ぎました。この幸松君すなわち後の保科正之は、三代将軍家光の篤い信頼を得て、三代将軍と四代将軍家綱の時代には副将軍として政務にあたり、江戸時代初期に徳川家による文治政治の根本を定める善政を敷きました。その傍ら会津藩二十八万石の藩祖として見事な業績も挙げました。<o:p></o:p>

見性院は死後、武蔵国の清泰寺(現在、さいたま市緑区)に葬られましたが、江戸時代から今日まで、この寺には会津松平家の後援と庇護が続けられており、松平家と会津会により毎年5月に見性院殿の法要が営まれています。余談ながら土佐藩祖、山内一豊公の賢夫人も夫の死後、見性院を名のりましたが、この武田家の見性院とは別人です。<o:p></o:p>

 

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